悪
これはすべて俺が未來から聞いた話だ。
揖斐村の中にある小さな集落の小学校の教室の一角でそれは始まった。
「痛っ!」
未來が小学4年生だったころだった。図工の授業中にカッターナイフを使って工作をやっていた時のことだ。長時間集中して工作をしていた未來が疲れたから体を伸ばした。油断したのはその手には刃が出たままのカッターを握ったままだったということだった。そのカッターの刃は不運にもたまたま通りかかった男の子の腕に刺さってしまった。刺し口からは大量の血が出て男の子は大号泣して教室中がパニックに襲われた。傷が思いのほか深く救急車を呼ぶ始末になってしまったらしい。
その当時の未來は正義感が強くて悪いことをする奴は絶対に許さいっていう感じで意地を張るような感じだった。例えば、好き嫌いをするような奴は許さないとか。
そんな正義感あふれる未來は自分の刃物で刺してしまったという行いに強く責任感を感じて泣きながら頭を下げて謝ったらしい。幸いにも男の子は数針縫うだけの怪我で済んで向こうの親御さんもこの程度の傷は子供にはつきものだと許してくれた。
カッターを持ったまま腕を伸ばした未來も悪いが授業中に勝手に歩き回っていた男の子の方にも責任はあるということで周りの人たちは未來をなだめた。しばらく、立ち直れず学校にも行けかったが時間がたつにつれて少しずつ回復していって学校にも普通に通えるようになった。
ここまで聞けばただの小学校で起きた苦い思い出にしかならない。
この事故はただの始まりに過ぎなかった。
事故のショックの傷が癒え始めた頃に未來は妙にうずうずと表現しがたい不満に襲われた。その時に思い出すことは大抵あのカッターナイフで人を刺してしまったことを思い出す。どうして思い出してしまうのか分からなかった。なぜなら、あの事故は未来には苦い思い出で思い出したくないことでもあるはずなのに、そして何よりも刺した当時のような罪悪感がまったく感じられないことに腹が立った。何の罪もない人を傷つけた自分が許されるはずがないはずなのになぜかあの刺した感触がどんどん鮮明に思い出されて行った。
肉を刺した時の感触とそれと同時に血が噴き出る抵抗がどうしても忘れることが出来ず、なぜかあの感触がいいものだったなと感じるようになっていた。なぜそうなってしまった明確な理由は分からない。ただ、強すぎる正義感は時にとてつもない強力な悪を生み出すことがある。特にあの当時の未來はその正義感が強すぎた。学校でも委員長の立場ということだったから悪いことをするクラスメイト注意し、悪いことをする奴のことをとことん攻めるような奴だった。そんな強すぎる正義感を持つ奴がある日突然、経験のしたことのない悪事をしてしまった時、未知の経験となったそれが強く鮮明に残りそれが普段正義感で縛っている自分の枷を外し快感になってしまった。
殺人事件を起こす人の中には本当はいい人、こんなことをするような子じゃない、ありえないという人がいる。それは普段自分を世の中のルール、正義感、責任感のストレスで縛っていてそれが解かれて快感の先が人を殺すに行きついてしまった者たちだ。いい人の心の中には黒い悪の心が必ず存在する。
未來もその黒い悪の心が顔を出すきっかけがその事故だった。
強く押さえれば押さえるほどその心は強くなっていた。
刺したい刺したい刺したい刺したい。強くなるにつれて自分がコントロールする自信がなくなって来た未来は少しでもこの欲を弱くするためにいらない紙や段ボールを乱雑に刺したり切ったり、母親の手伝いで肉を包丁で切ったり見ていないところで刺したりしてその欲を軽減したが、それでは欲が完全に収まらない。我慢し続ければ、また人を刺してしまうかもしれない。
ついに未來は生きている生き物に手を出した。最初はバッタのような小さな昆虫たちだった。住んでいた集落は山の中で少し草むらに入れば簡単に捕まえることが出来た。だが、虫がたくさんいる草むらには大抵子供が虫取りでたくさんいることを知っていた未來は朝方早くに虫を捕まえ籠に捉えて誰もいない家の庭でバッタを円を描くためのコンパスの針で刺殺した。もがくバッタをさらにはさみで斬り裂いた。
「楽しかった」と思わずつぶやいてしまうくらいのそう快感があった。
その時、未來がガラス戸に移った自分の姿を見て身が震えた。
瞳の色が見慣れた黒から赤黒くなっていた。
数日後、ついにバッタでは物足りなくなった未來は川で小魚を釣り上げて魚を殺した。今までの虫たちとは違って刺せば出てくる血の感覚がたまらなかった。気付いたころには未來の周りには大量の魚の死骸はどれも原形をとどめていなかった。
生き物を殺すことに快感を覚えた未來は止まらずどんどんエスカレートしていった。家の軒下に仕掛けたネズミ捕りにかかったネズミを殺した。はさみのような文具では殺せないと分かっていた未來は台所から勝手に包丁を持ち出してネズミの手足を切り落として苦しむさまを見ながら最後はザクザクと赤い血のしぶきをあげながら殺した。
生き物を殺すのは大抵夜。普段勉強して部屋にこもっている時間帯に出かけているため家族には得に怪しまれることもなかった。
だが、未來の知らないところで集落の人々は異変を感じ取っていた。大量の虫の死骸と魚の死体を完全に処理することはできず、その異常な事態に重く感じる人もいたが子供のいたずらだろうと大事にはならなかった。
そんなある日未來の家、鬼島家には代々受け継がれている宝刀があることを祖父から聞かされて弟と共に蔵の中に厳重に保管してあった小太刀を見に行った。黒塗りされた鞘に収まっていた銀色の刃は日の明かりに反射すると反射して淡く美しく輝いた。年代物とは思えない美しさに弟はそれを見て興奮した。未來もそれは同じだった。でも、方向性が違った。
―――これで人を刺せたら気持ちいんだろうなっと―――。
その思いをその日の夜すぐに行動に移した。躊躇をすることもなく蔵にしまってある小太刀を手に取った。ずっしりとした重みは今までの使ってきた刃物たちと比べ物にならないくらいの殺傷能力を感じた。これで何か生き物を殺すことを考えるだけで全身の毛が逆立つくらいに興奮していた。
「早く殺したい」と言うつもりもない言葉をつぶやいてしまう。
小太刀を持って家の裏手にある山に入る。月明かりが灯る森は遠くまで見渡せるくらい明るく見渡せる夜だった。その木の間から未來が見つけたのは自分と同じくらいに大きさをした鹿だった。森の闇に潜むようにこちらをジッと見つめている鹿を見つけた未來はその瞬間、記憶が飛んだ。
気付いたころにはすでに鹿は頭と胴体が切り離されていて、腹の中の内臓は原形をとどめることなくぐちゃぐちゃに斬り潰されていた。あたり一帯だけ世界が違いように真っ赤な血に染まっていた。
その光景をただいつものことだと思い鹿の頭を捨て淡く輝いていた刃は血で赤黒く汚れてしまった。今度、洗って元の場所に戻そうと来ていた服の血のついていない部分で血をある程度ふき取って小太刀を鞘に戻した。
足音を殺して家に帰って来た未来は自室の窓から自分の部屋に入る。部屋を明るくして自室にあった姿鏡に映った自分の姿を見て青ざめる。真っ赤に染まったシャツに顔に、なぜそうなってしまったのかを証明する決定的証拠を手に握る姿はもう自分だと信じたくなかった。
すぐに真っ赤な血に染まった衣服を脱ぎ袋の中に入れて小太刀と共に押し入れに押し込んだ。自分の顔もある程度タオルで拭いてから洗面台で完全に落とした。手についていた血はもうきれいになっているのに大量の石鹸を使って何度も何度も洗った。一度見た自分の姿を掻き消したいがために見た目上はきれいになっている手を洗い続けた。
その後、自分のやったことを強く後悔した。自分が殺めてしまった生き物たちは何の罪もない。食物連鎖に関係なくただ何かを刺したい殺したいというわがままな未來の欲求で無残に殺されてしまった生き物たちのことを考えると嘔吐した。震えが止まらず、荒く乱れる呼吸は息苦しかった。もう、二度としないと誓った。絶対にしないと誓った。
だが、それが大きな間違いであった。
悪の心は成長を続けていた。
嘔吐して変に呼吸が荒くなったところを家族に心配されて次の日、未來は学校を休んだ。精神を落ち着かせる分には都合よかった。
一日中、布団の中に潜っていた。
その時、未來に聞こえた幻聴。悪魔のようにかすれた声は響く心の中に強く残った。
お前はもうたくさんの生き物を殺した。何も罪のない生き物たちを。それをお前はただ殺したんだ。自分の私利私欲のために代々受け継がれていた宝刀をも殺人の道具に変え血を吸わせた。そんなお前を誰が許すんだ?
―――うるさい。
気持ちよかっただろう。肉を斬り裂くときの感触、肉を切った瞬間に飛び散る血の匂い。たまらなかったはずだ。お前はこんな気持ちいいことがこんな身近にあると知った。それは堕ちた者にしか分からない。
―――うるさい。
普段のお前は誰が見ても真面目で正義感の強い子だろう。でも、そう見られている以上そのイメージ通りに生きていくのがお前にとってはつらかったことではないのか?だから、悪いと思っていながらこの殺人の快楽の海から抜け出すことが出来ない。
―――うるさい。
良心なんて所詮飾りなんだ。そうしていれば、自然と人に認められて褒められて社会でうまく生きていける。ただ普通に自分をさらけ出して生きてくだけでは認められず、疎外されてしまう。どこかガス抜きをする必要があったんだ。そんな良心という飾りの自分をやっていく中で辛くなった自分のご褒美として、生き物を殺す。
―――うるさい。
お前だって本当は普通に生きたかったんだろ?好きなことを好きなだけやって嫌いなことは嫌いだからやりたくない。どうやって、わがままに生きていきたかったんじゃないのか?それをお前は自分のイメージを壊さないようにするために押し殺してきた。すでにお前はお前自身を殺している。
―――うるさい。
そもそも、お前のその枷をつけたのは誰だ?枷は自分でつけられない。お前自身が望んでいないそのイメージを自分自身で決めつけることはできない。誰だ?この正義感を押し付けたのは誰だ?
―――うるさい。
誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ?
―――うるさい。
一体誰だ!こんなところまで追い込んだのは誰だ!どこのどいつだ!
―――うるさい!
「未來?どうしたんだ?」
「うるさい!」
その時、未來を縛っていた枷が完全に壊れ解放された。
殻を破るようにかぶっていた布団から飛び出して机の上に置いてあったはさみを掴み刺しかかった。そして、未來の慣れ親しんだ肉を刺す感覚と生暖かい血の流れと匂いを感じた。何かを刺した。それが何か。
それは未來を心配して様子を見に来てくれた大好きだった祖父だった。困惑と自分の置かれた状況が分からない祖父はただその場に立っていた。そして、自分の腹から血が出ていることに気付くと未來に尋ねた。
「ど、どうしたんだ?未來?」
もう、ダメだった。押さえるのが無理だった。殺人衝動が完全開放された。
そのまま持っていたはさみで祖父の喉を切り刻んだ。悲鳴に似た喘ぎ声をあげて祖父は動かなくなった。はさみを捨てて押し入れに仕舞っていた小太刀を取り出す。血が固まり引き抜くのに抵抗があった。本当の自分がこれ以上は誰も傷つけたらダメだと抵抗をも振り切り鞘から赤黒く汚れた刃を拭き取る。異変に気付いた母が様子を見に来て無残な姿になった祖父の姿に悲鳴を上げた。それが目障りで小太刀で母を斬り殺した。その後、居間に行き父と弟と祖母を殺した。泣き叫び命乞いをする姿を見ながら高笑いして殺した。物足りない未來は次の家、またその次の家、通行人と殺し続けた。
そして、気付いたころには集落のはずれの小川の川岸に倒れていた。小川に浸った小太刀は洗われて元の銀色の刃に戻っていた。どこからともなく騒然とパトカーのサイレンの音が聞こえた。自分のやってしまったことに震えが止まらずこのまま川に飛び込んで死にたい気分だった。でも、穏やかな流れのこんな小川で死ぬこともできず近くを通りかかったパトカーに保護されてその後、施設に移されて長垣の町にやって来た。




