壁の花ならぬ、「壁のシミ」令息は今日も推し活が楽しい?
ヘルシ・オーブンにとって、夜会は貴重な推しの摂取場所だ。特に王城の夜会は100%推しが参加するので、遭遇率も100%のどえらいファンサ日である。
そんなわけで、今日も今日とて推しの横顔をこっそりひっそりじっとり眺めては(きゃあ〜♡)と一人盛り上がるヘルシ。今年ようやく成人したため、推し活が捗る夜会に堂々と参加が出来るようになったのは大変ありがたい。
オーブン家は、エコ=デスナ王国の中堅どころの侯爵家で、“手堅くガッポリ”が家訓の高位貴族らしからぬ商人家系である。
そのため、社交も欠かせない要素ではあるが、何せヘルシは自他共に認めるド陰キャ(従姉に教えてもらった言葉である)。誰と話すにも目を合わせられないし、口籠もるし、挙動不審だし……まあ、そんなわけで両親も長男であるヘルシには家督を継がせられないと、さっさと次男を後継者に指名した。
——は〜。今日もキャロ様が美しすぎる〜。
ヘルシは大抵、夜会では壁に同化するようにペッタリと佇んでいる。微動だにせず立っている姿はちょっとキモいと思われそうだが、壁の花ならぬ「壁のシミ」と呼ばれるくらい目立たないので問題ない。
むしろ、気がついた人が驚いて壁のシミ呼ばわりしているくらいで、ほとんどの人はその存在に気がつかない。
柔らかなブラウンの髪は緩やかに波打っていて、前髪はモサモサと鼻のあたりまで伸ばされている。色白で細身、背はヒョロリと高いがそれだけ。存在感が薄く、近くで見るとそれなりに整った容姿のはずが、それ以外の全てが残念なので壁への擬態もピカイチだ。
そのため、ヘルシは推しに認知されることもなく、大々的に推し活を楽しんでいた。
宴たけなわ、国王陛下も王妃殿下もすでに下がり、残った貴族たちは思い思いに夜を過ごしている。
ヘルシは十分に推しを眺めたので、今日はそろそろ帰って少し帳簿整理でも手伝おうかな、と足を動かしたところでそれは起こった。
「……キャロット・グリル公爵令嬢! 前へ出ろ!」
突然の大声に、ヘルシの足もピタリと止まった。
——いま、推しの名前が呼ばれてなかったか?
ギギギと音のしそうな動きで後ろを振り返ると、人垣の向こうに白銀の貴公子と呼ばれるマッスル・プロテイン侯爵令息が、ものすごく胸元の開いたドレスの美少女を抱き込んで立っていた。
——あれは確か、シェイク男爵家のミルク嬢。
最近社交界でよく名前を聞く令嬢だ。
可憐な容姿に、明るく素直な性格。身分を鼻にかけない気さくさで、若い令息たちから大層人気があるらしい。特にどことは言わないが、とある部分が巨大なのがいいらしい。ヘルシには全く響かないが。
何せヘルシの視界には基本的にキャロ様しか入っていない。
——キャロ様は……いた。
マッスルから少し離れた場所に、キャロ様は一人で立っていた。
深い緑色の髪に、橙色のドレス。全体的に細身なのに、メリハリのあるスタイルは惚れ惚れするほどだ。
今だって背筋を真っ直ぐ伸ばし、騒ぎの中心にいるとは思えないほど涼やかな顔をしているのが堪らない。
——あっ、今日のその角度も美しい。
思わずいつもの調子で見惚れかけ、ヘルシは慌てて意識を戻した。どう考えてもそんな場合ではない。
「君がミルクにしたことは、すべて聞いた! 身勝手な振る舞いで、彼女を傷つけたそうだな!」
マッスルが声を張り上げる。
——キャロ様がしたこと? キャロ様が何をしたって?
「わたくしが……?」
キャロ様がこてん、と首を傾げる。はい、可愛い。百点満点。むしろ天元突破。
「そうだ! とぼけるつもりか!」
「とぼけるも何も、何のお話なのかわかりませんもの」
——ふわぁ。キャロ様、今日も声が美しい。
落ち着いた声はキャロ様の美しさをより引き立てる。
——あー、好き。
じゃなくて!
何やら穏やかではない展開だ。こういうの従姉から聞いたぞ。市井で流行ってる物語がこんな感じらしい。
多分次は——
「先の土の曜日に、夜会でミルクのドレスを汚し、階段から突き落とそうとしたことだろう! すべて君の仕業なのだと分かっているんだぞ!」
ヘルシは、やっぱりなぁ……と感心した。市井の恋愛物語そっくりではないか。
キャロ様が瞬きをして、ものすごく不思議そうな顔をした。ヘルシも瞬きをした。
——……ん? なんか、聞き捨てならないことを聞いた気がする。
「全く身に覚えがございませんわ」
「まだ白を切るのか!」
「覚えのないことを認める趣味はございませんもの」
そうだそうだ。何が白銀の貴公子だ! キャロ様という唯一無二の素晴らしい婚約者がいるのに、変な女に引っかかりやがって!
しかし、キャロ様はさすがである。
堂々と反論するキャロ様に、ヘルシの推しポイントがまた一つ増えた。キャロ様しか勝たん!
だが同時に、妙な引っかかりも覚えた。
——……ドレスを汚した?
うーん? なんか見た気がする。というか……。
——俺、その時いたな?
キャロ様が参加した夜会には、当然のようにヘルシも参加していた。正確には参加していたというより、壁に張り付きながら彼女を眺めていた。
——キャロ様……その夜会の間中、ずっと端のソファにいたよな?
ヘルシが見ていたので間違いない。
なんなら、ソファ席近くの大窓から差し込む月明かりを浴びる横顔があまりにも美しかったため、脳内にかなり鮮明な記録が残っているし、例のブツもある。
その時あのクソみたいな婚約者は、キャロ様を放っておいてミルク嬢とベタベタしてたはずだ。興味ないからあんまり見てないけど。
あの日のキャロ様は何かに悩んでいるようで、時々ため息を吐いて憂い顔をしていた。
推しの憂いを晴らしたい反面、推しに認知されたくないオタクのヘルシにとって、直接の手出しも出来ず白いハンカチをグギギと噛み締めたものである。
ちなみにそのハンカチは噛み締めやすいガーゼ素材で出来ていて、オーブン侯爵家が持つ商会ではベビー用品として大人気の商品だ。
——それにしても……。
ヘルシは真顔になった。
マッスルの言うキャロ様がしたことが、先日の夜会ですべて起こったことなら……無罪の証明は出来る。
——え……もしかして。
——俺、証人なのでは?
そう気づいた瞬間、ヘルシはスン……と真顔になった。いや、証人って。人前に出て喋るってこと?
しかも今、白銀の(以下略)は広間のど真ん中にいる。周りに貴族がわんさかいる。
知ってる顔も知らない顔も、場合によっては一生知り合いたくない顔も山ほどいる。その全員の前に躍り出て「僕は見た! 彼女はやってない!」とか何とか言うってこと?
——無理では?
いやー、無理っすわー。ほんと無理っすわー。
ヘルシは壁のシミなのである。シミが自ら壁から剥がれて中央へ進出するなど、もはやシミとしてのアイデンティティ崩壊である。
いや待て、ワンチャン公爵夫妻が居て止めてくれるのでは? とぐるりと見回すもいない。今回はキャロ様だけが参加していたらしい。
もしかすると、それもあって白銀(略)がこんなことを言い始めた可能性は十分にある。
「キャロット。これだけ話がはっきりしているんだ。もう言い逃れは出来ないぞ」
そんなことを考えている間にも、マッスルはさも自分が正しいと言わんばかりに胸を張っている。
——あいつ、ムカつく。
大体、キャロ様という婚約者がいながら何でそんな乳……ではなくて、とある部分が肥大したミルク嬢を抱き込んでいるのか。
婚約者以外の女を夜会のど真ん中でべっちょり張り付けておいて、よくもまあ人様に身勝手だの何だのと言えたものである。自分のことを棚に上げるにもほどがあるってものだ。
「わたくしはしていないことを、したとは申せませんわ」
「まだそんなことを言うのか! 恥を知れ!」
マッスルは怒りで顔を真っ赤にして、キャロ様を睨みつける。もちろん、キャロ様は一歩も引かず白銀(略)をひた、と見つめていた。
——あー、好き。
こういうところである。
ヘルシは脳内で盛大に拍手した。強くて美しい。格好いい。しかも今日は橙色のドレスが深い緑の髪によく映えている。やっぱりキャロ様しか勝たん。
——とはいえ、このままだと普通にまずいのでは?
推しの名誉が傷つくのは許せない。しかも冤罪だと知ってるのだ。ヘルシは再び上着の襟についたエメラルドのブローチにそっと触れる。
実はこのブローチ、オーブン侯爵家お抱えの魔道具工房が開発中の新商品である。目の前の景色をそのまま紙へ焼きつけられる優れ物で、正式名称はやたら長いのでヘルシは覚えていない。
これの最大の利点は、
——キャロ様を一瞬で保存出来る。
これに尽きる。
最初に試作品を渡された時は、父から「市場調査も兼ねて自由に使ってみろ」と言われた。
なので自由に使った。ものすごく自由に。
結果、試作一号から三号まで、保存された画像の大半がキャロ様で埋まった。
工房長には何とも言えない顔をされたが、「使用頻度が高いので耐久試験になります」と押し切った。実際、ヘルシが使い倒したおかげで連続使用時の発熱問題が判明したので、推し活も立派に開発へ貢献している。
——推し活は経済を回す。
従姉も言っていた。多分こういう意味ではないと思うが、細かいことは気にしない。
「それにぃ……」
ミルク嬢が急に顔を上げた。その拍子にマッスルのお腹あたりに肥大化した部分がぽよよんと当たり、途端にマッスルはにやけ面になる。
「キャロット様はぁ、あの日わたしに酷いことを言ったんですぅ」
「……酷いこと、ですか?」
「身の程を弁えなさいって……言ったじゃないですかぁ〜」
固唾を飲んで見守っていた貴族たちが、ザワザワと話し始める。ヘルシも少しだけ目を見開いた。
——あ、あれのことか! そういえば、言ってた。
確かに言っていたし、ヘルシはその場面も見ていた。というか、その時も当然キャロ様を見ていた。
——でも……それ、意味違くね?
あの日、ミルク嬢はマッスルの腕へくっつきながら、「わたし、マッスル様ともっと仲良くなりたいですぅ」と言っていた。
その直後、キャロ様が静かに「ご自分の身分と、相手のお立場を弁えなさいませ」と返していたのである。
至極真っ当な話だった。何しろミルク嬢は男爵令嬢、マッスルは侯爵令息。しかも公爵令嬢の婚約者である。
身の程というか、身分というか、普通に一線引けという話でしかない。
——切り取り方がえぐいな、あの女。
ヘルシは真顔になった。こんな茶番に推しが巻き込まれたままでいいのか。それを許すのか! いや許さない!!
「君はそんなことまで言ったのか!」
「……申し上げましたわ」
「やはり!」
「それは……」
「ちょーーーっと待ったぁ!」
ヘルシが唐突に壁から離れて、中央の人だかりに突進すると、中心人物のみならずその場のすべての人が注目した。
その瞬間、まるで足元の床が抜けて奈落に落ちてゆくような気持ちになった。
人前に出たくない、見られたくない。それに、推しに認知されたくない。
出来ればこの先もずっと壁のシミでいたい。
でも——キャロ様が濡れ衣を着せられるくらいなら、俺が死ぬ方がマシでは?
——いや、死ぬのは嫌だけど。
そこは訂正した。死にたくはない。死んだら推し活出来なくなるので。でも、多少恥をかくくらいなら仕方ない。かなり嫌だけど、我慢我慢。己の羞恥心と推しの名誉を天秤にかけるまでもない。
「……あ、あの」
ヘルシの声はか細かった。正直、成人した令息とは思えないほど小さかった。
大勢の視線が突き刺さり、心臓が王国で最も速い競走馬のパカラン・パカランが疾走してるときの蹄の音くらいうるさく鳴っている。
だが、ここでやめたら意味がない——多分、今までの人生で一番腹を括った。
「グリル公爵令嬢は何もしていません! すべて濡れ衣です!」
思った以上に声が出た。腹から声出すの大事すぎる。
——ひ。
ヘルシの喉が詰まった。大声出したことで、さらに大勢から凝視されている。やっぱ無理かも。さっきまでの勇気、返却したい。
「……誰だ?」
マッスルが眉を顰めた。
「あ……の。オーブン侯爵家のヘルシ、です」
「オーブン侯爵家? あ、あれか。壁の……なんだったか……」
「……」
「まあ、いい。濡れ衣とはどういうことだ」
チラリとキャロ様を盗み見る。その瞬間、目が合った。
——あ。
駄目だ。キャロ様が……こっちを……見てるぅぅぅぅう!!!
——認知された。
ヘルシはその場で人生の終わり、いや、モブとしての平穏な余生の終焉を感じた。
いつも遠くからこっそりひっそりじっとり眺めている琥珀色の瞳が、今は完全にヘルシだけを見ている。普通なら推しと目が合うなど死ぬほど嬉しい出来事なのだろうが、認知されたくない系オタクのヘルシにとっては死ぬほど嬉しいどころか、物理的に消滅したいほどの異常事態である。
「ああっ、尊き女神の視界に俺のような塵芥が入り込んでしまった! キャロ様の尊い脳の記憶野を、俺なんかの情報に使わせてしまうなんて!」と、その場に土下座して五体投地で懺悔したいくらいだ。
しかも自分から飛び出してきたせいで、今さら壁に戻ることも出来ない。戻れるものなら今すぐ壁と同化したいが、キャロ様の無実を証明するために出てきたのだから、せめて目的だけは果たさなければ本当にただの『視界を汚した不審者』で終わってしまう。
「それで、オーブン侯爵令息。濡れ衣とはどういう意味だ」
「そ、そのままの意味です。グリル公爵令嬢はミルク嬢のドレスを汚していませんし、階段から突き落とそうともしていません」
「何故、君にそんなことが分かる?」
「見ていたからです」
言い切ったところで、マッスルが何とも言えない顔をした。
「……何を?」
「グリル公爵令嬢を」
「……ずっと?」
「……はい」
答えてから、ヘルシはようやく発言の絶望的なまずさに気がついた。そりゃそうだ。夜会の間ずっと一人の令嬢をガン見していたなんて、普通に考えれば事案である。
——いや、待って。俺、壁のシミどころか変態ストーカー認定されるのでは?
それは困る。何が困るって、大好きなキャロ様ご本人に「キモい」と思われるのが一番困る。いやキモいのは事実としても、ただ遠くから推しの幸せを祈る名もなき無害な壁のシミでいたかったのに!
「オーブン侯爵令息」
しかも、あろうことかキャロ様本人から、直接声までかけられてしまった。
「ひゃい!」
成人男性とは思えない、情けないカエルのような返事が出た。『せめて前髪はもう少し整えてくるべきだった』という謎のプレッシャーが今さら押し寄せる。
近くで見るキャロ様は、当然ながら遠くから見るよりさらに美しかった。睫毛長い。肌綺麗。声もいい。今なら一生分の推し成分を摂取出来そうだ。心の底で「嬉しい」という感情が一瞬芽生えかけたが、即座に「そんなおこがましい感情を抱くなんて万死に値する!」と激しい自己嫌悪で叩き潰し、ヘルシは必死に意識を現実へ引き戻した。
「先ほど、わたくしを見ていたと仰いました?」
「は、はい。その……先の土の曜日、グリル公爵令嬢は夜会の間ほとんど広間の端にあるソファにいらっしゃいました。ミルク嬢のドレスが汚れた頃も、そこから動いていません」
推しの無実についてなら、いくらでも喋れる。
あの日キャロ様が誰と話していたか、何を飲んでいたか、何度ため息を吐いたかまで覚えている。ちなみに赤ワインを一杯、ため息は六回だった。
「……ずいぶん詳しいな」
「記憶力には自信がありますので」
嘘ではない。オーブン家は商人家系なので、数字や取引内容を覚える能力は小さい頃から叩き込まれている。
ただしキャロ様に関する記憶だけは、完全に別枠——いわゆる「オタクの異常な執念」の産物である。
「だが、君の証言だけでは何の証拠にもならない」
マッスルが鼻で笑う。
「キャロットと口裏を合わせている可能性もあるだろう」
「それはありません」
「何故だ?」
「今日、初めてお話ししたので」
「……確かにそうですわ」
キャロ様が少し驚いたように目を見開いた。ヘルシの胸にグサリと何かが刺さる。
——そうなんです。初会話なんです。記念すべき初会話がこれなんです。泣きたい。帰りたい。
「では、何故そこまで彼女の行動を詳しく覚えている?」
マッスルが当然の疑問を投げてきた。
どう答えても人生終わる気しかしない。
——推しだから見てました。
それが答えなのだが、絶対に言いたくない。
どう誤魔化したものかと視線を泳がせたところで、襟元のブローチが目に入った。
——そうだ。別に俺が説明しなくても、これを見せればいいのでは?
「証拠なら、あります」
ヘルシがエメラルドのブローチを外すと、周囲の視線が一斉にそこへ集まった。
「こちらは我が家の魔道具工房で開発中の試作品です。見た景色を記録して、あとから紙に焼きつけることが出来ます」
「景色を……?」
「はい。記録した日時も残ります」
説明しながら魔力を流すと、ブローチの表面が淡く光る。本来なら専用の感光紙へ焼きつけるのだが、試作三号からは保存内容を壁面に映し出す機能も付いている。ヘルシはブローチを持って近くの出来るだけ装飾の少ない壁紙の前へ移動した。
手元のブローチに浮かび上がる小さな映像を、先の土の曜日まで遡る。
「これが、その日の——」
最初に映し出されたのは、ソファに座って赤ワインを飲むキャロ様だった。
次もキャロ様。
その次もキャロ様。
窓の外を見るキャロ様。頬杖をつくキャロ様。少し俯いているキャロ様。横顔のキャロ様。
どれも素晴らしい。
——やっぱりこの日のキャロ様、最高だな。顔が良い。
特に四枚目はお気に入りである。月明かりの入り方もいいし、憂いを帯びた横顔が大変よろしい。ここが深夜の自室なら「尊すぎて無理」と千回は呟いているところだ。
「……オーブン侯爵令息」
「はい?」
女神に呼ばれて、ヘルシは我に返った。
「これは……その……全部、わたくしですか?」
「はい!」
元気よく返事をしてから、完全にフリーズした。
——……あ。
周囲を見回す。皆、何とも言えない顔をしていた。
マッスルですら「うわぁ……」というドン引きの表情を隠せていない。
——しまった。
推しの無実を証明することばかり考えていて、己の狂気じみた「推し活の記録(隠し撮り)」を衆目に、あろうことか推し本人に晒している事実を完全に失念していた。
「いや、あの、これは……商品の試験でして」
「わたくしで?」
「……はい」
「こんなに沢山?」
「……たまたまです」
キャロ様が首を傾げた。
「わたくし以外、写っていないような?」
「…………」
——もう駄目だ。
終わった。俺の自由で気楽なオタクライフは完全に終わったのだ。ヘルシは静かに目を閉じた。
推しに認知されたどころか、「とんでもない変質者」として推しの脳内に永久保存される最悪のバッドエンドを迎えようとしていた。
「ですが」
キャロ様が、壁に映し出された自分の姿をじっと見つめる。ヘルシはビクリと肩を揺らす。
——来る。死刑宣告が。
おそらく「気持ち悪いですわ」とか「二度とわたくしを撮らないでくださる?」とか、そういう至極真っ当なお叱りが来る。いや、それで済めば御の字だ。公爵令嬢を勝手に撮りまくっていたのだから、護衛に摘まみ出されても文句は言えない。
ヘルシは心の中で正座して沙汰を待った。
「……とても綺麗に撮れておりますわね」
「…………はい?」
思っていたのと違う言葉が飛んできた。
キャロ様は映し出された画像を一枚ずつ眺めている。赤ワインを飲む自分。窓の外を見る自分。頬杖をつく自分。どれも本人が意識していない瞬間ばかりだ。
「こちらなど、窓から入る月明かりがとても綺麗ですわ」
「あっ、それは僕もそう思います!」
反射で食いついた。
「ちょうど雲が薄くかかっていたので光が柔らかくて、その、グリル公爵令嬢の髪にも少し透けるように入っていて非常に美し……」
そこまで言って、ヘルシは口を閉じた。
——何を熱弁してるんだ俺は。
墓穴を埋めるどころか、元気よく掘り進めている。
ところがキャロ様は引くでもなく、どこか感心したように画像を見比べていた。ヘルシの中では完全に「推し活の記録(隠し撮り)」なのだが、当の本人は新しい魔道具の試験として自分がたまたま被写体になったのだと思っているらしい。
「お、おい! そんなことはどうでもいい!」
すっかり蚊帳の外に追いやられていたマッスルが声を荒らげた。キャロ様と会話している衝撃ですっかり忘れていたが、元はコイツがふっかけてきた冤罪を晴らすんだったと思い出す。
「その魔道具とやらが、本当に正しい記録だという証拠はあるのか!」
「記録した時刻は書き換えられません。それに、この試作品は王立魔道研究所にも性能試験をお願いしていますので、疑うのであればそちらへ問い合わせていただければ」
ヘルシはそう言いながら、先の土の曜日の記録を改めて表示した。
ミルク嬢のドレスが汚れたという時刻の前後も、キャロ様はずっと同じソファに座っている。階段から突き落とされそうになったという時刻にも、そこから動いていない。
階段から広間端のソファまでは、どれだけ急いでも片道五分はかかる。だが記録には、事件の三分前と二分後のどちらにもソファに座るキャロ様が残っていた。だから、これで完全立証だ。
時刻を追うごとにキャロ様、キャロ様、またキャロ様と続くのは非常にアレだが、今だけはその執念深い推し活が役に立った。
「これでは……グリル公爵令嬢がやったとは考えにくいですな」
誰かが呟いた。
「考えにくいどころか、無理では?」
「階段と広間では距離がありすぎる」
「では、シェイク男爵令嬢の話は……」
周囲の空気が目に見えて変わった。
先ほどまでキャロ様へ向いていた疑いの視線が、今度はミルク嬢へ集まり始める。
「ち、違いますぅ! わたしは嘘なんて……!」
ミルク嬢が慌ててマッスルへ縋りつく。
「でも、確かにキャロット様に似た人が……!」
「似た人?」
キャロ様が静かに問い返した。
「先ほどまでは、わたくしだと断言なさっていたように思いますけれど」
「そ、それはぁ……」
「それに、わたくしが『身の程を弁えなさい』と申し上げた件についても、ずいぶん意味が違って伝わっているようですわね」
キャロ様は扇を開き、口元を隠した。目が笑っていない。鋭く刺すような視線にゾクゾクする。
——ひゃあ、格好いい〜。
ヘルシは場違いにもときめいた。
「わたくしが申し上げたのは、『ご自分の身分と、相手のお立場を弁えなさいませ』です。婚約者のいる男性へ必要以上に密着なさっていたから、ご忠告申し上げただけですわ」
「なんですって……!」
「それを『身の程を弁えろと言われた』と仰るのはご自由ですけれど、前後を省いてしまえばずいぶん印象が変わりますわね?」
ミルク嬢が青ざめる。マッスルも、今度ばかりは何も言えないらしい。
キャロ様は二人を眺め、それからふっと肩の力を抜いた。
「まあ、もう結構ですわ」
「キャロット?」
「今回の件は父にすべて報告いたします。婚約についても、改めて両家でお話をさせていただきましょう」
「なっ……!」
「むしろ助かりましたわ」
キャロ様が今日一番いい笑顔を見せた。
「わたくしという婚約者がありながら、目の前で他の女性と抱き合う殿方と、このまま結婚してよいものかずっと悩んでおりましたの。お父様には今夜のうちにお話しいたしますわ」
——めちゃくちゃ嬉しそう。
気のせいではない。絶対喜んでいる。
さっきまでの憂い顔はどこへやら、キャロ様の表情は晴れ晴れとしている。
ヘルシとしても大賛成だった。キャロ様にはもっといい男がいる。というか、マッスルよりいい男なら王都の石を投げれば十人くらいには当たるだろう。いや、百人かもしれない。
「そ、そんな勝手な!」
「勝手なのはどちら?」
ピシャリと言われて、マッスルは黙った。
——キャロ様しか勝たん。
ヘルシは脳内でスタンディングオベーションをしていた。
これで一件落着だ。推しの冤罪は晴れたし、クソ婚約者とも別れられそうだし、自分の推し活画像まで役に立った。
——よし。帰ろう。
今ならまだ間に合う。
これ以上ここにいれば、推しに認知される情報量がどんどん増えてしまう。すでに手遅れな気もするが、傷は浅いうちに塞ぐべきだ。
「あ、あの、それでは僕はこれで……」
「お待ちになって」
踵を返しかけた瞬間、キャロ様に呼び止められた。ヘルシはピタリと止まる。
背中にだらだらと冷や汗が流れた。
——何でしょう女神様。
出来ればもう俺のこと忘れてください。切実に。
「今日は、本当にありがとうございました」
「……へ?」
予想もしなかった言葉に、ヘルシは恐る恐る振り返った。
キャロ様は、先ほどまでの毅然とした表情ではなく、少し困ったような、それでいて柔らかな顔で笑っていた。
「わたくし一人では、どれだけ否定しても信じていただけなかったでしょう。あなたが出てきてくださらなければ、きっとこのまま、わたくしが悪いことにされておりましたわ」
「そ、そんな……僕は、見ていたことを言っただけで……」
「それでも、です」
キャロ様の声が優しくなる。
「皆が黙って見ている中で、あなたはわたくしのために出てきてくださったのでしょう?」
「えっ」
違う。いや、違わない……けど。
それ以前に夜会中ずっとキャロ様を凝視していた事実については絶対に深掘りしてはいけない。
「しかも、あれほど人前がお嫌いそうなのに」
「……」
——バレてる。
「ずいぶんお顔も青いですし、先ほどからずっと手が震えておりますわ」
ヘルシは慌てて両手を背中へ隠した。
「それなのに、わたくしを助けてくださったのですね」
キャロ様が、少し頬を染めた。
——は?
いやいや、何? 俺に向かってそんな顔するとか反則じゃない? 可愛いすぎるだろ!
いや……何で赤くなってるの!?
キャロ様自身も、少し戸惑っているように見える。元々気が強い反面、妙に情にもろいところがあるのをヘルシは知っていた。困っている使用人を放っておけず、迷子の子供がいれば一緒に親を探し、庭で弱った小鳥を見つければ翌日まで世話をするような人だ。
だからなのだろう。
自分が窮地に立たされた時、見ず知らずに近かった令息が、顔を真っ青にしながら人前へ飛び出して庇われたら……好意的に考えてしまうのも無理はないということかもしれない。
「オーブン侯爵令息」
「ひゃいぃ」
「また、お礼をさせてくださいませ」
「お、お礼!? いえそんな! 滅相もないです! とんでもないです! 健やかにお過ごしくださればそれで十分です!」
「いいえ。きちんとお礼をさせてください」
キャロ様は少し考えてから、ふわりと微笑んだ。
「そうですわ。後日、お手紙を差し上げていいかしら?」
「…………」
ヘルシの時間が止まった。
「わたくしがそうしたいの。……ね?」
ヘルシの意識は一瞬で王国の裏側まで飛んでいった。……が、また一瞬で戻ってくる。
「では、わたくしは父へ報告がありますので。オーブン侯爵令息、本当にありがとうございました」
「…………は、い」
「また、お話ししましょうね」
「…………はぃ」
キャロ様は優雅に一礼すると、清々しい顔で広間を後にした。
その背中を、ヘルシは呆然と見送った。やがて姿が見えなくなり……ヘルシはゆっくりと壁際へ戻った。
そしていつもの位置に張りつく。
——手紙が来るらしい。推しから。自分宛てに。
「はぁぁぁ!?」
推しに認知されたばかりか、お近づきになるなんて許せない。自分が。
ヘルシは壁のシミになりながら、どうしたらいいか分からず、静かに放心した。
一方その頃、広間を出たキャロットは、ほんのり赤い頬を扇で隠しながら考えていた。
ヘルシ・オーブン侯爵令息。
今までほとんど存在すら意識したことのなかった令息だった。少々挙動不審で、前髪も長く、何故かわたくしの写真を大量に持っていたけれど。
——きっと、魔道具の試験で偶然わたくしを撮っていただけですわよね。
それよりも、誰も助けてくれなかったあの場で、たった一人、自分のために声を上げてくれた。
それを思い出すだけで、胸の奥が少しくすぐったい。
「……お礼のお手紙だけでは、足りないかしら」
キャロットは小さく呟いた。
まずは父に婚約解消を相談する。
それが済んだら……今度は自分から、あの変わった侯爵令息のことをもう少し知ってみよう。
そんなことを考えながら歩くキャロットの足取りは、先ほどまでとは比べものにならないほど軽かった。
恋に落ちた公爵令嬢と、マイペース推し活令息。二人の認識が噛み合う日は、まだまだ遠そうである。
壁より空気になりたい勢です。




