④
「あのっ、」
「あ、はい。えっとぉ・・・、2,160円になります」
「あ、の・・・、」
「え?」
「3,000円からで・・・」
「はい。少々お待ち下さい」
「あっ、いえっ、」
「え?」
「あの、これ・・・」
「あっ、あぁ・・・、」
「これ、あっちの棚のところに、落ちてて・・・」
「すみませんっ、ありがとうございます」
「いえ・・・」
やたらと『あ』が多い会話を繰り広げた相手は、中年にはまだ至っていない、三十代くらいのサラリーマンだった。黒いスーツに、白いシャツ、当たり障りのないグレーのネクタイに、黒縁の眼鏡。大人しそうな外見で、細く、割りと弱々しい感じの、スーツを脱げばギリギリ、大学生に見えなくもない、そんな感じの男。勿論、店の常連。そして当然のように、疲れている。
その疲れている客が疲れ果てたように棚の間に姿を消して、商品であるジグソーパズルの箱を手にしてカウンターにやってきたのは、店を入ってから30分ほど経った頃だった。この店に来る客の平均的な滞在時間で商品を決めたその人は、箱を両手に捧げ持つようにしてカウンターの前に佇み、困ったような顔で曖昧な位置にその手を差し出していた。
普通、手にした商品は店主である俺に差し出される。会計をする為だ。しかしその客は俺の手には届かない、でも一応、カウンター越しに差し出しているような、そんな中途半端な位置でその手を止めていたので、曖昧な行動の理由が分からないながらも、とりあえず自分から手を伸ばして届かないでいた商品を受け取ると、値段を読み上げた。
すると当然の流れとして、客からは代金が差し出されたので、大袈裟にならない程度に恭しく両手で受け取って、それからおつりの用意と、商品を紙袋に入れて渡す用意をしようとしたところで、何か、酷く思い切ったような声がしたのだ。まるで、一世一代の告白かのような、それが。
驚いて顔を上げれば、客はまだ、手を差し出している。また中途半端な位置に、今度は、右手だけを拳を握り締めた状態で差し出しているその意味が、咄嗟には理解出来なかった。
しかし向けられていた手の甲が翻り、掌の方が上に向けられた後、ゆっくりと握られていたそこが開くにつれて、全てが理解出来る。
開かれたそこには、真っ白なパズルのピースが一つ、乗っていた。
別に何も悪い事はしていない、店内に落ちていたピースを親切で拾って持って来てくれただけなのに、やたらとおどおどした客は、なんだか妙に言い訳がましい口調で視線を彷徨わせながら、掌に乗せているピースの経緯を説明し始める。
拾ってもらったことより、そこまでおどおどとさせてしまっていることが申し訳なくて、慌てて謝罪とお礼をしながら両手を差し出せば、客は微かに安堵した表情を浮かべて、力が抜けたかのようにそっと、俺の手にそのピースを自分の掌から滑り落とすようにして渡してくれた。
裏も表も真っ白な、直線を持たない、ピース。勿論、祖父の作りかけの、あのパズルのピースだ。
一瞬だけ、掌に移されたピースに意識と視線が結びつけられたが、そのまま切り離せなくなる前にそれらを強引に引き離すと、手にしたピースをカウンターの隅に置き、大人しく待ち侘びている客に向けて、止まっていた作業、つまりおつりと商品の引き渡し準備をし、それぞれを今度は俺の方が両手で、丁寧に引き渡した。
客は、疲れ切った表情に気弱そうな社交辞令的な笑みを浮かべておつりと商品を受け取ると、会釈なのか頭が重くて下がっただけなのか判別不能なくらい微かに首を動かしてから、ゆっくりと背を向け、店を出て行く。
その影の薄い、少しだけ丸まった、全く頼り甲斐がなさそうな力ない背中に向けて、最後の一撃にならないように気をつけた音量で『ありがとうございました』というお決まりの台詞を投げかけつつ・・・、その姿が店の前からも完全に失われたところで、視線も意識も当然のようにカウンターの隅に置いたままだった、あのピースへと向かってしまう。
店内に、『また』、落ちていたピース。
特に意味はないけれど、親指と人差し指でそのピースを摘み上げながら裏表を眺めてみる。改めて眺めるまでもなく、真っ白だ。
もう眺める前から分かっているのに、何かの間違い探しみたいにもう一度眺めてみて、やっぱり何の間違いでもなく真っ白なことを確認した後、自然と小さな溜息が漏れるのを、止める術はなかった。
何故なら、もう何度目かなのだ。店内に、このピースが落ちていたことは。そして実は店内だけではなく、店の外、入り口付近に落ちていたこともあるし、客がどういう弾みか持ち帰ってしまい、あとで謝罪と共に返してきた、なんてことすらある。
その客曰く、何故か鞄に入っていた、もしくは、どうやら服の袖か何かに入っていたようだ、あるいは、何故なのか分からないけれど家に帰ったら部屋に落ちていた、等々。
とにかく、よくあるのだ。この白いピースが、あの定位置である寝室と居間の間以外で見つかることは。まだ数ヶ月しか店主を務めていないのに、たったそれだけの期間ですら慣れきってしまうほど、何度も起きている事象で・・・、一体何故そんなことが起きるのか、全く理解不能の事象でもある。
部屋の中にあるはずの物が、店のあちこちに散らばってしまうなんてことが、有り得るのだろうか?
店主である俺自身は一度も見つけたことがないにも関わらず、知らぬ間に散らばる、なんてことが?
・・・そう、見かけたことがないのだ。俺自身は、部屋の中以外であの白いピースが落ちている所なんて見たことがない。一応、一日の終わりには簡単にではあるけど店の掃除はしていて、掃き掃除をしたり、商品のチェックをしたりもしている。
でも、あのピースを店内で見かけたことなんて一度もないのに、何故か客は見つけるのだ。見つけて、拾ってきてくれる。
おそらく、店の外に落ちていたとか、家に持ち帰ってしまったとかいうのは、店内で何かの拍子に服だか鞄だかに紛れてしまったが故に起きた事故だと思うので、それらは特に気にしていない。気にすべき点は、それ以前にあるからだ。
そもそもの問題は、どうして店内にあのピースが散らばってしまうのか、そして散らばってしまっているのなら、なんで俺が掃除の時に気づかないのか、この二点だからだ。この二点さえ解決するなら、客が持ち帰ろうが拾おうが事象としては説明出来るので、ある意味、問題は無い。
最初は、俺自身の服の裾などに入り込んでしまっていて、それが店内をうろつくうちに落ちてしまったのではないのかと思ったのだ。寝室と居間に跨がって広がっているピースは量がやたらとある所為で、かなりの場所を取っている。部屋を行き来する時などは跨いで移動している状態だし、居間で寛いでいる時も、寝室で横になろうとしている時も、常にすぐ傍にピースがある生活を送っているのだ。それなら、何かの拍子に服にくっつくことも充分有り得るだろう。
だから最初は、そこまで気にしていなかったのだ。一応、それなりの完成を目指しているパズルが全く完成しなくなってしまうし、客にも迷惑をかけてしまうので、ピースを店内に持ち込まないように気をつけよう、と意識したくらいで、起きている現象事態に疑問は抱いていなかった。
でも、いくら気をつけていてもピースが店内や他の場所で見つかること、またその頻度があまりにも多いこと、更にはどれだけ意識して店内を確認しても、俺には全くピースが見つからない状況が続く中で、自然と疑問は募っていく。
一体どうして、店内にあのピースが散らばってしまうのだろうか、と。
まるで自然に湧き出るかのように、店内や他の場所から見つかるピース。その一つを今日も眺めているうちに、ふと気づけば、もう閉店の時間になっていた。
個人商店なので、そこまで厳密に時間を守らなくても誰も気にしないだろうが、一応、11時開店、19時閉店となっている。気が向けば少し早く店を開けたり、少し遅く店を閉めたりということもあるが、時間を守って訪れる客がいるかもしれないことも考慮して、開店時間より遅く店を開いたり、閉店時間より早く閉めたりはしないようにしていた。
ぼうっとしている内に閉店時間より20分ほど遅くなっているが、時間より早いわけではないので気にすることなく、手にしていたピースをとりあえず再びカウンターに置いて、閉店作業を始める。といっても、簡単な掃除と、戸締まりくらいなのだが。
それでも掃除をしてから戸締まり、という手順とも言えないような簡単な決め事はある。開店時は特にそういった決まりはないのだが、閉店時だけは、掃除が先、と決まっているのだ。勿論、理由はあって・・・。
「すみませんっ、あの、まだ大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫ですよ。どうぞ」
・・・こういうことが、結構な頻度であるからだ。つまり、閉店時間過ぎての飛び込みの客が多いので、一人でも多くそういった客を受け入れられるように、ギリギリまで店を開けている、ということ。
掃き掃除をしている最中に申し訳なさそうな様子で店に入ってきたのは、丁度同年代だと思われる、グレーのスーツを着た女性だった。
オーソドックスなジャケットに、スカート、靴も黒の低めのヒールで、肩より少し長い黒髪を流している大人しそうなその人は、美人と断言するほど美人ではないが、シンプルですっきりとした身なりと物静かな雰囲気から、なんとなく綺麗っぽい、という印象を抱かせる、常連客だった。
常連客・・・、それはこの店において、いつも疲れ切っている人、という意味でもある。
細い身体をなんだかふらふらさせながら棚の間に進んで行ったその人は、まだ若いのに、目の下に隈らしきものが浮かんでいたし、肩も落ちていて、背中がどうにも疲れ切っている空気に支配されている。
どう見ても社会人だが、おそらく入社して数年程度しか経っていないだろう。それなのにそこまで疲れ切るなんて、一体どんな仕事をしているのだろうかと、何となく心配になる。所謂、ブラック企業にでも就職しているのかと。
もしくはプライベートで何かあるのか、とまで勘ぐりたくなるのは、相手が若い女性だからなのだという自覚はある。こっちだって一応、若い男なので、同じ疲れ切っている人でも、中年男や若い男より、若い女性の方が気になってしまうのは仕方がないだろうと思う。
別に気になったからといって、口に出して詮索するわけでもないのだし、ちょっと観察するくらいなら許されるだろう。・・・たぶん。
そんな言い訳がましいことを胸の内で呟きながらも、カウンターに戻って客がやってくるのを待ちながら、棚に消えた姿をぼんやりと思う。いつも、閉店ギリギリか今日のように閉店しようと準備している最中にやってくる、客の様子を。
正直、顔はあまり印象に残らない女性で、目の前からいなくなってしまうと大抵、ぼんやりとした印象しか残らず、顔立ちが記憶から消えてしまい、再会すると、あぁこういう顔をしていたな、と毎回思う人だった。強いて言えば綺麗系、と分類出来るという程度には整っていて、目鼻立ちが個性的なわけでもないので、逆に印象に残らない、というべきか。
髪の毛もただのストレートで、色を染めているわけでもなく、お洒落な髪型をしているわけでもなく、本当にそのまま流しているだけで、雑踏を見渡しただけで何人も見かけるような、無個性なそれだ。スーツも毎回、無難というテーマだけを掲げて選んでいるとしか思えないグレーや黒ばかりだし、靴だってスーツと同じような色のものしか見かけない。
挙げ句、鞄も似たような色ばかりで、今日だって黒のショルダーなのだから、もう彼女の中にある色彩はグレーか黒の二色だけなのではないかと疑いたくなるほどだ。
ここまで徹底して無難や無個性でいると、それ自体が立派な個性になるのでは、とまで考えたくなるほどの身なりをしているその人がカウンターにやってきたのは、およそ10分後。
閉店準備を遅らせてしまっているという自覚がある所為か、こういう時間ギリギリのお客さんは商品を選ぶのが早い。そこまで焦らなくてもいいのだが、有り難いことでもあるので、速やかに会計を済ました。
「ありがとうございました」
商品を受け取り、申し訳なさそうに会釈をして出て行ったその人を見送って、再び閉店準備に取り掛かる。途中だった掃き掃除を終えて、店の前も軽く掃除し、もう誰も店に向かっている客がいないか、左右の道を一応、見渡してから店の中に入って、内側から鍵を締めて。
最後にぐるっと店内を見渡して、何か気になる点がないか確認。・・・とはいっても、目が探しているのはいつも、あの白いピースだ。もしかして落ちているのではないかと視線が探すが、今まで一度として見つけたことはなく、今日も勿論、見つからない。
店内には、化石のように静かなパズル達が、掘り起こされる日を夢見るように箱の中で眠っているだけ。掘り起こされ、その形を取り戻す時を待ち侘びるだけ。
・・・時計の音が、やけにはっきりと聞こえる店内。
どこか、その音が態とらしく感じてしまうのは、まだこの店に店主として馴染みきっていないからだろうか?
祖父がいた頃は、祖父とこの音は、まるでこの店に誂えたかのように似合っていた気がする。あの頃、そこまで感じて共に過ごしていたわけではないけれど、今になって一人、店にこうして佇んでいると、当時の光景が蘇ってきて身に沁みるようにそう感じてしまうのだ。
特に意味もなく訪れては、特に用もないのにだらだらと居座って、もう記憶にないほど他愛ない会話をしていたあの頃。たった数ヶ月前までの、日常。
先の事なんて考えるまでもなく、今まで通りがずっとその先も続くのだと、信じる必要も無く信じ込んでいた。まさか、その終わりに自分が立ち会うことなるなんて、想像すらしたことがなく。
命、というものに限りがあるなんて、教科書に載っている文字以外に知らなかったから。