あるサムライの話
その昔、大きな戦があった。
世界を二分する戦いはけれど、勝敗さえ決すること無く終結を迎える。
――誰かが云った。
あれは、ひとりの侍が勝ったのだ、と。
■ いち。 ――名も無い男の話
寂れた裏路地を、男は一人で歩いていた。
全身を覆う草色のコートは薄汚れて、深くかぶったフードにかの人の顔さえ見えない。そんな風貌故か、壁を背に座り込む人は皆珍しそうにその人を見た。擦れ違う人も、ちらちらと彼を見る。
でも、彼は何一つ気にしないまま、黙々と歩いていた。
「よぅ」
男の道をさえぎるように立つのは、見るからにチンピラと思われる男三人だった。
にやにやと笑みを浮かべ、これ見よがしに刀をちらつかせる。その場に居合わせた人々は皆目をそらし、そそくさと去っていった。
男は彼らをフードの下から一瞥すると、立ち止まることなく彼らの横を通り過ぎる。
そのときにチンピラのひとりが気付いた。こいつ、足音がしない。気配が無い。
それに気付かなかったチンピラ二人は、無視されたことにイラ付いて「おい!」と声を荒げる。ぐ、と肩を掴み――気づいたときには灰色の空を見上げていた。
フードの男は一歩も動いていない。ただコートの裾が、場違いのようにふわりと、柔らかく揺れた。
まだ立っていたチンピラは、何が起こったのかもわからないまま、一歩後ろへ下がる。酷く喉が渇いて、指先が小さく震えていた。
地面に引き倒された男は未だ立ち上がらない。目を回しているわけでもないのに、動けなかった。その場の空気が、刺すように冷たい。もう夏の初めなのに。
フードの男がその場からいなくなっても、チンピラたちはその場を動くことができなかった。
■に。 ――古びた宿の主
男には名が無かった。
無いのは名前だけではない。生まれた国も、家族も、帰る場所さえも無かった。
何も無い故に、男はずっと旅をしていた。諸国を渡り歩き、時々傭兵のような仕事をしてみたり、賞金首を捕まえたりして路銀を稼ぎ、また旅に出る。そんな生活をもうずっと、続けていた。
裏通りを更に奥へ奥へと進み、男が足を止めたのは、古びた安宿の前だった。
レンガ造りの壁はあちこち崩れ、窓ガラスは割れて継ぎ接ぎだらけ。扉を押し開ければ、ギギギときしんだ音が路地裏に響いた。
その中へ、男は躊躇いもなく入っていく。老朽化できちんとしまらない扉を足で蹴って閉め、埃っぽい室内に知った顔を見つけて、ゆっくりとフードを下ろした。
「息災だったか、宗蔵」
「これは、お久しい。最近はうわさも聞かず、心配しておりました」
「……そうか。西の国に長くいたのでな」
宗蔵、と呼ばれた男は、唯一ホコリの無いカウンターに座っていた。驚いたように立ち上がる彼を、男はわずかに苦笑して答える。
進められるまま中にカウンターの奥の部屋に入れば、古ぼけてはいるものの、掃除の行き届いた寝室が現れる。そこはこの宿の主である宗蔵の部屋で、勧められた小上がりに上がると、男はコートを脱いでくつろいだように座った。
作りつけの台所からお茶を用意して戻った男は、男と対面する位置に座る。
「……まだ、旅を続けていたのですか」
茶を一口啜り、聞こえた言葉に男は小さく笑った。
答えなどわかっているだろう、そういう笑みだった。
宗蔵は、色あせた草色のコートに目をやる。
綺麗にたたまれたコートは古びていたけれど、痛みは少なかった。大切にされているのがよく分かるそれは、彼にとってはもはや懐かしい物。そう思って、部屋の隅にある箪笥に目を移す。
そこには、彼と同じコートが一そろい、大切にしまってあった。
(未練がましいのは、わたしも同じさね)
ふ、と宗蔵は口元に自嘲気味の笑みを浮かべる。
こうして宿屋を始めて尚、あのコートは捨てられない。旅をやめない彼と同じように、自分もきっと、あのコートを捨てられないのだろうと、そう思うとなんだか可笑しかった。
「時代は、変わったな」
「そうですな……わたしらも歳を取りました」
宗蔵の視線が己のコートにあるのを見て、男はさらりとコートを撫でた。
長く雨風に晒され、すっかり色あせてしまった今も、触れるだけであの頃を思い出させる。
あの、鉄のにおいと熱。あの高揚感を。遠い日、二人は生きるか死ぬかの最前線にいた。仲間は日々少なくなり、そのたびに新しい人材が投入され、また、減っていく。敵も味方も入り乱れて倒れて行き、その流れの中、二人はぎりぎりのところで生きていた。
我武者羅に生きていた。
いちにち一日が必死で、また明日という約束さえできない日々の中、確かに彼らは、生きていた。
けれどそれはもう遠い昔のこと。
今や世界に戦は無く、有るのはただ日々の生活という名の現実のみ。
「戦が終わってもう、何年になりますか」
「……さて、な」
「あなたは、今も戦を生きておいでだ。……いつ、終戦になるのでしょうな」
わたしは、そう呟いて宗蔵はそっと己の手を見下ろした。
かつて血に塗れ、夢を掴もうと伸ばしていたその手は、今やしわだらけ。かつての名残のように剣だこが散らばるが、この手はもう、剣を振ることはできないだろうと思われた。
握り締めた手からはもう、血のにおいはしなかった。
宗蔵の侘しげな視線に、男も己の手を見やった。
男の手もまた、かつての戦で血に塗れ、たくさんの命を屠った。生きるために戦った。
けれど男の手は、今も尚「戦う」手だった。節くれた無骨な手は大きく、がさがさと乾燥して荒れていたけれど、掌や指の剣だこは何度も潰れて硬くなり、それは今も剣を握る手である。
戦など、もうとうに無いのに、と男は自嘲の笑みをこぼす。
戦いの日々はもう、無い。けれど、男は今も、あの時代の残滓のように戦う手を持って生きていた。
それも、全ては――あの男を、探し出すため。
男の全ては、まだあの戦の中にあった。
世界を二分するほどの戦争に、たった一度だけ見えた男。その姿を求めて、彼は今もひとり、戦の中を生きている。
「もう、潮時なのかもしれん」
ぽつり、と低く告げた男の言葉に、宗蔵ははじかれるように顔を上げた。
目を見開き、そうして見た男の顔は相変わらずの無表情で、閉じた口角をわずかにゆがめていた。
「……あなた、らしくも無いですな」
「らしく、ないか」
ええ、と頷いて宗蔵はまだ熱い湯のみを手に取った。
茶を啜る彼に、男はわずかに苦笑して自分も湯飲みを取る。
「終戦の折、誰の言葉にも耳を貸さずにひとり旅に出たあなただ。らしいわけありませんよ」
言って、宗蔵はちらりとたたんだコートの上を見た。
そこにおいているのは、一振りの刀。
かつての戦で、武勲を立てて下賜されたそれは業物で、鋼の鞘が鈍く光る。
もう幾十年も男と共にあった刀は、歳月を感じさせないほどに美しく磨かれていた。男は終戦後、あちらこちらから掛かる士官の話を全て一蹴し、刀ひとつで旅に出たのだ。
その姿を、かつての同胞であった宗蔵は今でもはっきりと思い出せる。
「『侍、故に』でしたかな」
「――よく覚えておるな」
ことん、と湯のみをテーブルにおいて、宗蔵の言った言葉に男は苦笑した。
「だが、確かにらしくはなかったな」
「えぇ。諦めるのでしたらお教えください。墓くらいは立てて差し上げますから」
にっと笑った男に、宗蔵もにやりと笑い返す。
それからしばらく、男は旧知の友と互いの近況など語り合った。
■さん。 ――砂漠の町の男
乾いた砂が風に舞う。
寂れた町並みに人影はまばらで、男はひとり、砂漠の町を訪れていた。
南の大国は、かつての戦争の後廃墟となった軍営地に商人が店を構えて栄えた国であった。
戦で家を焼かれ、土地を奪われて行き場の無かった民が集まり、一時は人口千人を超えるほどの巨大な国となったが、それは長くは続かなかった。
戦で森や草木は焼き払われ、水は汚染されていた。肥沃だった土地はあっという間に砂漠となり、数年も経たずに街は寂れてしまった。
男は、そこに噂を聞きつけて訪れていた。
風化してボロボロの石畳を歩き、男は人のいない通りをあるく。
コートの下では、刀の柄に触れていた。胸に宿る期待を戒めるように目付きを細め、それでも歩みが速まるのを止められない。
(宿に、いるという話だったな)
通りを抜け、男は立ち止まった。
そこは旅人向けの小さな酒場だった。二回に宿を兼ね、人がいなくなった今も開いている数少ない宿。見上げた看板は蝶番が壊れてぎいぎいとぶら下がり、屋根や土壁は崩れていた。窓には板がはめ込まれ、人がいるのかさえ不安になる。唯一、扉に「営業中」の札で、まだ人がいるのがわかるような有様だった。
男は刀を握りなおし、息をひとつ吐くと扉を押し開けた。
ぎぃ、と重い耳障りな音とともに扉が開き、中にいた何人かの視線を浴びる。見渡した店の中は、外見の通りに古びて汚い、チンピラの溜まり場だった。
小さなカウンターに、安いつくりのテーブルが数台。カウンターには何人か座っていたが、皆男に背を向けて、横目にちらちらと男を見ているだけだった。
(……いない、か)
そう思って、男は小さく息を落とす。
コートの下で握っていた刀の柄から手を離し、もう何度目か数えるのもやめて久しい落胆を感じながら、カウンターの空いている席に腰を下ろした。
「茶を」
「……ここは酒場だぜ?」
カウンターの中にいる老人に言えば、苦笑と共に香ばしい香りが漂う。
少し離れて座る先客たちは、もう男に視線を向けることさえない。こういう場ではそれが決まりごとのようなもので、男も自然と、他の客を視線から外した。
「あんた、侍かね」
「……さてな」
熱い茶を出した店主に問われ、男はわずかに首をかしげて答えた。
男の答えに、店主は肩をすくめて見せたけれど、その目は男のコートの下、刀の納まる腰に動き、やがて黄ばんだ歯を覗かせて、にっと笑った。
「久しぶりだな、侍を見るのは」
「前に、侍が来たのか?」
「あぁ。――もう随分前のことだがなぁ」
懐かしそうに目を細めて言う店主に、男は茶を飲む手を止めた。
「昔はここらにも、侍がいたんだがな」
戦が終わって、侍も減る一方だ。と店主は寂しそうに言う。
男は出された茶に手をつけつつ、店主の手元をチラリと一瞥する。
お茶を差し出したとき、わずかに見えた手は、戦場を知る手。自分と同じその手だった。
「……時代というものは恐ろしい。侍が侍でいることさえも難しくなる」
「時代、ねぇ」
店主が顎を指先でこするのを、男は黙って見ていた。
カウンター越しに見えるその体は初老特有の細さで、男は、店主が時折ベルトのあたりに手を添えるのに気付いていた。その仕草ひとつで、男にはわかる。
「この時代、誇りと腕っ節だけで喰っていけるもんじゃねぇ。侍でい続けるのは、もう、ムリだと思っていたんだが」
そう言う店主の口元には自嘲めいた苦笑いが浮かび、男は自分の刀をそっとなでた。
「あんたは……どうして侍を続けていなさる?」
「侍、故に」
淋しげな店主の声に、男はたった一言で答えた。
侍、故に。
侍だからこそ、こうとしか答えられない。それ以外の答えを求められても、きっと男には言葉を見つけられないし、どんな言葉を当てたとしてもそれは「違う」答えなのだろう。
店主も、それをわかっているからこそ、そうかいとだけ相槌を打って苦笑した。
「戦が終わって幾年。侍であることを辞められない男は、もういないと思っていたんだが、ね」
どうやら違ったようだ、と店主は小さくそうこぼして、「サービスだ」と男の前に小さな焼餅を置いた。
■し。 ――侍と、侍
朝もやに包まれた街は、活気に満ちていた。
それほど広くも無い道には人が絶え間なく行き交い、所狭しとひしめく店から呼び込みの声が響く。
男は、茶屋の長椅子に腰掛けて心もとない懐を思った。
旅から旅への男は、基本的にその日暮らしをしている。
けれども、侍には生きにくいこの時代。仕官しているわけでもない浪人崩れに仕事は無く、賞金首も大分数が減った。用心棒を雇うようなものたちは、それぞれお気に入りの侍を囲い、働き口は減るばかり。
(平和になった、証だがな)
男は苦笑した。
平和な世を作るために腕を磨き、侍となった昔を思う。
あの頃は、未来を信じて疑わなかった。戦いの先に平和な世界があり、約束された将来があるのだと思っていたけれど、実際に訪れたのは、喰うのにも困る毎日。
平和となった世界にもう侍は必要ない。剣の腕よりもそろばん、世渡りに銭。時代の波に乗りそこなった侍は、次々にいなくなった。
(これも、時代か)
男は思考を締めくくり、冷たくなった茶をぐいっと煽った。
懐から茶一杯分の金子を取り、置いていた剣に手を伸ばし――そのまま一歩、横に身体をずらす。
茶屋の椅子がまっぷたつになって崩れた。
その音で客は悲鳴をあげて逃げ惑い、行き交う人々も何事だと遠巻きに円を作る。
「避けたか。なかなかの腕と見た」
人垣の中心で、抜き身の刀を構えた男は楽しげにそう告げた。
言われた男は、刀を持ったままの状態で斬られた椅子を一瞥する。
一太刀でまっぷたつにされた椅子は木造だったが、きれいに真ん中を割られていた。切り口は滑らかで、一切無駄が無い。そこまで確認すると、男は顔を上げた。
「お主こそ」
「俺は宗兵衛。其方はなんと申す」
片や抜刀、片や抜きもせずに立ったまま、会話が始まる。
周囲は好奇心に満ち満ちた目で二人を見つめていたが、当の男たちは酷薄な笑みさえ浮かべていた。
「生憎だが、名は無い」
宗兵衛、と名乗った男は、その答えに片眉を上げた。
「では、名無しの何某殿とでもしよう。其方、かなりの腕と見たが、参戦は?」
「……なぜ、聞く」
ぎらぎら、とまるで野生の獣のような光を宿らせた目に、男は静かに問うた。
男の手には、まだ鞘に納まったままの刀。宗兵衛はそれに一瞬目をやり、にやりと笑みを深める。
「其方、侍であろう」
「……どうであろう、な」
迸る殺気に、男は知らず笑みを浮かべていた。
切れそうなほどの空気。びりびりと肌に刺さるこれは、男にとっては酷く懐かしい。無意識に刀を握る手に力が入り、気付けば周囲を囲う人垣はじりじりと後退していた。
その様子に、宗兵衛も気付いたらしい。小さく舌打ち、殺気を押さえ込むと刀を納めた。
「場所を変えよう」
それだけ言って歩き出す宗兵衛に、男はふっと笑みをこぼす。
宗兵衛は少し離れた場所で立ち止まった。男が歩き出すのをじっと見詰めており、男は持っていた刀を腰のベルトに納めた。割れた椅子に目を留め、茶屋の主人に多めに金子を握らせて歩き出す。それを待っていたように再び歩き出す背中を、男は黙って付いていった。
しばらく歩いたところで、たどり着いたのは開けた廃材置き場だった。
あたりには無造作に鉄くずや木片が散らばり、砂埃に喉が痛い。
「……抜け」
一定の距離を開けて立ち止まると、宗兵衛はそう告げて抜刀した。
すらり、と抜いた刀にスキは無い。その立ち姿だけでも、かなりの使い手とわかって男は小さく笑みをこぼした。
す、と腰に佩いた刀の柄に手を伸ばす。指先に触れる慣れた金属の冷たさに、精神が高揚するのを感じながら、抜刀の姿勢をとった。
金属同士がぶつかる音が、重く響き渡る。
宗兵衛の太刀筋は、その眼差しと同じく鋭かった。切っ先に一切の迷いはなく、振り下ろされた一閃を男は己の刀で受け止める。
一瞬の鍔迫り合いの後、宗兵衛は跳躍して距離をとった。
濃い殺気があたりに充満し、男は静かに刀を握り締める。
静かな、けれど壮絶なまでのその眼に、宗兵衛はごくりと喉を鳴らす。それが恐れからなのか、恍惚からなのか、宗兵衛にはわからなかった。ただ、口角に浮かぶ笑みが深まる。それが答えだろうと思う。
宗兵衛が斬りかかり、男が受ける。
男の一閃を宗兵衛は軽やかに交わし、繰り出す斬撃を男は刀身で受け止め、または受け流した。男の一撃は重く、宗兵衛の手をびりびりと襲う。宗兵衛の立ち回りは軽やかで、まるで風のように鋭く男を狙った。
重く広がる殺気に、あたりからは音が消える。剣戟の音と激しい立ち回りの足音だけが、嫌に大きくあたりに響いていた。
(強い)
男は宗兵衛から目を離すこと無く、口元に笑みを浮かべてそう思った。
既にわずかに息が上がり、額にはうっすらと汗がにじんでいた。草色の上着は裾がところどころ破れて肌が覗き、裂かれた薄皮がちりちりと痛む。それでも男は、構えを解こうとはしない。
宗兵衛もまた、同じことを思っていた。
男の切っ先が掠めた頬や肩口にはわずかに血が滲み、その痛みにさえ気が高ぶる。
ぎらぎらと光る双眸は、正しくかつての戦場で常に見ていた、侍の目。
数多の命を屠り、血に塗れて尚戦い続けることを選んだ者の、強く気高い瞳だった。だから宗兵衛は笑う。久方ぶりに血が沸きあがるような高揚に酔い、喉の奥から迫り上がる愉悦を隠そうともせずに笑って、また地を蹴った。
時間と共に精度を増してくる宗兵衛の剣戟に、男もまたありったけの力で応える。
懐に飛び込む、その恐ろしいまでの脚力を持って、宗兵衛は男に突っ込んだ。
次で決着を。そう言っている刀に、男も構えを変えて跳躍する。
高く金属のぶつかり合う音が響き渡る。
二人の剣は、互いの首元の皮膚一枚を切り裂き、止まった。
きいん、と刃の余韻だけが鼓膜を振るわせる。男は動かず、また宗兵衛も動かなかった。
「……先の戦、いずれの軍に所属していた」
互いに刃を突きつけあいながら、宗兵衛は口を開く。
その口調に殺気は無く、男はゆっくりと刃を引き、鞘へと収めた、
「南国の、しがない軍師をしていた」
小さな隊を率いて最前線でな、と苦笑交じりに告げる男に、宗兵衛もまた刀を引く。
ちん、と小さく音が聞こえたのを確認して、男は踵を返す。
「いずれ、また」
「……そうだな。いずれ」
背中に向けて放たれた宗兵衛の言葉に、男は振り返らないまま、答えた。
その口元にはうっすらと笑みが浮かび、男は、それから一度も振り返らないまま、街を後にした。
■ご。 ――戦場の跡、にて
男はたった一人、誰もいない荒野に立っていた。
そこは、かつて歴史の中心であった場所。
多くの命がそこで生き、そして散っていった場所だった。
終戦を迎えて久しい今、そこにあるのは焦土と瓦礫のみ。ただ、それらも全ては時の流れと共に風化し、あるものは朽ち果て、苔生しているだけだった。
そこに立ち、男はそっと瞑目した。
こうして旅をするようになってから、男はよくこうして目を伏せる。
それを、まるで祈っている様だと言ったのは、流れ着いた先の名も知らぬ子どもだった。瞑目し、まぶたの裏に浮かぶのはかつての戦友ばかりなのだから、祈っているという言葉も強ち間違いではない。
なぜなら、彼らの殆どはもう――彼岸の人、なのだから。
あの戦で、たくさんが死んだ。
顔を合わせ、翌日にはもうそこにいないなんて珍しくも無く、それでも男は共に戦った彼らの顔を忘れない。戦からもう何年もたつのに、男にとってはつい昨日のことのように思い出せるのだった。
それはきっと、男の心がまだ、あの戦場にあるから。
だから、男は今もこうしてかつての戦場へと足を運ぶ。
ここにわずかに残る戦の匂いを求め、まるで呪いのように、ここに来ないことができないのだった。
(――だれか、いるのか)
吹きすさぶ風に、人のにおいを感じて男は顔を上げた。
ここに来る人は滅多にいない。
昔は侍を捨てられない浪人が何人かいたけれど、今ではもう、誰もいなかった。
だから珍しいな、と思う。
男は好奇心のままに、瓦礫のほうへと足を進めた。
歩くたびにざりざりと砂を踏む音が響く。
風には鉄錆の匂いが混じり、含む空気は淀んで砂埃に塗れていた。その中へと歩き、男がたどり着いたのは、かつて激戦のあった後の残骸跡だった。
「……なんと」
男は息を飲み、思わず、といった風に呟いた。
(まだ、形をとどめているものがあったか)
そう思い、そっとそれに触れた。
手袋越しに、金属の冷たさが伝わる。長く放置されていたであろうそれは、かつての戦で戦艦として使っていた乗り物だった。
攻撃に特化しながら、防御性にも優れていたため、終戦間際には上級軍人の生活の場ともなった。それゆえに最後は戦艦の潰し合いになり、侍は戦艦を本丸として落とした。
だからもう、形を留めた戦艦など殆ど見られない。
けれど、男の目の前にあるのは、確かにキズだらけでボロボロではあるものの、しっかりと当時の形を残した戦艦だった。
(……中には、入れるのか?)
男は湧きあがる懐かしさに、戦艦を見渡し、そんなことを思う。
見たところ外装はボロボロで錆びていたが、居住空間としての機能はまだ生きていた。
周囲をぐるりと回ると、瓦礫に隠されるようにしてあった入り口を見つけた。鉄の扉はなく、ぽっかりと開いた入り口からは冷たい空気が男の侵入を拒むように吐き出している。
(人が、住んでいるのか)
驚くべきことに、入り口には人が住んでいる跡があった。
砂と蜘蛛の巣だらけの廊下に埃はわずかしか無い。入り口を隠していた瓦礫は人工的に詰まれた跡にも見えるし、わずかだけれど、火と人間のにおいもする。
浮浪者の類か、と男は思う。戦が終わり、侍崩れとなった者が住処を求めてここで暮らしているのだろうか。そう思ったけれど、肌に感じる気配に、静かに首を振った。
(この、気配は)
知らずに男は、腰に佩いた刀に手を添えていた。
すぐに抜けるように柄に触れていた指に気付き、男は薄く口角を上げる。一歩、進む毎に濃くなる気配に、男は柄を握る手に力が入るのを感じていた。
本能が告げていた。―-この先にいるのは、侍だ、と。
血肉が熱を帯びるのを押さえ込み、男が最奥の部屋に着く。
そこにはひとりの男が、男に背を向け、床に静かに正座していた。
男がそこにいることに、彼は気付いているだろう。そう思うけれど、双方は動かなかった。
ただ、男は黙って戸口に立ち、背を向ける男をじっと見詰める。
歳の頃は、おそらく男よりわずかに上。
背中からも判るその身体は、ゆったりした服の上からでもわかるほどに細く引き締まっていた。薄く汚れてはいるものの、外套は白く、機能性を重視したつくりは旅なれた風格を漂わせている。背中に流した灰色の髪は、ゆるく波打っていた。
何よりも、男の目を引くのは、腰についている、一振りの刀。
(灰髪の、侍)
男は、そう思って柄を握る手に力を込めた。
手の中で、刀がチキリと音をあげる。それがまるで、刀さえもこの邂逅を喜んでいるようだ、と思った。
思い出すのは、終戦間際の夜のこと。
あの日は丁度満月の夜だった。
いつもよりも大きく、美しく見えた月が印象的で、だから今も、月を見ると思い出す。
男にまだ名があった頃、終わりの見えない戦は激しさを増し、毎日、あちらこちらで命が散っていった。男も日々前線に立って戦い、生きるか死ぬかの中で我武者羅に剣を振るっていた、そんな頃。
月夜を背負って立つ、ひとりの男がいた。
月の光の中で、彼の灰色の髪が銀に光り、その清廉な立ち姿に男は一瞬動くことさえできないほど、魅入られた。逆光で顔は見えなかったが、その双眸は鋭いと思う。
風にはためく上着は漆黒。それはどこの軍隊にも無い色で、自由なその形で彼が軍人ではないことを知る。けれど男の腰には刀が一振り、重く光っていた。
(――侍)
そう、思った。
握り締めた抜き身の刀が、ちゃきん、と音を立てる。その音で、男は自らの指先が震えていることを知った。
月光を背負う男は動かない。男もまた動けない。周りでは激しい戦いに、あちこちで怒号や爆発音が響いているのに、その空間だけは、見えない壁で隔絶されたように静かだった。
――どれほど、そうやって対峙していただろう。
「っ!」
先に動いたのは、灰髪の男だった。
動いた、と思ったそのときにはもう、彼を見失っていた。それほどに早く、気配さえ追いつけないその跳躍に、男は目を見開く。
気付けば背後で爆発が起きていた。
咄嗟に腕で顔を守り、爆風に吹き飛ばされないように重心を低くしてみたのは、いつの間にか背後に迫っていた、敵軍の銃兵器。それを、灰髪の男はあっという間に破壊してしまう。一閃が煌く度に、あるものは倒れ、あるものはバラバラになって地に落ちる。大型の戦車は爆発し、その場をあっという間に硝煙と炎、鉄錆の臭いに染めた。
その様を、男は地に伏せたまま見ているしか、できなかった。
――動けば、きっと自分もあの刃に倒れるだろう。
それは、確信だった。
(適わない)
悔しいけれど、本能がそう告げる。
男とて軍人であり、侍。幼い日より刀を握り、ひたすらに腕を磨き、仕官してからは経験を積んできた。数多の血に染まり、そのたびに強くなる。その自覚はあったし、誇りだって持っていた。
でも、舞うように戦う男を前に、はっきりと実力の差を思い知り、まける、そう思ってしまった。
それが、男には悔しかった。
気付けば爆風は止み、濃い血と煙のにおいの中で男は立ち上がる。
あれほど美しく見えていた月は黒煙に霞み、男は煙の中で灰髪の男を捜した。
けれど――どんなに探しても、もう、その姿を見ることは、できなかった。
そうして、その後しばらくして。
戦は唐突におわったのだった。たった一人の侍が、それを終わらせたと知った時、男は、ああ、あの男か、と思った。
ただの直感だったけれど、外れているようには思えず、男はたった一人で旅にでる。仕官の道は全て蹴った。子飼いの侍になるよりも、ただ、あの男と戦いたい。それだけの願いを胸に、旅立つ男を誰も止められなかった。
奇しくも、その背中はあの時に男が見送った侍の背と、同じだった――
■ろく。 ――灰髪の男
「このようなところに、何用ですか」
低く響いた声に、男はびくりと肩を揺らした。
灰髪の男は振り返らない。立ち上がりさえせず、しかしその背中からは、確かに戦場にいるような、息苦しいような威圧感を漂わせていた。
それに負けぬように、と男は刀の柄をぐっと握る。かちゃ、と小さく音が聞こえたけれど、灰髪の男は指一本として動かすことは無い。
男は口を開くこと無く、その背中を見つめていた。
(この、男だ)
直感は今や確信となり、侍の本能がそう叫んでいたけれど、男は一言も発することができない。
目の前に、長年追い続けた男がいる。手を伸ばせば触れられる距離に。
なのに、男は自分がどうすればいいのか、まるで判らなかった。
――どれほど、そうして無言の時間が過ぎただろう。
ゆらり、と灰髪の男が動いた。
柳が風で揺らぐように、男が立ち上がる。さらりと灰髪が背に流れ、ゆっくり、彼が振り返る。それをただ、男は瞬きさえ忘れて見つめていた。
(あぁ、やはりこの男だ)
振り返った灰髪の男の目をまっすぐに見て、男は嘆息する。胸に広がるのは不思議な充足感。やっと見つけた、そのことに対する安心感も少し、混じっているようだった。
灰髪の男は、まっすぐに男を見詰めた。
距離にして、十数歩しか離れていない距離で、男たちは互いを見詰め合った。
見据える灰髪の男は、最後に見たあのときよりも少し、歳を重ねていた。終戦から何年も過ぎ、それでも男の鋭い気配は変わらない。その、纏う空気は戦場特有のもので、そのことに男は笑みをこぼした。
(――侍)
男は無意識に喉を鳴らした。
顔には皺が刻まれ、肌から若さは失われていたけれど、灰髪の男の目はあの日のまま、ぎらぎらと猛禽類のような光を宿していた。
だから男は、鯉口を切る。きん、と小さく音が響き、男はまっすぐに灰髪の男を見据えた。
灰髪男の目は恐ろしいまでの光りを宿しながらも、水面のように凪いでいた。
けれどその手が、腰に佩いた刀に触れることはなく。男はもう抜刀の姿勢に入っている。殺気も溢れたこの状態で、刀にさえ触れないのは戦う気が無いのか、抜くまでもないと思っているのか。
(ならば)
男は一気に抜刀し、そのままの勢いで灰髪の男と距離を詰め、その首筋で刃を止めた。
男が少しでも手を動かせば、頚動脈が斬れる、その状態になって尚、灰髪の男は動かない。指の一本さえ動かさず、ただじっと、男を見据えていた。
「……抜かぬのか」
言外に「斬られたいのか」と含ませて言い放てば、男は口元だけをにやりと上げた。
歪んだその表情に、目だけが付いていっていない。男を見つめるその目は、確かに好戦的に輝いているのに、その表情はいっそ恐ろしいまでに穏やか。その温度差に、男は言い知れぬ恐れを抱いた。
「斬りたければ、斬りなさいませ」
穏やかな声音でそう告げる灰髪の男の目は、本気だった。
伏せられること無く、けれど死を望むような色さえも無く。淡々とそう言い紡ぐその底知れぬ瞳に、男は小さく息を吐き出すと、そっと刀を首筋から離す。
男が鞘に刀をしまうのを眺め、灰髪の男はさっきまで冷たい刃が当たっていた首筋にそっと触れた。
灰髪の男はまだ笑っていた。笑ったまま、ついと視線を動かした先は、男の腰に佩いた刀。
「いい、刀だ」
灰髪の男は、そう言うと男を部屋の隅に促した。
見ればそこには、かつて大戦中によく見たソファがあった。色あせて大分ボロボロにはなっていたけれど、まだ使えるのは見てわかる。
それを見て、男は気付いた。
(ここは、上級軍人用の休憩所か)
見渡した室内は、月日のせいであちこち崩れ、汚れてはいたけれど、確かにかつて自分も世話になった休憩所だった。
簡易キッチンに大きなソファ、奥には仮眠用のベッドもあったはず。その設備の全てが、歳月に老朽しているもののまだ使える状態にあった。あちこちには手を加えた跡もあって、きっと灰髪の男がこの設備を使っているのだろうと男は納得する。
勧められるままソファに座ると、灰髪の男も対面の椅子に座る。
その動きは、戦い最中の侍そのもので、男はじ、と灰髪の男を見た。
自分が仕官の道も蹴って男を捜し求めたのは、刀を交えるためだった。
戦いたい。その本能だけで侍を続けて旅をやめなかったのに。
(どうすればいいと、いうのだ)
苦虫を噛んだような顔をしながら、男は内心でそう呟いた。
見つけたら戦おうと決めていた。その後のことなんて何も考えていなかった。ただ、戦うことだけを求めて生きてきた十幾年。
なのに、今の状況はどうだ、と男はため息を落とす。
やっと捜し求めた男と相見えることができたというのに、刀さえ抜かない。侍の目をしているのに、殺気を浴びてもまるで沼のように動かない。
どうすれば、と、男は頭を抱えたくなった。
灰髪の男は、男のそんな様子をただ黙ってみていた。
「その、刀を見せていただけませんか」
沈黙を破ったのは、灰髪の男だった。
その声に男ははじかれたように顔をあげ、それから自分の腰に佩いている刀を見た。薄く笑ったその顔からは何を考えているかは欠片も読み取れない。だから、男は怪訝に眉をしかめて見せた。
「いやなに、随分と美しい刃だったので、近くで見て見たいと思いましてね」
「……そう、か」
笑んだまま言う灰髪の男に、男はなんだか肩の力どころか全身の力が抜けてしまったように思えて、力なく頷いた。
腰のベルトから鞘を引き抜き、そのまま灰髪の男に手渡せば、男の目がまたきらりと光り、すらりと刀身が引き抜かれる。その手つきは侍そのもので、柄や刃、切っ先となめるように動く視線を、男は見つめた。
「……いやすばらしい。この時代に、こんないい刀を見られるとは思いもしなかった」
一通り眺め終わり、すらりと鞘に収めながら男は感服した、とばかりに呟いた。
その、鞘に収める手つきを眺めていた男は、その慣れた手つきにわずかに首をかしげる。
(太刀の扱いに慣れている。毎日刀に触れる者の手つきだ)
なのに灰髪の男は己の太刀にさえ触れない。その矛盾に、男は首をひねるばかりだった。
そんな男の疑問を察しているかのように、灰髪の男は男に刀を返すと、己の腰に佩いた刀に目をやった。
柄ではなく漆黒の鋼で出来た鞘を握り、ぐっと力を入れてベルトから引き抜く。そのまま机に置くと、ごとん、と重い音が響いた。
日の元に晒され、その刀は艶やかに光りを反射していた。
黒い鋼は曇りひとつなく磨きこまれ、それでもあちこちにある傷が永い歳月を窺わせる。刃は見えないけれど、柄も鍔も、飾り紐に至るまで手入れが行き届き、大切にされていることがよく分かる刀だった。
「侍、ですね。侍として生きる御仁を見るのは、もういつ振りでしょう」
「……貴殿は、違うのか?」
目を細めて、感慨深げにそういう灰髪の男に、男は、机の上の刀を一瞥してそう言った。
灰髪の男は苦笑する。節くれた無骨な掌を後頭部にあてて、いやあ、と言葉を濁すその姿に、男は言い知れぬ不快感を覚えて、ぎゅっと拳を握り締めた。
「私はもう、侍ではありませんよ」
ちらり、と刀を見て、灰髪の男は言う。声音を少し落とし、そうして告げた顔に浮かぶのは淋しげであり、悲しげであり、懐かしむような、そんな力の無い笑みだった。
その顔を、男はこれまでの旅で見つめ続けてきた。
侍がいると聞きつけて訪れた先、侍だった者は皆、その笑みを浮かべていたから、男は深く息を吐き出した。
(この、男までもが)
そう思って、男は瞑目する。
悼むようなその表情に、灰髪の男もまた瞑目した。
「――戦が終わって十と幾年。世は平和になりましたな。もう、人に必要なのは刀ではない。……もう、侍は過去の遺物でしか、ない」
淋しげに語る灰髪の男は、愛しそうに黒い刀を撫でた。
「たくさんの命が散って行きました。自分もいずれはそうなるだろうと思いながら、けれど終戦を迎えてしまった」
自嘲するように笑みを浮かべる灰髪の男に、男は自分もそっと腰に佩いた刀に触れる。
硬質な冷たさは、男にとってずっと共にあった、魂も同じ。戦は無くなり、戦いは終わり、平和が訪れて尚、侍として血に塗れた自分に、もうそれを手放すことなどできなかった。
必要ないからと、手放せる物ではない。それが侍なのだと、男は思う。
私は、そう呟く声は小さく、けれど灰髪の男はまっすぐに男の目を見た。
侍の強い光りを宿したその瞳に、男は臆することなく受け止める。視線が交わり、どちらとも無く、ふと、笑った。自嘲でも苦笑でもない笑みだった。
「私は、ここでずっと待っておりました。この、終いの地で――侍を、ね」
ちゃき、と黒い刀が小さく鳴いた。
その直後に男は思わず刀の柄を握り締めた。一瞬にして、空気がぴんと張ったような静かな殺気が満ちる。灰髪の男は相変わらず穏やかに笑んでいたけれど、その目は獲物を狙う侍の目、だった。
――だから男は、思わず口角を上げた。
「外へ、出ましょうか」
ここは、少し狭いですから。
そう言う灰髪の男は、刀を腰に収めると足音もなく踵を返した。
■しち。 ――灰髪の侍と、サムライ
焦土の細かい砂粒が、風に舞って日の光りを霞ませる。
響くのは、風が瓦礫の間を吹き抜ける、甲高い風なりの音のみ。
そこに、二人は対峙していた。
言葉はなかった。間合いギリギリに距離をとり、互いに柄に手をかけた状態で、二人は動かない。
ただ黙って立っているように見えて、彼らの立ち姿には一切の隙は無かった。刀はまだ鞘に納まってはいるけれど、切りかかれば抜刀の勢いのまま斬激は受け流され、倒れるのは斬りかかった方だろう。
それを、彼らは肌で感じていた。
掌にじわりと汗を握るのを感じて、男はわずかに口の端を上げる。
強いと、そう感じるのは、宗兵衛との戦い以来。それ故、男はこみ上げる笑みと高揚を抑えることさえしなかった。
男のそのぎらついた笑みを真正面から受けて、灰髪の男もまた笑みをこぼす。じりじりと足幅を広げ、己の緊張を高めながら、彼もまた興奮を隠しきれない。
強く、一陣の風が焦土の砂を巻き上げた。
砂ぼこりに、一瞬互いの姿が隠れる。その影で、男は刀の柄を強く握り締めた。灰髪の男もまた、柄を握り締めた。足に力を込め、砂埃の向こうにある姿を、目を凝らしてじっと睨みつける。
「――参る!」
小さく宣言した言葉は、同時だった。姿を目視すると同時に、ふたりは地を蹴って刀を抜き放つ。
ぎぃん、と重い金属の音が響いた。
刀から火花が散り、互いの力で切っ先が細かく震える。至近距離に顔を突き合わせ、二人はまたにやりと笑った。
押し合う刀を引き、また押し、踏み込めば受け流され、薙ぎ払えば軽やかに避けられる。一太刀は重く手に響き、鋭い殺気に肌が切れるような気さえした。
やはり、強い。
男は柄をぎりりと握り締めた。
息を深く吸い込み、男は懐へと一気に距離を詰める。姿勢を低く、這うような姿勢から繰り出す剣筋を、灰髪の男は楽しそうに受け止めた。
ギン、と音が響くと共に巻きあがる砂。
――受け止められることは、承知の上。
剣を交えて男はにやりと笑う。灰髪の男がその意図に気付くのと、男が腰を落とした姿勢から足払いを仕掛けるのは、同時だった。
「ッ!」
ぐらり、と身体が傾き、ぎりぎりと押し合っていた刀が打ち払われる。
灰髪の男は地に手を着き、男はそこを目掛けて刀を横になぎ払った。
取った。そう思ったのも一瞬で、灰髪の男は一瞬早く体勢を立て直し、後ろに大きく跳躍することでその一閃から逃れていた。
距離をとり、男は詰めていた息を小さく吐き出した。半身に構え、灰髪の男に切っ先を向ける。灰髪の男もまた、それに応えるように構えを変える。
ふたり同時に地を蹴った。
砂煙が高く舞い上がり、その中で重く刀がぶつかり合う。磨きぬかれた刀身に映る互いの顔は、ぎらぎらと笑っていた。
「だれが、侍ではないというのだ」
押し合いながら、男は嘲るように言った。
その言葉に、灰髪の男はわずかに首をかしげて、それから押し合う刀を力技で振り払い、無理矢理距離を作る。
数歩後ろに踏鞴を踏み、男は表情に笑みを貼り付けたまま灰髪の男をねめつけた。
「その動き。侍をやめたと言っても、だれも信じぬ」
「……そう、ですね」
灰髪の男は、肩を竦めてそう呟いた。
「私は侍であることを捨てた人間です。――捨てようとして、結局はできなかった、けれどもね」
苦く告げて、灰髪の男は視線を手に握る刀に移した。
戦いの最中に相手から視線を外すのは、負けるも同然。その隙に斬り捨てられてもおかしくないけれど、男は動かなかった。
――今、斬っても勝ちにはならないと、そう、思ったから。
灰髪の男は、男が動かないことをわかっているのだろう。目元を細めて、想いを馳せるように遠くを見やった。
「戦の中、たくさんの同胞が散っていきましたな。私は、私のいた隊の唯一の生き残りでね」
灰髪の男の目に映るのは、焦土と化した広大な台地。
かつてそこには雄大な草原があったのだと聞く。小さな小川に、夏になれば色とりどりの花が咲き、動物達もたくさん生きていた。
そこを戦場にしたのは侍だった。三方を山に囲まれ、見晴らしは適度にあり、流れ込む川に水の心配もない。広い土地は戦艦を置いても目立たず、立地としては最適。それゆえにこの場所は戦地となり、そうして戦争が終われば焦土となった。
今では、青々とした草原は乾いた砂が舞うだけとなり、川は既に跡形も無い。花も動物も、全てが死に絶え、そこは正しく、「終いの地」であった。
灰髪の男の仲間も、ここに眠っていた。
戦末期の、もはや互いの生き残りをかけた戦いの最中に、灰髪の男は気付けばひとりで、敵陣のど真ん中で戦っていた。
「右も左も敵だらけでね。ここで死ぬんだと思いながらも刀を振るい続けました」
最期まで侍であり続けようと、侍として果てようと。ただそれだけを思って戦い続け――気付けば、敵も、味方も、誰一人として生き残っていなかった。
「死に損なったと、そう、思いました」
たった一人生き残り、数多の屍の上に立ちながら、灰髪の男はただ立っていた。
むせ返るような血と炎の臭いの只中、これからどうすればいいのかも判らず、だから、灰髪の男は血塗れの刀を引っ掴んで一人さ迷い歩きだした。
向かう先はどこだって良かった。戦場なら、どこでだって。
「自分の、死に場所を求めていたんですよ。死ねなかったから、今度こそ、とね」
嘲るような笑みを浮かべて、灰髪の男は大きく肩をすくめた。
今思えば、あの時の自分は刀に憑かれていた。人を斬れば修羅になると、教えてくれたのは士官して始めての上官だった。修羅になれば刀に憑かれる。血を求めて戦いの中にしか身を置けなくなる。人間にはもう、戻れない。侍であるしか、なくなるのだと。
「――そんな時、でした。ひとりの侍に出会ったのですよ」
すう、と灰髪の男は細めた目を男に移す。
口元に浮かぶのは、穏やかな笑み。懐かしむようなその声音で、灰髪の男は言葉を続けた。
「血と爆煙の中、その人はまっすぐに私を見ました。立ち姿には一分の隙もなく、ここで終わるのだと、そう、思えました」
その言葉に、男はわずかに瞠目した。
思い出すのは、あの火薬と、鉄の燃える臭いに満ちた戦場。
今でも目を瞑るだけで思い出せる、あの朱い記憶に、たった一人だけ鮮やかな紅の色を持って立っていた。
その姿が、神聖な獣のようにさえ思えて、腰に佩いた刀を抜くのさえ、躊躇った。戦いたい、と全身の細胞が望んでいたのに、その姿を見ていたくて動けなかった。
――動けたのは、彼の背後に迫る一団を見つけたから。
彼を死なせるのは駄目だ、と思ったそのときにはもう、地を蹴って疾走していた。
彼の命を狙っている銃器を切り伏せ、戦車を叩き潰し、飛び掛る斬激もねじ伏せた。鬼気迫る戦いは獣じみていて、それでもただ、彼と戦うのは自分だと、それだけのために跳躍する。
全て終わった時、もうもうと立ち込める煙の中に、彼の姿は無かった。
諦めきれず、暫く探し歩いたけれど見つかることは無かった。
「それからずっと、私は放浪の身です。ただひとりを探して、当ても無く」
皮肉るような笑みを浮かべ、灰髪の男は握り締める刀を見る。
いつ逢っても戦えるように、と毎日磨き続けた刀。終戦し、戦いが終わって尚腕をさび付かせないための訓練は欠かさなかった。
けれど、その力を他の人間に向けることは、しないと決めた。自分が刀を向けるのは、もう、たった一人だけ。そう決めたのは、もう終わりにしたかったからだった。
「ある町で、噂を聞きました。古びた宿の店主から。――侍を探して旅をする男がひとり、いると」
終戦から何年も経って、ようやく見つけた、と思った。
聞きつけた侍の噂はどれも違って、望む人にはたどり着かなくて。もう諦めようか、そう思った頃にやっと聞けた。
灰髪の男は、霞かかっていた視界に、一筋の光りを見たようだった。
「きっと、あの時の侍だと思いました。だから……私は、ここで待つことに、決めたのです」
この、終いの地で。
そう言葉を締めくくり、灰髪の男はまっすぐに男に視線を向けた。
この場所は、戦争が終わった地。あの戦いの夜、二人が邂逅した場所だった。男はそれを知らないけれど、灰髪の男はよく覚えている。今、立つこの場所で出会った。だから男をここで待っていた。
灰髪の男の笑みが、男にさぁ戦おうと告げる。
男は互いに戦いを望んでいたのだと理解して、ふと、笑う。好戦的な笑みに対し、男が浮かべたのは苦笑が混じっていた。
「――だれが、侍ではないものか」
笑みを浮かべ、切っ先を灰髪の男に向けたまま、男は言う。
「お主は真――侍、だ」
そうして、男は地を蹴った。
灰髪の男もまた、地を蹴る。焦土に砂埃を立てて、重く斬激の音を響かせ、男達は刀を交える。
――その昔、大きな戦があった。
世界を二分するほどの戦は、けれど勝敗を決すること無く終結を迎える。
誰かが云った。
あれは、ひとりの侍が勝ったのだと。
その侍の名はだれも知らない。
やがて、名も持たぬ男を、人はこう呼んだ。
――サムライ、と。