⑦
白い、紙袋だった。
何の印字もされていない、真っ白な紙袋。持ち上げるようにして差し出す少女の上半身と顔の半分を隠すほどの大きさがあるだけではなく、厚みもそれなりにあるようで、精一杯差し出さないと、少女自身の顔に当たってしまいそうなほどの厚みだ。
中身は覗けない。ただ、その紙袋一杯に入っている感じからして、四角い何かがピッタリと収まっているようで、重さは・・・、少女が持ち上げられないほど重いわけではないが、持ち上げ続けるには辛くなるほどの重さなのだろう。細い腕が、見つめる視線の先で微かに震え始める様に、中身の重さを察して。
「・・・あっ、ちょ、ちょっと、床・・・、じゃなくてっ、カウンターにでも置こうか?」
「これっ」
「えっとぉ・・・、うん、ちょっと持つね?」
重さを察したところで、我に返った。何が何だか分からないが、腕が震えるほどの重さのものを、いつまでも持たせているわけにはいかない、と。
酷い大人の態度になっていることに気がついた途端、取り繕うように中身の分からないそれをどこかに置かせようとして・・・、しかし少女にとって大事なのかもしれないそれを床に置くというのもどうかと思い、慌ててカウンターと言い直したのだが、取り繕ったはずの大人の態度は何の意味も成さなかった。
何故なら少女は大人の善良さを装った提案を意にも介さず、ひたすらに持っている紙袋を差し出してくるのだ。受け取る以外の選択肢は認められないと、宣言するかのように。
その宣言は、受け取るしかなかった。何故ならこのままだと、酷い大人の状態が続いてしまうからだ。たとえこの様子を見る人が他にいなくても、酷い大人状態でいることに、脆弱な俺の精神は堪えられず・・・、媚びを売るような声音で、差し出されるそれを受け取ってしまう。
重い荷物を一旦受け取ってあげる親切な大人、という形で。
両手で紙袋の底を支えるようにして受け取ったそれは、思っていた通り、少女が持ち続けるには少々辛い重さだった。
そして見た目で感じていた通り、四角い紙袋にぴったりと四角い何かが収まっている感じで、少女が取っ手を離したところで覗いてみた紙袋の中には、持った感触通りの箱が入っているのが見える。何の箱かは分からない。ただ、とてもカラフルな色合いの、イラストのようなものがプリントされている箱のようだった。
一体何の箱なのだろうかと考えながら視線を上げると、手ぶらになった少女がまたあの眼差しで、じっとこちらを見つめている。大人しくて小綺麗、他に特徴らしき点が見当たらない、その他大勢に紛れてしまえば顔の印象すら失われてしまいそうな、少女。
でも、この真面目で誠実な・・・、ともすれば、汚れや嘘に堪えきれないのではないかと思える眼差しだけは特徴的なのかもしれない、少女。
・・・そういえば、こんな大きな箱、どうして気づかないでいたのだろう?
「あのね、パズルのお店でしょ?」
「・・・あっ、そう、そうだよ? 何か、好きなパズルが、」
「それね、だから、作って下さい」
「は? え? 何が・・・、」
「パズル屋さん。作って、下さい」
「・・・これ、パズルなの? ジグソーパズル?」
「うん」
少女の上半身を隠してあまりあるほどの大きさの紙袋。それなのに、差し出されるまで視界に入らなかったそれ。
その箱を視線で示しながら、少女は意外すぎることを言い出す。その眼差しと同じくらい真っ直ぐな声で、想像もしてないかった、要望を。
言葉の意味は、たぶん、分かっていた。でも、言われている意味が、分かっていなかった。
確かにここは、パズルを、ジグソーパズルを売っている店だ。ジグソーパズルを取り扱っている店ではあるけれど・・・、買ってもらう為の店であって、手持ちのパズルを完成させる為の店ではないはず。
そもそも、ジグソーパズルは作って楽しむものであって、誰かに作ってもらうのでは、パズルである意味がないだろう。ただ完成した姿を見たいだけ、飾りたいだけなら、その絵柄の写真を額に飾っておけばいいだけなのだろうし。
混乱のあまり、ジグソーパズルの、パズルであることの意義まで思考は飛び、飛んでいったそれを追いかけるように、視線は再び、紙袋に、その中に向く。
一体何の絵が描かれているのか、箱の、おそらく側面に当たるのだろう部分しか見えないので、全体の絵柄は分からない。ただ、ある意味子供らしいカラフルさで側面に描かれているのは、風船らしきものの絵・・・、否、写真だ。
色とりどりの風船を空間一杯に散りばめたような写真。風船以外が映っていないので、側面を見る限りは、ただの風船だけの写真に見えしまうそのパズルは、箱の大きさや重さからして、おそらく結構なピース数になるだろう。
確かに、このぐらいの年齢の子供が遊ぶには、大変かもしれない。それは、そう思う。でもパズルなんて遊びなのだから、期限がある仕事でもあるまいし、好きなだけ時間をかけてやればいいし、飽きてしまえばそこで止めてしまったっていいと思う。
もし飽きて止めてしまいたくても完成だけはさせたいのだとしたら、それこそ親とか周りの大人に協力してもらうべきことで、パズルを売っている店に来るようなことじゃないのだが・・・。
子供なりに考えて、考えて、来ちゃった的な感じ?
もしかして周りに頼れそうな大人がいないのかな? 親が相手にしてくれないとか? ・・・等々、考えつつ、同時に、子供に何と言うべきかを悩む。
子供なりに頑張って考えて、パズルを扱っている店ならパズルを作ってくれるかもしれない、という結論に達してしまったのだろうし、つまりそれは他に頼るべき相手がいないということなのだろうから、可哀想だという気持ちはあるが、だからといって子供の要望を、はいそうですか、と受け入れるわけにもいかない。
イレギュラーなことは・・・、正直、面倒だから。
どうにか言いくるめようとして、その為の言葉を貼りつけた笑みの下、必死で考えて・・・、いたのだが、それは途中で中断させられる。俺の考えが纏まるより早く、少女が動き出してしまったからだ。
俺が、忌避しようとした動きを。
「作ってね」
最後に、それだけを告げた。拒否する声を一切認めないそれだけが、聞こえた。
開こうとした口は、意味のある言葉を出すことが出来ない。俺が何かを言うより早く、少女はその身を軽やかに翻し、走り出してしまったから。
驚きが、動きを限定していた。だから、追いかけるタイミングが遅かったのだ。走り出そうとした時には既に、少女は店のドアに辿り着いていて、取っ手を掴んで手前に引いている。
しかしそれでも、大人と子供の足。しかも狭い店内なのだから、追いかけようとすれば追い着くのもたった数秒。底を抱えるようにして持っていた紙袋を、半ば反射のように片手で取っ手を持つようにして持ち替え、空いたもう片方の手で少女に手を伸ばしながらドアに向かって・・・、伸ばした手が少女に辿り着くと思った直前、少女が店の外に出てしまう。
僅かに空いた、ドアの隙間から、擦り抜けるように。
「うおっ!」
可笑しな声が迸ったのは、ドアに激突したから。その衝撃と痛みに、迸らさずにはいられなかったのだ。
少女がドアを引いて、僅かに開けたドアの隙間から擦り抜けるように外に出たその行動に続いて、外に出ようとしていた。店のドアは客にぶつからないように、敢えて遅く閉まるように調整しているから、手が届く寸前まで近づいていた時にはまだ、その開けられた隙間が残っていて、だからこそ、少女に続いて外に出ようとしたのだ。
しかし、それは叶わない。
隙間に入るように肩から入り込もうとした身体は、辛うじて入れた肩と腕、片方の足は外に出た。ただ、もう半分が出なかったのだ。見事なくらい、突っ掛かってしまう。
理由は大人と子供の体格差・・・、だけが理由じゃない。勿論、その差があるのだから多少は引っ掛かりもするだろう。でもそれだって、勢いがあれば閉まろうとするドアに多少身体がこすれるくらいで、激しくぶつかるほどではないはずだった。
つまり、決定的なほど引っ掛かったのは別の要因があったからで。
片方の手に握られたままだった、厚みも存在感もある、紙袋。
その存在が、引っ掛かりの元だった。力の限り閉まりかけているドアに突っ掛かり、派手な音を立ててそのことを知らせてきたのだ。ぶつかってます、と。
聞こえてきた音と紙袋を持つ手に感じた衝撃、それらが俺の全ての動きを止める。そして次の瞬間には、出掛けた店内に逆戻りするようにして挟まっている紙袋を救出すると、慌てて中を覗き込んでいた。
強引に押しつけられたとはいえ、他人、しかも子供に預けられたそれが壊れていないかどうか、中身を確かめる為に。
幸い、袋から覗いた箱は、多少変形している部分がありそうな気もするが、そこまで大きくは壊れていないようだった。中から取り出せば大きく壊れている部分があるのかもしれないが、それはまだ怖くて確かめられない。
他人からの預かり物に傷をつけました、壊しました、という可能性をすぐに直視出来るほど、俺のメンタルは強くないのだから。
中身を取り出さないまま確かめて、ひとまず少しだけ安堵して、それから我に返って少女の後を改めて追おうとしてドアを今度は全開にして外に出るが、出る前から、もう目的が果たされないことは分かっていた。
時間が、空きすぎている。たとえ子供の足とはいえ、全力で走れば充分、大人の視界から消え去れる時間が経ってしまっていたのだ。
外に出て、左右の道へ目を凝らしてみても、案の状、少女の姿はなかった。それどころか、通行人の一人もいない。本当に誰もいない通りは、映画のセットのように造り物めいている。その中にただ一人立ち尽くしている俺自身は、セットに合わせて作られた、その一部のような気すらした。
・・・気だけではなく、似たようなものなのだろうけど。
溜息を、一つ。そして、もう一つ。
もう一度だけ辺りを未練がましく見渡してみるが、当然、そんなたった十数秒の間にセットが入れ替わるわけもなく、相変わらず誰もいないし、勿論、少女の姿もない。
肩を落として、心持ち、前屈みに身体を曲げるようにして歩き出し、ドアを押し開けながら中に入って・・・、ふと、何か、とても不思議なものを目の当たりにしたような気分になる。
一体何故、そんな気分になったのか分からず、首を傾げながらも手にしていた紙袋を一旦、カウンターの上に置き、それから昼休憩の為の札を改めて手に取ってドアに引き返し、外に出て札を貼って、また中に入って鍵を締めたところで、ようやく自分が何を不思議に感じているのか、気がついた。
あの少女は、店に入る時もドアが開けきられる前に、擦り抜けるようにして中に入っていった。
確かに、覚えている。仕方なく中に誘って、ドアを押し開けている最中に、その隙間を擦り抜けるようにして中に入っていったことを。あまりに素早く入ってしまった所為で、後ろ姿すら曖昧にしか覚えていないけれど、俺が押し開けていたそのドアの隙間だけは、妙に具体的に覚えていて。
子供が擦り抜けられる、ギリギリの幅。丁度、先ほどあの少女が出て行った時と同じくらいの、幅。それはつまり、俺が引っ掛かったくらいの幅。否、俺、というよりは、手にしていた紙袋が、中身の箱が引っ掛かるくらいの幅ということだ。
あの少女は、引っ掛からなかったのに?
カウンターまで行き、紙袋を、その厚みをじっと見つめる。手に取ることなく、ひたすらに、じっと。
しかしどう見ても、あの隙間を擦り抜けられる厚さだとは思えない。だから、引っ掛かった俺は正しい。正しい、というか普通のはず。普通じゃないのは、擦り抜けたあの少女の方だ。
「なんかコツでもあるのかな・・・?」
子供は身体柔らかいからな・・・、とか、自分でも理由になっているとは思えないことを呟きながら、再び、溜息。
それからカウンターの上に置いたままのそれを手に取って、奥の住居スペースに向かう。本当は持っていきたくはないけれど、もうそれ以外の選択肢がないのだと諦めて、部屋に上がって。
とりあえず昼食を食べてから考えようと、問題を手にした紙袋とセットで、部屋の隅に押しやっておいた。