⑭
店は、いつも通り開く。たとえ、前日の夜に何があったのだとしても。
数人の客を迎え、パズルを売上げ、それから合間合間に誰もいない、ぼんやりとした時間を過ごしていた。それはいつもと変わらない日々でありながら、俺の内部だけが確かに変化した時間でもある。
ずっと、分からないと感じていた客の気持ちが、ここに来るその気持ちが、パズルに向かうその思いが、何となく、自分なりに分かった気がして、それが客に接する気持ちに変化を与えていたのだ。
勿論、客一人一人が思うことなんて分かるわけがないのだから、そんな気になっているだけだろうけど。
それでも・・・、たぶん、ようやくこの店をちゃんと継げた、継いで、スタートを切れたのだという気はしていた。今までは、雇われ店主だったのが、正式に店主になれた、という心境の変化に近い。
ここは、俺の店。じーちゃんから継いだ、俺の店。
誰もいない店内を見渡す度に、今日はそんな思いばかりが募る。俺の店だと誰かに主張したいわけじゃない。ただ、自分で自分に、その事実を受け止めて、胸を張っていたいと願う気持ちがあるからこそ、そんな思いばかりが募るのだろう。
誰かに羨ましがられるわけではないのだろうけど、祖父が俺に渡してくれたバトンのようにすら感じていたからかもしれない。
自分が、祖父に選ばれていたような感覚。それが正しいのかどうかなんて確かめる術はないし、たとえ確かめられて、本当に祖父が他の誰でもない、俺を選んでこの店を渡してくれたのだとしても、親戚の誰一人として、羨んだりはしないと分かっているけれど。ただ、それでも・・・。
もういない人が生んでしまった欠落を埋めるには、そんな小さな自尊心みたいなものすら、掻き集めないといけないから。
何をいくら掻き集めても決して埋まることはない。
それが分かっていても尚、埋める作業を止めるわけにもいかない。止めてしまえば、自分が立ち行かなくなってしまうのだから。
大きな欠落を目の当たりにして、その名を知って、埋める作業を始めたばかりの我が身をしっかりと支えながら、一つ、あまり意味もなく頷いて、とくに意識しないまま、昨夜のことを辿るように目を閉じる。・・・つもりだったのだが、それは叶わなかった。
店を開いているのだから当然の事として、客の来店を告げる音が響き渡ったからだ。
「いらっしゃいませ」
もう反射となってる台詞を自動的に口から吐き出し、それと同時に視線を前方、ドアの方へ向ける。すると来店したばかりの客と目が合って、これまた反射的に顔に浮かぶ営業的な笑みで会釈したところ、相手からも微かな笑みを浮かべた会釈が返された。
常連の、女性客だった。あの、いつも地味すぎるスーツを着て、疲れた顔で来店する、若い女性。
彼女は会釈の余韻をそこに残したまま、ゆったりとした足取りでいつも通り、棚の間に向かって歩き、やがてその姿を消していく。
たった数秒のその動きを、気づかれたら失礼に当たるだろうぐらい注視していたのは、その姿や態度が、いつもとは異なっていたからだった。
あんな風に、はっきりとそれと分かる笑みを浮かべて会釈されたことなんてない。
疲れた顔で、伏し目がちに軽く首を上下するくらいのことはしてくれるが、いつものその仕草は会釈というより、疲れすぎて頭の重みに堪えきれず、上下に動いてしまいました、という仕草にしか見えないのだ。
笑みだって社交辞令に近いものが滲んだことはあるが、あそこまではっきりとした微笑みなんて見た覚えがなくて。
そして格好も・・・、スーツ姿以外を、初めて見た。今日は何故か、ワンピース姿なのだ。色も、あの黒、紺、グレーの三色ではなく、落ち着いた色合いではあるけれど、綺麗な青色の、ワンピース。柄は一切無いけれど、それでもあの、一切のお洒落を諦めたような服装ではなくて。
靴は確認出来なかったけれど、肩から提げていた鞄もビジネス用ではなさそうだった。ちらっとしか見えなかったので形は分からないが色だけは確認出来て、それは不純物を全て排したような白一色。
青いワンピースに、白い鞄、それに、浮かぶ笑み。
全開の笑み、というわけではない。そういうわけではないけれど、確かに浮かんでいた笑みと服装に、漠然とした予感はあった。自然と顔に笑みが浮かぶような、そんな予感が。
そしてその予感に堪えるようにして待ち侘びた数十分後、カウンターに訪れた彼女が差し出した箱に、予感が確信に変わる様を見る。箱に描かれていた、その絵は・・・、カラフルな、花の絵が一面に描かれたものだったから。
──きっと、風船の絵はなかったからなのだ。
「これを・・・」
「はい、4,280円になります」
「じゃあ、4,300円から、お願いします」
「お預かりします。少々お待ち下さい」
「はい・・・」
「・・・では、こちらお釣り、20円になります。お品物は、もう少々お待ち下さい」
お釣りを渡して、紙袋を広げ、品物を中に入れる。その間、俺の手元を見てくるその視線を感じながら、どうしても開いていく口の動きを止めることは出来なかった。
何故なら、嬉しかったから。自分が、この店の店主としての役割をきちんと果たせたのだと、誇らしかったから。
だから商品を中に入れた紙袋を差し出しながら、目が合ったその人に、堪えきれなかった笑みを滲ませながらそれを口にしてしまっていた。
余計な台詞だと、承知の上で。
「何か・・・、良い事でも、ありましたか?」
「・・・え?」
「いえ、何だか楽しそうな雰囲気だったので・・・、すみません、余計なこと、言って」
「あ、いえ、全然、それは・・・、あの、楽しそうに、見えますか?」
「はい、凄く」
「そう、ですか・・・」
彼女は、一度口を閉ざした後、何かを噛み締めるように微かに首を上下に振ると、それから今度は首を左に小さく傾けながら、閉ざした口を開く。
目元と頬に残る微かな笑みに、幼さを滲ませながら。
「とくに、何があったわけでもないんですけど・・・、ただ、なんだか、ずっと感じていた息苦しさみたいなものが、朝目が覚めたらすっきりしていて・・・」
「すっきり、ですか・・・」
「よく分からないんですけどね、閉塞感がなくなったっていうか、周りを取り囲んでいたものがなくなった感じがしたっていうか・・・、あぁ、でも・・・、逆な気もするような・・・」
「逆?」
「えぇ・・・、ぽっかり空いていた場所が埋まって、満たされたみたいな・・・、そんな感じも、しているんです」
「・・・」
「なんか、意味、分からないですよね」
穏やかな声でそう言った彼女は、気恥ずかしそうに照れ笑いをする。その笑みに笑みを返しながら、「そんなこと、ないですよ」と告げた自分の声が、口先だけの軽々しさではない、何かが入っているような声に聞こえることを、不思議に思うと同時に、納得もしていた。
そんなことない、そういうこともある・・・、そんな思いをはっきりと感じているのが、俺自身でもあったから。
告げた言葉が意外なほど軽くはなかった所為か、少しだけ目を見開いて驚いている彼女の瞳を真っ直ぐ見返して開いていく口の動きを、なんだか酷く懐かしく感じていた。
まるで、祖父が喋っているのを、祖父の中で聞くような、そんな気がしていて。
「ずっと忘れていたこととか、どこかに落としてきてしまっていることとか、なくしてしまった気持ちとか、そういうものが、ある日ふいに戻ってくることって、ありますから」
「そう、ですか・・・、そう、ですよね」
自分の口から出たとは思えないほど穏やかな声に、驚いていたのは口にした俺自身だけだったのかもしれない。
目を見開いていたはずの彼女は、その台詞に穏やかに納得して、真っ直ぐに見返すその瞳に純真な喜びを浮かべたかと思うと、そのまま軽く会釈をして、ゆっくりと踵を返す。
そしてドアを開け、外に出て・・・、それからドア越しにまた軽く会釈をしてから目の前の道を歩き去った。
あの時のように、走り去るわけではなく。
きっと、彼女はもう、大丈夫なのだ。
彼女の疲れの原因が解消したとは思えない。ただ、もうその疲れる何かに負けて、あんなに暗い色ばかりを纏うことはないのだと思う。足りなかった、なくしていた、落としてしまったそのものが、戻って来たのだろうから。
たとえ戻って来たものが失っていたものそのものじゃなかったとしても、代替えとして、立派にその場所をそれは埋めてくれるのだろうから。
ふと、口元に浮かんでいる笑みが消えていない気配を感じた。触れてみると、案の上、穏やかな笑みが刻まれたままでいる。指先で辿ったその形は、とても覚えのある形で、先ほども感じた懐かしさを再び覚えて、なんだかとても嬉しくなってしまった。
失ったもの、そのものが戻らなくても、こうして代わりになるものはその欠落を埋めていく。
代わりになるものはない、そう言われるものも世の中には沢山あるのだろうけど、本当に一切の代わりがないものはきっと、少ない。なくした傷を持ちながらも、人はその傷で出来た欠落を埋めるものをどうにか探し出して生きていける生き物なのだから。
誰もいなくなった店内で、一人、深呼吸。ここが、俺の居場所で、俺の欠落を埋める場所なのだと改めて思いながら、軽く目を閉じる。
その瞼の裏に、傷の姿を写して・・・、もう、大丈夫、と告げる為に。
午前中の客をやり過ごし、お昼もあと少しまで迫った時間帯に、またぽっかりとした空き時間が出来た頃だった。
来客を告げる音が店内に鳴り響き、しかし豪快に開け放たれたドアから入ってきた姿が客ではなく、むしろこちら側が客に相当するだろう人が訪れたのは。
「こんちは!」
「こんにちは。ご苦労様です」
「ここ、サインか判子、もらえますか?」
「はい」
元気な挨拶の指導でもされているのか、それとも元々の性格が明るいのか、入ってきた宅配業者の人は、何だかやたらと明るそうだった。
片手に持っている小さな小包を突き出すのと同時に、指先で受け取り印の受領欄を指差し、全開の笑みを浮かべてこちらの反応を待つ姿に、つい、若いなぁと思ってしまうのは、少々微妙な感想なのかもしれない。だって、おそらく大して変わらない年なのだ、相手は。
しかしその辺りの微妙な感想は勿論、胸に秘めたまま、受け取り人の名前が自分であるを確認した後、カウンターの隅に用意してある判子を取り出し、示された場所に押印する。
するとすぐさまその印を押した付近は剥がされ、それをポーチにしまってから改めて両手で荷物を差し出して、持っていたそれを引き渡すと、「あぃがとうございました!」という、元気がよすぎて微妙になっている挨拶だけを置いて、その人はまた豪快にドアを開けて元気に外に出て、走り去って行った。
その姿を見送ってから、改めて手元に視線を落とすと、そこには送付元の名前だけで中身が分かる、とても覚えのなる名前が記載されていて・・・、自然と口元に苦笑が浮かぶ。
待ち侘びていたはずなのにすっかり忘れてしまっていた存在が、中には入っているのだ。
「請求書も入ってるんだろうなぁ・・・」
誰にも請求出来ないなぁ等と、言葉ほどには気にしていない愚痴を漏らしつつ、もう必要の無いはずの中身を確認する為、自分でも不思議とどこか楽しい気分で包装を開けていく。
包みを開いて、中の小さな箱を開いて、まず出てきた請求をまた浮かぶ苦笑で眺め、それから透明な袋のパッケージの中にあるそれを眺めて。
手にしていた請求書を無くさないようにカウンターの上にある書類入れにしまい、空いた両手で透明なパッケージを箱から取り出して、まずは袋の外から中をしげしげと確認する。
それから袋を破って、中身を取り出して、左の掌に乗せてからまたしげしげと見て、引っ繰り返してまた眺め、表に戻してまた眺め・・・、そこまで眺めるまでもなく、頼んでいたものが頼んだ通りに出来上がって送られてきた、というだけのことなのだけれど。
掌に乗せているのは、オレンジのひと欠片。
注文していた、足りないピースだった。あの欠落を埋めるはずだった、代わりとなるはずだったもの。表はオレンジ一色、裏に返せば薄い灰色で、明らかにそれが裏側、不要な面であると示す色をしている。
形まで合っているのかどうかは送った写真と見比べなければ分からないけれど、相手も商売でやっているのだから、間違いなく、注文した通り、写真の欠落を埋めるに相応しいぴったりの形に仕上げているのだろう。
尤も、たとえ注文通りの形でなかったとしても、何の問題もないのだが。
もう、欠落は埋まっているのだから。
掌のピースを一度、大事に握り締めたのは、どんな気持ちからなのだろう?
自分で自分の行動、その気持ちが分からないでいながらも、まるでその一握りで全ての力を使い果たしたように、椅子に腰を下ろす。
深く、息を吐いて、少し仰向いて・・・、その拍子に見えたのは、壁の時計。古すぎてこの場所に似合いすぎているそれが示すのはいつの間にか昼を取るのに相応しい時間で、息を吹き返すように慌てて立ち上がった。
自営業なのでそこまで慌てる理由なんて特には無いし、堪えられないほど空腹を感じているわけでもないので、時間をずらしても何も問題はないのだが、それでも慌ててしまうのが小心者の俺らしさだろう。
その俺らしさに従って、すぐに休憩準備に入る。ドアに休憩中の札を貼りつけ、戸締まりをし、それから襖を開けて居住スペースである居間に上がって、後ろ手に襖を閉め・・・、ようとして、そこで気づく。
左の掌の中に、まだ、大切にオレンジのピースを握り締めていたことに。
意付いた途端、なんだか笑い出しそうになった。もう要らないはずの物を、ずっとずっと大切に握り締めている自分の行動が妙におかしかったのだ。
握り締めているピースは、もう余分になってしまったものなのに。
おかしくてしかたがなくて、笑っていた所為だろうか。パズルがなくなり、妙に空いてしまった場所に立って含み笑いに揺れる身体を押さえているうちに、しっかり握り締めていたはずのピースが、手の間から簡単に漏れて落ちてしまったのだ。
笑う衝動で手が少し開いてしまったのか、それとも力が緩んでしまったのか、指の間を擦り抜けていくピースの感触をやけにはっきり感じながら、あぁ、やってしまったと思う。
やってしまった、拾わないと、と。
しかしそう思ってまだ笑いの余韻を残して落とした視線の先、今まさにそこに落ちたピースは・・・、オレンジのあのピースは・・・、余分となってしまったはずのそれは・・・。
その瞬間、真っ白なそれに変わる。
・・・とても見慣れた、ピースだった。真っ白の、何の色も絵柄もないピース。あまりに見慣れすぎて、最初からそこに落ちていたのではないかと思う程だったが、そんなわけはなかった。
だってもしそうだとしたら、落としたオレンジのピースはどこに行ったのか、という話になってしまう。
今でも、そんな話になっている気がしないでもないが。
数秒、視線はその白いピースと周辺を、何かを探すように彷徨う。しかし探していたのかもしれない何かは見つからず、腰を落としてその白いピースを拾い上げれば、やっぱり裏を返しても真っ白の、あの白いパズルのピースで。
少し前までオレンジのピースを乗せていた掌に、そのオレンジだったはずの、今は白いピースを乗せてしげしげと眺めながら、ふと、視線をその白いピースが山と積まれた居間と寝室の間に向ける。
積まれて、散らばった白いピースと、少しだけ繋がっている塊。祖父の時代から、一向に出来上がらない、ピースが足りているのかどうかもよく分からない・・・、
何故か、やたらと店にピースが落ちている、白いジグソーパズル。
だからなのか、と思った。
だからなんだ、とも思った。
静かに近づいて、すぐ傍まで来て腰を落とし、白に向き合うように座り込む。それから自然と浮かぶ笑みのようなものでじっとその白を眺めて・・・、自然と動いた手は、いつの間にか込めていた力を抜き、開いて、目の前の白に向かって傾いていく。
掌から零れていく、新しい白のピース。
するりと落ちていくそれは、とても呆気なく目の前の白に混じる。落ちたその瞬間まで見ていたのだから、どれがそのピースなのかは分かるが、しかしそれもたぶん、今だけ。明日になればどれが嘗てオレンジのピースだったかなんて、もう分からなくなっているだろう。
でも、きっとそれでいいのだ。これは、そういうパズルだった。
完成するパズルではなく、完成させる為のピース。
そっと伸ばした指先で、明日には分からなくなるそのピースの表面を撫でる。べつに、惜別の気持ちがあるわけじゃない。オレンジではなくなってしまったことも、白になってしまったことも、惜しむようなことではないのだ。
オレンジではなくても、いつかきっと、他の色として、柄として、どこかの欠落を埋めるのだろうから。
足りないものを余分なもので。
余分なものを足りないものへ。
──だからこそ、このパズルには縁がなかったのだ。
端が欠けているくらいなら気にならない。埋めなくてはいけない欠落は、常に囲われたその中心に生まれるのだから。
ぽっかりと空いたその欠落を、自分の中にも自覚した今ならそれが分かる。空虚なほど、分かる。分かるけれど・・・、でも、大丈夫だろうと思えた。
だって、俺にはこの店が、祖父が残してくれたものが代わりにあるのだから。
余分なもの達を目の前に、一人、静かに笑みを零し続ける。
いつか自分の余分が出来た時、その余分もまた、ここに加わる・・・、その日を、思いながら。