世界で一番愛した人へ
わたしが鍵盤を叩くと、その音色はわたしの唇よりも雄弁にわたしの気持ちを語るのだという。嬉しい、楽しいという幸せな感情。そして、悲しい、寂しい、つらいというマイナスの感情や、他にも、悔しい、痛い、恥ずかしいと思うあまりにもはっきりとした気持ち。それから、恋しい、愛しいという曖昧な気持ちまで、鍵盤を叩けば、自分では想像も出来ないほどたくさんの感情がそこから生まれた。それは鍵盤を叩いたから生まれたものなのではなく、普段からそこにあるものが鍵盤を叩くことによって溢れ出ているだけなのだ、と先生は言った。先生はいつもわたしを肯定した。以前出来なかったことが練習によって出来るようになると先生はわたしを褒め、前から出来ていたことが出来なくなればわたしの顔を覗き込んでどうかしたのか、と静かにたずねる。そうして、出来ないことを否定せず、出来ることをゆっくりと確実に一つずつ増やしていくこと、それが正しく生きるために必要なことだよ。そう先生は言った。じゃあ、とわたしが口を開くと、先生は少しだけ驚いたような顔をして耳を澄ませてくれた。じゃあ、何度やっても出来なければ、先生はわたしを見捨てますか。わたしの震えた唇を、先生は見ないふりをした。それが先生のやさしさだった。先生のやさしさは、とても甘くて、それから少しだけ酸っぱいような気がした。今日も先生の瞳はわたしの鍵盤を叩く指を見つめている。その音色は、先生を思う気持ちで溢れているだろうか。
失うことが恐ろしいということを、失うまで思い出せずにいた。今まで何度も経験してきたことのはずなのに、遭遇する度にまるでそれが初めてだというような反応をしてしまう。失ったことに対して、自分は被害者でありたいと思う気持ちの表れなのだろう、とわたしは思った。失うことになった原因が自分にあるということを認めたくなくて、まるで想定外の出来事が起こったかのような対応をすることで自分はさも被害者であるかのように振る舞うのだ。でも、それはずるい、と思った。相手が自分をどれだけ好意的に捉えてくれているのかとか、相手は自分をどれだけ許容してくれるのかということを、まるで試すかのような振る舞いをすることがわたしには多々あった。それを自覚していながら、失うことを恐れ、なおかつ失ったときにはさも自分が突然被害を受けたかのような顔をしてさめざめと泣き始めるわたしの姿は、きっと目も当てられないほど醜く、愚かしいだろうと思った。そしてそれは全て周囲に露見しているに違いない。わたしはわたしのそばにいてくれる人がみんなとてもすばらしい人格者のように感じていた。でも本当はそうでもないということも、わたしは知っている。
例えばわたしが、鍵盤を叩くための指を失ったとする。そうすれば先生はわたしの指ではなくわたし自身を見てくれるだろうか、それともわたしという存在に価値を見出さなくなってわたしのそばから姿を消してしまうだろうか。恐らく後者だろう、とわたしは思う。でも本当はどうだか解からない。失ってみなければ解からない。先生の気持ちを確かめるような、そんな試すようなことをするために自分の指をわざと失うなんて愚の骨頂だ。それでもわたしは知りたかった。先生が、指を失ったわたしを見て、開口一番、なんと言うのかを。
また、例えばわたしが、先生を失ったとする。そうすれば、わたしは狂うだろうか。それとも、平凡な毎日の中から鍵盤を叩く時間だけがすっぽりと抜け落ち、まるで欠けた歯車のような生活を、死ぬまで続けるだろうか。正直に言って、わたしが今鍵盤を叩く理由は、隣にいる先生の存在、たった一つのみだった。依存、ある意味そういう言葉にも置き換えることが出来るかも知れない。わたしは生きるという行為に依存し、自分のアイデンティティーを鍵盤から得て、そしてその鍵盤を認めてくれる先生に依存している。その先生を失ってしまったら、わたしには鍵盤を叩くという行為に意味など生じなくなってしまう。先生が認めるわたしの音色にこそ意味があったのだから、先生を失えばそこには何もなくなってしまうのだ。ただ無機質な雑音が鼓膜を揺らすのみ。意味などない。そこには何もないのと同じになってしまう。音には色がない。実体がないから目に見えない。そこに影を与え、描き方を教えてくれたのが先生だった。わたしは先生に依存している。それを先生に言ったことはない。でも先生は知っている。先生がいなければわたしが生きていけないことを、わたしが人生の半分以上を傾けて鍵盤に命を注いでいること、もう後戻りなんて出来ないということも、先生は知っている。
わたしも知っている。わたしが依存している先生には、大切にしている人がいるということをわたしは知っている。それがわたしでないことも知っている。わたしが知っているということを、先生も知っている。
知っているということは、いつか壊れるということを、わたしはまだ知らない。先生は知っていたのだろうか。
自分の気持ちを正直に吐露することは何事にも代え難いほど恐ろしい。だからわたしは嘘ばかりついていた。寂しくない、つらくない、幸せ、満たされている、ありがとう、心配しなくていいよ、わたしも大好きだよ、嬉しいよ。でも口から飛び出したその言葉は全て本物になった。嬉しいよと言えば嬉しくなり、幸せだと言えば幸せになったような気がした。寂しくないと言えばそんなような気持ちになったし、つらくないよと言えば本当に自分が強くなったような気がした。だから嘘をついているという感覚を忘れていて、唇はいくらでも自分を鼓舞した。でもそれは目の前に誰かしら相手になってくれる人がいるときの話で、一人になるとどうしてもだめだった。消え去ったはずの痛みや忘れていたはずの静寂が、一人になった途端一斉に襲いかかってきた。怖かった。間違いなく自分の唇から出た嘘が、わたしを恨んで、わたしを噛み殺そうと襲ってくる。どうしようもなく恐ろしかった。しかしそれは避けることの出来ない事象だった。避けることの出来ないというよりは、避けてはいけないような気がした。なぜなら、わたしを襲う嘘の罪の元となった嘘は、悪意のある嘘じゃない。悪意でないなら何なのか。それは恐らく、虚しい親近感、あるいはがらんどうの愛情のようなもの。その罪を受け入れることは、自分にとって意味のあることだと思った。それでも、受け入れるにはわたしの脳味噌は幼すぎたようだ。だから逃げるしかなかった。罪から逃げて、目を背けて、わざとらしく見ないふりをして、ようやく目が覚めたとき、全て元通りになんてなっていない世界にひどくわたしは安堵した。
先生と再び話せるとしたら、わたしはきっと開口一番にごめんなさいと言うだろう。何度だってわたしはごめんなさいと言って、そしてそのたびに何度だって先生は聞こえないふりをした。それでもわたしはきっと、ごめんなさいと言うだろう。元はと言えばわたしが聞こえないふりをしたのが原因で、もう目は覚めたのだ。わたしは先生が聞こえないふりをしたってごめんなさいと言わなければならないし、何度だって謝らなければならない義務がある。義務化された指先で、わたしは鍵盤を叩く。荒々しく繊細な指先だ。爪の一枚一枚が、みしみしと音を立てて軋んでいる。割れても構わないと思った。先生を失った今、鍵盤を叩くことの意味を失ったわたしに、指なんて必要ないのだから。わたしが鍵盤を叩いても、その音色はもはやかつてのように、わたしの唇よりも雄弁にわたしの気持ちを語ることはない。嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい、つらい、悔しい、痛い、恥ずかしい、恋しい、愛しい。もう何も感じないということは、もうわたしには何もないということだった。
以前なら、鍵盤を叩けば自分では想像も出来ないほどたくさんの感情がそこから生まれていた。それは鍵盤を叩いたから生まれたものなのではなく、普段からそこにあるものが鍵盤を叩くことによって溢れ出ているのだ、と先生は言っていた。
先生はいつもわたしを肯定した。出来なかったことが練習によって出来るようになるとわたしを褒め、前から出来ていたことが出来なくなればわたしの顔を覗き込んでどうかしたのか、と静かにたずねる。そうして、出来ないことを否定せず、出来ることをゆっくりと確実に一つずつ増やしていくこと、それが正しく生きるために必要なことだと思う。そう先生は言った。
「じゃあ、何度やっても出来なければ、先生はわたしを見捨てますか。」
わたしはどうしてそんな質問をしてしまったのか、今となってはもう何も解からない。ただ先生を困らせてしまうだけであろう質問は、わたしの意に反してわたしたちの胸に深く深く突き刺さった。先生は少しだけ驚いたような顔をして耳を澄ませる。わたしの音色に向けられた先生の耳が、今はわたしの言葉に向けられている。その耳の形を、わたしは一生忘れないでいようと思った。
「見捨てるっていうのは、具体的にどういう意味なのかな?」
「そのままの意味です。先生は、わたしが鍵盤を叩くことが出来なくなれば、わたしのそばからいなくなりますか。」
わたしの震えた唇を、先生は見ないふりをした。それが先生のやさしさだった。先生のやさしさは、とてもとても甘ったるくて、それから、
「いなくはならないよ。君の心の中に、私はずっといるからね。」
少しだけ、酸っぱいような気がした。そしてそれは恐らく、きっと正しい。
今日も先生の瞳はわたしの鍵盤を叩く指を見つめていた。先生のやさしい瞳がそこからいなくならないのは、わたしの心の中に先生がいるからだった。先生、わたし、先生のこと、ずっとずっと、大好きですよ。その音色は、先生を思う気持ちで溢れている。