⑪
「・・・っ!」
「ねぇ、出来た?」
「・・・キ、ミ!」
カウンターを回り込み、すぐ横に佇んで袖を引いてきた少女、こちらを見上げてくるその子は、紛れもなく、あの風船のパズルを押しつけてきた子だった。
あまりに突然の出現に、息が詰まるほど驚いて声にならない悲鳴を上げてしまい、少女が当然のように尋ねてきたその台詞に上手く応えることが出来ない。
名前も知らないので、キミ、なんてテレビドラマか小説の登場人物みたいな呼び掛け方をするので精一杯で、とにかく落ち着けと、内心で自分に言い聞かせるばかりだった。
言いたいことも聞きたいことも、山のようにあるはずなのに。
動揺甚だしい大人のみっともない姿を、少女はどう思って見ていたのか・・・、少なくとも尊敬に値するような気持ちを持って見てはいないだろうと思うのだが、とりあえず、表情や態度に大人という存在に対する失望を見せることはなかった。期待も、見せてはいないのだが。
どちらも見せていないのは、たぶん、興味が無いからだろう。彼女が興味を持っているのは、自分のパズルのことだけなのだ。
「ねぇ、出来たの?」
重ねて向けられる、問いの通りに。
逸らされることなく一心に向けられる、眼差しの通りに。
余計な感情に動かされることなく、ただ一つのことに全てを向ける少女の真っ直ぐなそれに、動揺は自然と、収まっていく。落ち着いた、というよりは、引きつけられた、と言った方がいいだろう。
強い力で砂鉄が磁石に引き寄せられ、ついには身動き出来ないほどくっついてしまうように、少女のその問いに答える以外の言動が取れなくなっていくのだ。
それほどまでに、この少女の眼差しは強い。不純物の一切無い、強さ。同時に、不安になるほどの一途さだ。ともすれば、何かの拍子に割れてしまうのではないかと思うほどの、美しさだから。
子供は皆、こんな目を生き物だっただろうか・・・?
「・・・ごめんね、まだ、もう少し掛かりそうなんだ」
「出来てないの?」
「うん。まだ、出来てないんだ。ごめんね」
「もうちょっと?」
「うん、もうちょっと・・・、あ、でもね、あと四日くらいはどうしても掛かる予定なんだけど・・・」
「もう、ちょっとじゃないの?」
「もうちょっとだよ。もうちょっとだから・・・」
「もうちょっと?」
「うん。もうちょっと。あのね、実は・・・、」
かつては俺もそうだったはずの子供という生き物を思いながら、気がつけば謝っていた。
そもそも、ここはパズルを売る店であって、作る店じゃないんだとか、作ってあげているだけで感謝してほしいとか、催促される謂われはないとか・・・、あのパズルは一体、何なんだとか、どうして箱の蓋の絵柄が消えるんだとか、他に言うべきことは、言いたいことはあったはずだった。
でもその眼差しに晒されている状態で言えることは謝罪だけで、それ以上は言えるわけもなく、ピースが足りていないんだという一言すら、言葉が喉に詰まってしまう。
完成までの日数を説明する為には必要な話だと思うのに、それを言ってしまえば、ピースの足りないパズルを押しつけやがって、という苦情になってしまうのではという心配が胸を過ぎって、言葉が喉に詰まってしまったのだ。
視線を彷徨わせ、言葉に迷うこと、数秒。言わない、という決断は出来ない。何故なら万が一、納期が延びてしまった場合、四日では済まない可能性があるからだ。それに大人げない大人の心情として、少しくらいこの苦労を分かってもらいたい、という気持ちもある。
でも、責めているようには思われたくない。だからこそ、言葉は慎重に、慎重に選んで。
「あのね、実は・・・、何でか分からないんだけど、ちょっと見当たらないピースがね、一つあって・・・、うん、なんか、入ってなかったのかな? 元々、パズルの箱に。あのね、そういうこと、偶にあるんだよね。お兄さんもパズル売っているけど、お客さんに入ってないピースがあるんですけど、って言われること、あるし。なんかピースが沢山あるから、入れ忘れちゃう時があるみたいで・・・、だからね、そういう時にお願いする人に、今、足りない分のピースを作ってもらっているんだよ。それがもう少し、かかるんだけど、それが出来上がるまではパズルが完成しなくて・・・、だからね・・・、」
「あのね、」
「え?」
「あのね、足りないの」
「うん。足りなかったんだよ」
「足りないの。アレ、足りてないの」
「・・・あ、足りてないの、知ってたの?」
じゃあ言えよっ、という罵倒は、寸前のところで堪えた。堪えられた。ともすれば迸りそうだったのだが、大人の責任とプライドが、寸前のところでそれを堪えることに成功したのだ。ただ、顔は多少、引き攣っていたし、声もおそらく、微妙に震えていたのだろうが。
罵倒ではなく、もう少しマイルドな感じで、どうして教えてくれなかったの、と伝えてみないとと思ったのだが、言葉は上手く出てこなかった。
そもそも上手く喋れる人間じゃない。さっきだって、躊躇して考えて、慎重に選んだにも関わらず、どうしようもないほど詰まりまくった言葉しか出てこなかったくらいだ。
キミの所為じゃなく、元々箱に入っていなかったんだと思うよ、だから今、その足りないピースを作ってもらっているからね、という話をしたいだけなのに、酷く言い訳がましい言葉にしかならなかったのだし。
言い訳なんて、本来ならあのパズルを作る義務すらない俺がすることじゃないはずなのに。
感情と理性と責任感が鬩ぎ合っている中、何も纏まらないまま、何かの言葉を口にしようとしたらしく、口が素直に開き始めていた。
しかしその開いた先から纏まりを欠いた言葉が零れ出るより先に、最初からある意味において全てが纏まっている少女がその口から、本人の中では纏まっているのだろうがこちらには全く意味が分からない言葉を告げてきたのだ。
「あのね、足りないから、持ってきたの。作ってくれるって、ここで」
少女は、それが当然のように、迷いなくそう言った。ここに持ってくるべきだから持って来たとでも、言いたげに。
真っ直ぐな眼差しは、ここに持ってくれば完成するのだと信じて疑わないその感情を表していた。そして、その完成の瞬間をひたすら待ち侘びている眼差しをしてもいた。持って来たあの日と同じ、目をしていた。
そういえば、今日もあの日と同じ服装だなと、何故か今更そんなことを思いながら、散らばった思考はふと、一つの考えを浮かべていく。たとえば、足りないピースを作ってもらうという目的で、ここにパズルを持ち込んできた、という可能性だ。
でも足りない部分を教えてくれるんじゃなくて、作りもしないで箱ごと持ってくるというのはどうだろう?
反射的に、視線は少女から離れ、居住スペースの方へ向く。今は、襖を閉めて中が見えないようにしているその先には、しかし作りかけの少女のパズルが置いてある。欠けたピースを持つ、パズルが。
足りない部分を作成してほしいと思うなら、一度はパズルを組み立てて、足りない部分があることに気づかないといけないわけで・・・、確かにあのパズルは封が切られていたけれど、この少女は少なくとも一度はパズルを組み立ててみたのだろうか?
組み立てようとしたパズルを崩してまたあの箱に入れて、その箱ごと持ってきたのだろうか?
あの、組み立てていくと完成ごとに蓋の風船が消える、あのパズルを?
「足りないところは、このお店で埋めてくれるんだって。違うのだけど、ちゃんとぴったり合うのがあって、それで作ってくれるんだって」
声は、隣からではなく、違う場所から聞こえてきていた。・・・と思ったのに、視線が最初に探したのはすぐ隣、今の今まで少女がいたはずの場所で、思った通り誰もいない事実にやたらと驚いてしまった。
消えたっ、と騒ぎたくなるほどに。
しかし騒ぎ出す直前、座っていた椅子から立ち上がった拍子に広がった視界の隅に少女の姿を見つけて、口から漏れそうになった騒ぎ声をとりあえずは飲み込めた。飲み込めたが、代わりに出すべき言葉を出すことも出来ずに諸々の言葉を詰まらせている間に、少女は軽やかに身を翻して。
ドアが、一体いつ開いたのか、分からなかった。
それくらい知らぬ間に僅かな隙間としか思えない幅だけ開いていたそこに身を滑らせて外に出てしまった少女は、まだ動けずに、声も出せずにいた間の抜けた大人である俺に向かって、最後に他にどんな選択肢も存在しないかのような声でそれを告げていく。
「あのね、パズル、作ってほしいの。ちゃんと──、」
・・・少女は、それだけ告げて走り去ってしまった。茫然と見送る視界の中から、消えてしまった。
でも、その消えた姿を初めて出会った時のように追いかけることはしない。しない、というより、出来なかったのだ。驚いたから、何も考えられないでいたから、まだ身体が反応出来ない状態だったから。
理由をつければ、どんな理由でもつけられる。でも本当の理由は、たった一つだった気がする。そのたった一つの理由に何故至ったのかを自分で自分に説明出来ないので、色々な理由を作り出したり、探し出したりしてみているだけで。
追いかけたとしても、追い着くことは決して出来ない。探し出すことも出来ない。
分かっていた。本当は、それだけが分かっていた。どうして分かっているのかが説明出来なくても、分かっていた。
脳裏には、少女の言葉が、全ての少女の言葉が残っていて、去り際の最後の言葉に至っては、その日、一日中繰り返し繰り返されるほど、残り続けてしまう。
そしてその言葉と共に・・・、パズルに向き合う、祖父の姿を見る。
幾つものパズルを、穏やかな、優しげな、ともすれば慈愛に満ちてすらいそうな表情で作り続ける、祖父の姿を。