③
古びた印象がある店だからか、音すら古びて聞こえそうな来店の合図が鳴り響いたのに我に返れば、名前は知らないが常連の中年男性が店に入ってきたところだった。
草臥れたスーツを、草臥れた様子で着こなしている、草臥れた中年男性。
特殊な仕事とかではなく、間違いなく、ごく普通に会社勤めをしている、会社に使われ続けているサラリーマンなのだと確信してしまうくらい分かり易いその人は、「いらっしゃいませ」と聞こえるギリギリの音量で淡々と声をかけた俺に軽く会釈をしてから、並べられた棚の隙間に入っていく。
来店の挨拶は、なるべく淡々とした、声はかけました、という意思が相手に伝わる程度の音量と口調を心がけている。これは別に俺の愛想が悪いからというわけではなく・・・、まぁ、愛想が良いわけでもないのだが、そういう俺の性格が理由ではなくて、祖父の対応を真似ているからだ。淡々とした、でも無愛想まではいかない、馴れ馴れしくはないけど丁寧で、親しみが微かに滲む程度の態度。
これが祖父の接客対応で、店を継ぎ、客層やその客の態度を見て、なるほど祖父の接客態度がベストなんだな、と実感として悟った俺の接客対応でもある。
この店に来る客、特に常連客は──、なんだか皆、疲れているのだ。
正直、客なんて来るのかと疑っていたのだ。厳密に言えば、生計を立てられるほどの客の入りがあるのか疑っていたとでも言うべきか。
客が一人も入らないわけじゃないということは知っていた。ここには何度も顔を見せていたのだから、客が入っている様を見たことくらい何度でもある。
だから一人も来ないと思っていたわけではないのだが、店として成り立つくらい、少なくとも店主一人分の生活費を捻出するくらいの収入があるのかどうかを疑っていたのだ。祖父は年金や、若い頃に貯めた貯金とかを切り崩して生活しているに違いないとまで思っていたくらい、実は疑っていた。
そこまで疑うなら何故、店を継いだと言われそうだが、駄目なら諦めるしかないという酷く曖昧な覚悟で始めていたので、深刻に事態を捉えていなかったのだ。
その為、どのくらいで駄目になるのかと漠然と思い描く程度にしか何も考えていなかったのだが・・・、予想に反して、それなりの人数の客が入って、それなりの収入を恵んでくれる日々が続いている。
有り難い事だと思う。それは本当に思う。駄目だったらそれまでとは思っていたけれど、せっかく継いだのだから、続けられるなら続けたいという気持ちだってあったのだ。
だから客が来てくれる、その客が店を続けて、生活を成り立たせるぐらいのお金を落としてくれる、ということには純粋に感謝しているのだが・・・、それこそ、『お客様は神様です』という、使い古された言葉を言いたくなるくらい思ってはいるのだが・・・、それはそれとして、こんな古びた、小さな、立地も良くない目立たない店に来てくれる客を不思議に思う気持ちもなくはなく・・・、来てくれる客をそれとなく観察しているうちに、気づかずにはいられなかったのだ。
来てくれる客達の、疲れ切って草臥れきって、呼吸が溜息だけで構成されているかのような様子を。
客は、殆どが常連客らしい。どの客も、そういえば前も見たことがあるような気がする、と思うような顔で、たぶん、以前からこの店に寄る度に、その顔を見かけていたのだろう人達だった。
それこそ中には、小さい頃から何度も見た気がする人もいて、つまりそれだけ長くこの店に通っている客が何人もいるようだった。実際、店主となってからは意識して客の顔を見ているのだが、やっぱり殆どの顔が、店主になって以来何度も商品を買ってくれている人達ばかりで。
常連客で支えられている店なのだ、この店は。偶に、初めて見る顔もあったりするが、俺が知らない常連客である可能性もあるので、店主になって以来、本当に初めて来た、という客がいたとしても、数えるほどだろうと思う。それくらい、常連だらけの店。
その、常連の顔が一様に疲れ切って草臥れきっているのだから、気にならないわけがなく・・・、ついじっと店での様子を窺ってしまうのも、仕方がないことだと思うのだ。
「・・・すみません」
「あ、はい。えっとぉ・・・、3,240円ですね」
「・・・これで」
「はい。3,250円お預かりで、10円のお返しになります。少々お待ち下さい」
今日も今日とてこっそり観察していた常連客は、ふらっと棚の間から出てきたかと思うと、手にしていた商品を万引きした商品を店員に差し出すかのような力ない仕草で差し出し、それこそ盗んだことを詫びるような口調で謝罪を口にする。
勿論、万引きに対する謝罪の言葉なんかじゃない。日本語固有の言い回しなのだろう、会計を頼むそれなのだ。
金を払う立場なのに『すみません』はないだろうと思わなくもないが、実は俺も同じ状況だとつい口にしてしまう単語なので、まぁ、それは日本人であるかぎり条件反射として出てしまう、民族固有の行動パターンなのだろう。だからそれはいいのだが、おつりを渡して商品を紙袋に入れている間ちらっと窺った相手の顔は、やっぱり疲れ切っていて。
なんというか、目が焦点が合っていないような、魂が抜け去っているような、そのまま地面で倒れてしまいそうな、そんな表情と顔色をしているのだ。
「では、こちら商品になります」
「・・・」
「ありがとうございました」
紙袋に詰めた商品を手渡しすると、また日本人的な挨拶、つまり無言で小さく頭を下げる、その間、決して目を合わせない客は、ゆっくりと、電気の足りていない機械のような動きで身を翻し、店から出て行った。
外に出る際、ドアが開いた段階であのドアの開け閉めがあったことを示す音が鳴り響いたが、それが人生最後の合図みたいに聞こえるほど、その背中は影が似合いすぎるほど似合っている。
なんだか、幕でも閉めたくなるくらいの勢いだ。
初めて客のあの背中に気がついた時、この客は大丈夫なのだろうかと思ったものだが、あの背中を見せる客は必ず常連客で、つまり必ず、少し経つとまた店に顔を見せてくれる。だから本当に幕が閉まってしまったわけではなく、ちゃんとその後も人生を続けてくれているのだが・・・、どうしてうちの常連客は皆、あんな状態なのだろうと疑問に思わずにはいられない。
程度の差はあれど、皆が皆、あの状態なのだから、何か妙な宿業でも背負った商売なのだろうかと疑いたくなっても仕方がない気がする。ただ、ジグソーパズルなんて無害な商品を売っているだけの、小さな個人商店なのに。
パズルの品揃えが悪かったりするのかなぁ・・・? 人生に疲れた人を呼ぶ品揃え的な?
店に来る客で、明るそうだったり、楽しげだったりする人を見かけたことがないという状況があまりにも続く為、疑いは自然と、揃えてある商品に向く。
でも、別に疲れた人間だけを呼び寄せるような特殊な品揃えはしていないと思うのだ。ピースが少なくて簡単なものから、万を超える、一体誰がやるんだと突っ込みを入れたくなるようなピース量のものもあるが、誰もがそんなピース量の、やり始めたら気が触れるんじゃないかと思う商品を買って行っているわけじゃないし、絵柄だって写真から絵から色々あるが、見ただけで疲れが増すような特殊な絵はないと思う。
あったとしても、自分が店主になって以来、そんな特殊な絵柄の商品を売り渡した覚えはない。
今の客が買っていった商品だって、1,500ピースの、パンダの赤ちゃんの写真がプリントされているパズルだ。・・・たぶん、疲れているから癒やされたいのだろう。パンダの赤ちゃん、可愛いから。
他の客が買っていく商品だって、無害なものばかりだ。少なくとも、俺自身はそう感じるものばかり。尤も、無害じゃないジグソーパズルというものが一体どういう種類の物なのか、想像も出来ていないので何とも言えないのだが。
「唯一、想像出来るとしたらやっぱりピース数だな」
誰もいなくなった店内で、一人、呟く。こんな量のピース、一体部屋のどこで広げて作るつもりなのか、そもそもどれだけの期間作り続けるつもりなのかと、買う人間がいるなら是非、聞きたいと思うほど、尋常じゃない大作の商品がうちにもある。あるが、売れてはいない。売れてはいないから、やっぱり無害なジグソーパズルばかりが売れていると思うのだが。
なのに、疲れている。皆、疲れている。
先ほど出て行った客や、その他の常連客の顔を思い浮かべながら、自然と首が傾いていくのを感じていた。生きていくことに疲れ切っている人々。パズルを選んで、買って行き、また疲れた様子で新しいパズルを求めに来る人々。
パズル、というものは、好きでやるものだろう。楽しむ為のもの、暇な時間を潰すぐらいの意味合いしかない場合だってあるはず。少なくとも、俺はそういう認識を持っていたのに・・・。
疲れているのに、やりたくなるものなのか?
誰もいない店内へ、何となく、視線を巡らせる。千単位ごとのピース数だけで棚分けされた商品がみっちりと詰まっている店内は、どことなく、埃っぽい。
最初は手に取られていない、つまり死蔵状態の商品に埃が積もっているのだろうと思っていたのだが、見て回る限りそういったことはないのに、それでも埃っぽく感じるのは・・・、埃が積もっていなくとも、パッケージが色褪せているものが多々ある所為だろうか?
色褪せているのにそれでも埃が積もっていない理由は、祖父が丁寧に掃除をしていたからなのか、もしくは売れてなくても客が偶に物色していたからの、どちらだろうか? もしくは両方なのだろうか?
もしそこまでされているのに売れないなら、もう廃棄するしかないのではないかと思うのに、力の限り色褪せた商品でも偶に売れるのだから、廃棄の決断も出来ない。
その所為で、店内はいつまでも色褪せている。もう絶対的に、売れる商品があるとは思えない、そんな店になっている。そんな店になっているのに、祖父はそんな店を大事にしていて、その大事にされた店に、少なくない客達がずっと通っている。
疲れ切っても尚、ジグソーパズルを買いに来る。
「・・・いらっしゃいませ」
何人も、常時店に客が入っていることはない。でも、一人っきりの時間がそこまで長く続くこともなく、定期的に客は来る。また、疲れた顔をした客が。
この店を継いで、早数ヶ月。最初は慣れないことばかりで何も考える余裕がなく、日々を過ごすのに精一杯だったし、店を継ぐ前、祖父が健在の頃は、店のことも客のことも、ジグソーパズルのことだって何かを考えることはなかった。
でも数ヶ月なんとかやってきて、店の運営も自分自身の生活も落ち着きつつある今、狭くなっていた視野が広がるように自分の状況を改めて見渡してみて、胸の中にじんわりと広がるものがあるのだ。
店と、客と、ジグソーパズルと・・・、それらに囲まれて生きていた、俺が知らない時間の祖父のこと。
ここは、一体どういう場所だったのだろうか・・・?