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海は呑み込んだ

作者: 秋澤 えで
掲載日:2013/11/01

夜の海に舟が一つ浮かぶ

櫂を持つ手に力をいれゆっくりと漕いだ

僅かに前へ進む

今日は風が少なく、水面を乱すのはこの小舟のまわりだけだった

ふと手を止める

今宵は満月であった

他者の事情を省みないそれは悠々と全てを見下ろす

空と海に境界はない

海はどこまでも深く暗く静かな藍だった

光など知らぬ底なしの海

鞄から免許証を取り出す

青白い顔がこちらを見返した

ぽちゃん

音を立てて海へ吸い込まれていく

これで私は誰でもなくなった


万年筆を取り出す

父から譲り受けた品だ

ぽちゃん

これで私は誰の子でもなくなった


タイピンを外す

誕生日に友人に貰ったものだ

ぽちゃん

先よりも小さな音だった

これで私は誰の友人でもなくなった


今年の手帳を出す

ぽちゃん

これで私の未来はなくなった


小さなアルバムを取り出す

ぽちゃん

これで私の過去はなくなった


最後に震える手で薬指の指輪を外す

最愛の妻との約束のものだ

ぽちゃん

思いの大きさと比例しない小さな音だった

これで私は誰の夫でもなくなった



清算し終わった誰でもない私は暗い海に白く丸い光を見つけた

再び漕ぎ出す

夜光虫のように光に向かって

ばしゃ、ばしゃ

ゆっくりと近づく

光の真上に舟を置けば、小舟は光の環の中にすっぽりと入った

最期の清算

誰でもない私は光に飛び込んだ

ぼちゃん

鈍い音

一人の男の過去、現在、未来を、全てを呑み込んだ海は尚も黒々とした藍だった


再び夜の海に静寂が戻る

何事も無かったように

見ていたのは

空に浮かぶ白く丸い光だけだった

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。聖魔光闇と申します。 詩というより、句読点のない掌編に近かりし感じがしました。 かなり悲しいお話ですね。 もし宜しければ、あなたのこの作品を私の作品として、(私なりの)詩…
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