劇薬中毒(イコラブ)
本作は、=LOVEさんの20枚目シングル「劇薬中毒」に寄せられたファンの方々のさまざまな考察をもとに、その世界観や解釈を小説として再構成した二次創作作品です。
MV・歌詞から読み取ることができた多様な解釈に強く影響を受けながら、物語として形にしました。
【白い研究所】
その研究所には、匂いがなかった。
消毒液の刺激臭も、薬品の揮発した甘さも、機械が熱を持つときの金属臭もない。白い壁、白い床、白い照明。目に入るものはすべて清潔で、整然としていて、それなのに病院よりもずっと冷たかった。
感情だけではなく、感覚そのものまで薄く削られていくような場所だった。いのりは受付脇の認証端末にIDカードをかざした。
短い電子音。画面に簡素な文字が浮かぶ。
――認証完了。研究補助員、入室を許可します。
研究補助員。その肩書は、借り物の服みたいに身体に馴染まなかった。
本当の所属は公安特務課。違法薬物と認知改変技術を扱う内偵班。柿崎いのりはその班に所属し、今回の任務で初めてLINARIAに潜ることになった。
LINARIA。正式名称は「情動障害と記憶回復に関する臨床研究機関」。失恋や喪失体験による精神的損傷を治療し、記憶障害患者の回復を支援するための民間研究施設。補助金の一部は公的機関から出ていて、かつては先進的な治療研究の拠点として名を知られていた。
少なくとも、最初は。
数年前、地下区画で無許可の深層情動抽出実験が行われていた疑いが浮上した。被験者の精神崩壊、記録の封鎖、研究ログの不一致。事故そのものより深刻だったのは、施設側が中枢データの提出を拒んだことだった。それを理由に、公安はLINARIAに対して一度目の強制制圧作戦――第一次TLVを実行している。
記録上、その作戦は「一部設備の破壊と危険研究の停止」で終わったことになっていた。だが本隊が押さえきれなかった地下中枢は残り、抽出技術も完全には途絶えなかった。以後、LINARIAは表の顔を保ったまま、地下だけをより深く閉ざして生き延びた。
そして今、その地下でLDTが作られている。
LDTは、一時的な多幸感を与える情動薬だ。だが鎮痛剤でも抗不安薬でもない。脳に「自分は誰かに愛されていた」「失ったものはまだ手の中にある」と錯覚させる、擬似的な幸福の薬だった。
幸福には、本来理由がいる。誰かの声、触れた温度、過ごした時間。そういう記憶と結びついて初めて、安心や充足は本物になる。LDTは、その過程をすべて飛ばして結果だけを与える。
だから依存する。一度でも“満たされた感覚”だけを脳に刻まれた人間は、その理由を探さずにはいられない。そして理由が見つからない時、人はもう一度薬を欲しがる。
公安がLINARIAを危険視しているのは、そこだった。ただの違法薬物なら摘発だけで済む。だがLDTは、人の判断や記憶の輪郭そのものに触れている。もし技術が外へ流れれば、尋問、洗脳、感情操作、証言誘導にまで転用できる。それは麻薬事件ではなく、国家案件だった。
いのりはエレベーターに乗り込み、地下三階を押した。扉が閉まり、鏡面仕上げの内壁に自分の顔が映る。
長い黒髪。感情を読ませない目。薄く引いた口紅。任務用に整えられた顔のはずなのに、今朝からずっと小さな違和感があった。鏡を見るたび、これは本当に自分の輪郭だっただろうかと思う。報告するほどのことではない。緊張か、睡眠不足か、その程度のものとして処理するには十分だった。
地下三階に着く。
扉が開いた瞬間、ひんやりとした空気が足首に絡みついた。そこは上階よりさらに静かだった。ガラス張りの観察室の向こうで、数人の研究員が青白い液体を扱っている。ひとりはアンプルを棚へ並べ、ひとりはフラスコの色を記録し、ひとりは椅子に座ったまま、どこでもない場所を見つめていた。
全員が若い女だった。そして全員が、同じ種類の静けさをまとっていた。
失ったものを諦めきれない人間だけが持つ目。泣ききったあとでも、立ち直ったあとでもない。ただ、何かが欠けたまま毎日をやり過ごしている人間の目だった。
「今日から配属の方ですよね」
声をかけられ、いのりは振り返った。白衣の袖をきっちり折り返した女が、端末を片手に立っていた。落ち着いた顔立ちで、必要以上に感情を見せない。
「山本です。設備管理を担当しています。案内、私で大丈夫ですか」
「お願いします」
山本は小さく頷き、先に歩き出した。いのりもその背中を追う。初めて通るはずの廊下だった。なのに角を曲がる前、いのりは無意識に少し右へ寄った。次の瞬間、壁際に置かれた消火器が視界に入る。
「どうしました?」
「……いえ」
ただの偶然だ、といのりは思った。研究施設なら消火器くらい、あって当然だ。
「ここ、思ったより静かなんですね」
何気なく言うと、山本は前を向いたまま答えた。
「音を立てる人が少ないので。みんな、余計なことを考えないようにしてます」
「余計なこと?」
「ここに来る人って、大体、何かを失くしてるんです」
山本は事務的な口調のまま続けた。
「研究員も被験者も、最初から“治したい人”ばかり集まる。LINARIAはそういう場所です。だから治療と研究の境目が、少し曖昧なんですよ」
いのりはその言葉を頭の中で反芻した。治療と研究の境目が曖昧。穏やかな言い方だが、裏返せば、人間がそのまま実験材料になりうるということだ。
「業務上の確認は必要ですけど、それ以外の質問はあまり歓迎されません」
「どうしてですか」
山本は少しだけ笑った。
「知らなくていいことまで知ると、つらいからです」
冗談めかした声音だった。だが冗談には聞こえなかった。
案内された実験区画はどこもよく似ていた。透明な器具、無機質な記録棚、温度管理された保管庫。色彩のほとんどない空間の中で、薬液の青や緑だけが異様に鮮やかに浮いている。その色だけが、この施設にまだ感情の名残があることを示しているみたいだった。
廊下の突き当たりで、山本が足を止めた。
ガラス越しに見える小部屋。中央に据えられた椅子は、医療用にも拷問用にも見える曖昧な形をしている。頭部を固定する装具、腕に接続する複数のコード、天井から垂れた透明な管。部屋そのものは白く、明るく、どこまでも清潔だった。だからこそ、その装置だけが不自然に見えた。
「ここは?」
「抽出室です。まだ立ち入り権限は出ていません」
「抽出」
「ええ。記憶や感情の反応を採る場所です」
いのりは眉をひそめた。
「感情を、採る?」
「LINARIAの中核技術です。特定の記憶に触れた時、人の脳がどう反応するかを波形化する。痛み、執着、安心感、喪失感。そういうものを、薬理処理できる形に変える」
山本は淡々と説明した。言っている内容の異様さに対して、声色があまりにも静かだった。
「その先に、LDTがあるんですか」
山本はすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、横顔が固くなる。
「ここでは、そう単純には言い切れません」
その曖昧な返事の直後だった。
ガラスの向こう、装置の前に一瞬だけ人影が見えた。椅子に座り、コードに繋がれ、うつむいている女。顔はよく見えない。けれど、その後姿を見た瞬間、いのりの心臓が妙に強く打った。
「大丈夫ですか?」
山本の声で我に返る。いのりは無意識にガラスへ伸ばしかけていた指を引っ込めた。
「……少し、空調が強いだけです」
「ここ、そう感じる人は多いですよ」
山本はそれ以上追及しなかった。私物ロッカーの場所、支給端末の使い方、夜間呼び出しの手順、許可区画の範囲。案内が終わるころには、いのりはおおよその内部動線を頭に入れていた。閉じた組織ほど、規則の輪郭に本音が滲む。立ち入り禁止区画が多いということは、それだけ隠したいものが多いということだ。
最後に山本は、壁際の端末に作業ログを送信しながら言った。
「所長に会えば、たぶんわかります」
「何がですか」
「ここが、誰のために変わってしまったのか」
いのりは眉をひそめた。
「所長?」
「ええ。坂井所長」
その名前を聞いた瞬間、世界がわずかに軋んだ。白い階段と、赤い色の残像だけが一瞬よぎる。いのりは思わず壁に手をついた。
「……どうかしました?」
「いえ」
声が少し掠れた。咳払いをして、表情を整える。
「その所長は、研究者なんですよね」
「研究者であり、設計者です」
「設計者?」
「今のLINARIAの、です」
山本は端末を閉じた。
「この施設の抽出系は、ほとんど所長ひとりの理論から始まってます。LDTも、DAPも、記憶回復プログラムも、元は全部そこから派生したものです」
「DAP?」
「Deep Affect Program。深層情動の採取と再現。簡単に言えば、“人の忘れられない感情”を扱う基盤技術です」
忘れられない感情。それは治療の言葉にも聞こえるし、依存の言葉にも聞こえる。
「会えるかどうかは別ですけど」
山本はそう言って、ほんのわずかに目を細めた。
「会わないほうが楽な人もいますから」
その言い方の意味を考える前に、彼女は一礼して去っていった。
ひとりになった廊下で、いのりはゆっくり息を吐いた。耳の奥で、小さな警報みたいなものが鳴っている。
坂井。その名前には、なぜか心臓が不自然に脈打った。理由はわからない。けれど、聞き流してはいけない名前のような気がした。
ロッカーを開け、支給端末を起動する。初期フォルダには今日の作業指示と施設マップが入っていた。その最下層に、権限外の閲覧制限がかかったファイルがいくつか並んでいる。
《DAP_Primary Memory Source》
《Reconstruction Log》
《I-Series Archive》
I-Series。アルファベット一文字と連番だけの、味気ない命名。試作品か、管理番号か、それとも被験体の一覧か。開こうとしても、すぐに権限エラーが返ってくる。
その一瞬だけ、サムネイル脇に短い文字列が見えた。
《I-07 / archived》
何の意味もわからない。それでも、その表記は妙に胸の内側に引っかかった。見覚えがあるというほどではない。ただ、見過ごしてはいけない番号のように思えた。
次の瞬間には、画面は閲覧権限エラーへ切り替わっていた。研究所のどこかで高い破砕音がした。ガラスの割れる音にも、誰かの悲鳴にも聞こえた。だが直後に静寂がそれを飲み込み、何事もなかったかのように白い廊下が戻ってくる。
いのりは端末を閉じた。任務を優先する。余計な感情は持ち込まない。責任者を特定し、製造工程を押さえ、本隊へ引き渡す。それだけだ。そう決めていたのに、喉の奥には小さな違和感が残っていた。
本当に、この施設には何の匂いもしないのだろうか。目の前でガラスが割れ、空調が回り、薬液が並んでいるのに、鼻の奥だけが妙に白い。感覚がうまく届いていないような、薄い膜が一枚挟まっているような気がした。疲れているだけだ。そう片づけるには、違和感が少しずつ増えすぎていた。
廊下の先、半開きの自動扉の向こうに、一瞬だけ人影が見えた。短い髪。細い指。袖口に、細いボルドーのリボン。こちらを見た、気がした。
次の瞬間には、もう誰もいない。けれどいのりは、その場からしばらく動けなかった。知らないはずの誰かを、ずっと探していた気がしたからだ。
【感情の波形】
夜になると、LINARIAは昼よりも明るくなった。
窓のない地下では、時刻は照明の色でしかわからない。昼間はまだ病院に見えた白い施設も、深夜帯の光に晒されると、急に無機物めいた輪郭を帯びる。廊下の角は鋭く、ガラスの反射は冷たく、人の体温だけが場違いだった。
配属されて三日。いのりはようやく、この研究所の日常が何によって保たれているのかを理解し始めていた。
研究員たちは働いている。だが、それ以上に耐えていた。
誰も大声を出さず、私語も少ない。手順は正確で、記録は緻密で、ミスもほとんどない。けれど全員がどこか上の空で、ふとした拍子に自分のいる場所を忘れたような目をする。そして必ず、そのあとで誰かが小さなアンプルを手に取るのだった。
青紫に近い、濃い液体。ラベルには簡素に、LDTとだけ記されている。
最初にそれを見たのは、標本庫の前だった。若い研究員が棚から一本を抜き取り、震える指で封を切り、ためらいもなく飲み下す。数秒後、彼女の表情がほどけた。
乾いていた目が潤み、こわばっていた肩から力が抜ける。頬に血の気が戻り、唇がかすかに笑みの形をとる。次の瞬間には、彼女は泣きながら笑っていた。
その顔は幸福そうだった。だからこそ、ひどく恐ろしかった。目の前には誰もいない。失ったものは何ひとつ戻っていない。それでも、そこに確かに大切なものがあると信じている顔だった。
「初めて見ると、驚きますよね」
背後から声がした。山本だった。白衣の袖をいつもどおりきっちり折り返し、手元の端末に何かを記録している。
「助かっているようには見えません」
いのりが言うと、山本はあっさり頷いた。
「ええ。でも、壊れずに明日まで持ちこたえられることはあります」
「それを助かっていると言うんですか」
山本は少し考えるように黙ってから、静かに言った。
「ここでは、朝を迎えられるだけで十分だと思っている人が多いので」
その言い方は、誰かの理屈を説明しているというより、自分にも言い聞かせているようだった。いのりはもう一度、LDTを飲んだ研究員を見た。彼女は涙を拭い、何事もなかったように記録台へ向かっている。回復ではない。延命だ。痛みをなくしているのではなく、痛みの輪郭だけを一時的にぼかしている。
「所長も、あれを飲むんですか」
山本の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……所長は少し違います」
「違う?」
「所長は飲む側じゃない。作る側です」
それだけ言って、山本は話を切るように視線を落とした。それ以上は聞くな、という沈黙だった。
その夜、いのりは初めて坂井愛華を間近で見た。
記録室の奥、閲覧権限の高い区画へ続く扉の前だった。自動ドアが開き、白い光の向こうからひとりの女が現れる。短い髪。黒いワンピースの上に白衣を羽織った細身の姿。歩幅は小さいのに、不思議と目を引いた。
いのりは手にしていたIDケースを、無意識に少し強く握っていた。愛華はいのりの前で立ち止まり、まっすぐに視線を向けた。
研究所の人間はみな、感情を薄く塗りつぶしたような顔をしている。けれど彼女だけは違った。何もないのではない。ありすぎるものを、見えないところへ押し込めている目だった。
「新しい人?」
思っていたより低く、柔らかな声だった。
「はい。本日から地下三階配属になりました、柿崎です」
「そう」
愛華はそれきり黙った。手元の書類に目を落とし、またいのりを見る。その視線は確認にも、ためらいにも見えた。
「……あなた、前にもここへ来たことがある?」
その問いに、いのりの背筋がひやりとした。
「ありません」
即答だった。訓練された反射でもあった。だが愛華は追及しなかった。ただ奇妙に静かな目でいのりを見つめたまま、小さく首を振る。
「そう。私の勘違いね」
すれ違う瞬間、彼女の袖口から細いボルドー色のリボンがのぞいた。その色を見たとたん、いのりの視界の端に白い階段の手すりだけが一瞬よぎる。反射的に呼吸が浅くなった。
「顔色が悪い」
「平気です」
「平気な人は、そういうふうに息を止めない」
その言葉で初めて、いのりは自分が浅い呼吸をしていたことに気づいた。
「……少し寝不足なだけです」
「そう」
愛華は少しのあいだ黙っていた。それから、ひどく不意にこんなことを言った。
「無理に思い出そうとしないほうがいいよ」
いのりの喉が小さく鳴る。
「何を、ですか」
「あなたが、忘れたくて忘れたものを」
それだけ残して、愛華は扉の向こうへ消えた。
いのりはしばらくその場から動けなかった。忘れたくて忘れたもの。そんなものが自分にあるだろうかと考えたが、答えは出なかった。
それからいのりは、昼よりも夜のほうが多く地下三階を歩くようになった。夜のLINARIAでは、人の本音が少しだけ表に滲む。研究員たちは日中より疲れていて、警戒心も鈍る。雑談は少ないままだが、沈黙の質が変わる。誰かが何かを見ないふりをし、誰かが何かを知ったまま口を閉ざしているのがわかる。
山本は相変わらず淡々としていた。機材の点検、温度管理、記録の照合。どの作業も正確で、無駄がなく、感情の入り込む余地がない。だからこそ逆に、その正確さ自体が必死さの形に見えた。
「所長、最近は抽出室に入ることが多いんですね」
夜間記録の整理を手伝いながら、いのりは何気ない口調で言った。
「ええ」
「所長自ら調整してるんですか」
「最近は、そうですね」
「重要なサンプルでもあるんですか」
山本はキーボードを打つ手を止めなかった。
「ここでは、だいたい全部が重要です」
かわされた。いのりはそれ以上踏み込まず、別の書類へ視線を移す。表向きは薬液の搬出記録。だがその端に、小さな英数字の列が見えた。
D-12、M-04、A-09。その中にひとつだけ、見覚えのある頭文字が混ざっている。
I-07。
ほんの一瞬だった。山本がファイルを閉じるほうが早かった。
「今の」
「作業番号です」
「何の」
「過去ログの整理用。気にしなくていいです」
あまりにも滑らかな答えだった。気にするなと言われて、気にしないでいられるわけがない。
「Iって、何の頭文字ですか」
「……それを知る必要はありません」
初めて、山本の声に硬さが混じった。それは怒りではなく、傷に触れられた人間の反射に近かった。いのりはそれ以上追及しなかった。だが、その番号だけは頭の中に残り続けた。
午前二時を回るころ、研究所は奇妙な静けさに包まれた。いのりは巡回を装って、権限外区画の手前まで足を伸ばしていた。目的は、起動時に一瞬だけ目に入った《DAP_Primary Memory Source》と《I-Series Archive》の手がかりを掴むことだった。監視カメラの死角、巡回ログの隙間、研究員の休憩時間。潜入に必要な条件は、ひととおり揃っていた。
端末室のロックは、思ったよりもあっさり開いた。無人の室内には壁一面のモニターが並び、中央にメインコンソールがひとつだけ置かれている。いのりは支給端末を接続し、制限ファイルへのアクセスを試みた。二重認証、職位照合、個人暗号。想定内だ。
三段階目のロックを外しかけたそのとき、モニターのひとつが自動で点灯した。映像記録だった。
白い抽出室。中央の椅子に、愛華が座っている。額からこめかみに電極が伸び、腕には細い管が何本も差し込まれていた。苦しそうな顔はしていない。ただ、ひどく遠いところを見ている。画面の端で波形が揺れている。感情変動値、記憶深度、抽出濃度。専門用語の意味は完全にはわからなくても、何かが彼女から抜き取られていることだけは理解できた。
その隣に、小さなログ欄がある。英数字の羅列の中に、いのりは短い単語を見つけた。
《Bordeaux》
意味はわからない。ただ、その色の名前だけが妙に目に残った。次の瞬間、別窓に別の映像が開く。
白い踊り場。非常灯。揺れる影。そして、結ばれる細いボルドーの線。
それだけだった。顔も、会話も、全体の輪郭も映らない。なのに、その短い映像は妙に息苦しかった。さらに画面の端で、別のファイル名が一瞬だけ明滅する。
《I-07 / archived》
見た途端、頭の奥が焼けるみたいに痛んだ。白い階段。走る足音。誰かの手首。それ以上は続かない。ただ、もう一歩踏み込めば何か決定的なものに触れてしまう、という予感だけがあった。
背後で自動ドアの開く音がした。振り返るより早く、コンソール画面が暗転する。いのりは反射的に支給端末を引き抜き、腰のホルスターへ手をかけかけて、寸前で止めた。
「そこで何をしているの」
愛華だった。怒気はない。失望もない。ただ、取り返しのつかない場面を何度も見てきた人間だけが持つ、静かな疲れが声にあった。
「……システムエラーです。巡回中に警告表示を見つけたので確認を」
「嘘」
愛華はすぐに言った。きっぱりとしているのに、責めるような響きはない。
「あなた、どうしてここまで来たの」
「それは、あなたこそ」
「私はいつでも来られる」
愛華はコンソールに触れ、消えたはずの画面を再点灯させた。だがそこにはもう、さっきの映像はない。整然と並んだ抽出ログだけが白く光っている。
「見た?」
いのりは答えなかった。否定しても無駄だとわかっていた。愛華は少し目を伏せ、ひとりごとのように言った。
「だったら、もう遅いかもしれない」
「何がです」
「何も知らないまま、あなたをここから返すのが」
いのりは一瞬、言葉を失った。
「……何の話ですか」
「自分が何をしに来たのか、本当に覚えてる?」
頭ではすぐ答えられるはずだった。任務。潜入。責任者の特定。製造工程の確保。それなのに、なぜかそのどれもが胸の奥まで落ちていかなかった。
愛華が一歩近づく。間近で見ると、彼女の顔には消耗がはっきり刻まれていた。眠っていない人の顔ではない。眠っても戻らない種類の疲れだった。
「柿崎さん」
初めて、愛華はわざと偽名を呼んだ。その呼び方が、本名で呼ばれるよりよほど距離を感じさせた。
「次にそれを見たら、あなたはきっと戻れなくなる」
「どこに」
愛華は少しだけ迷ってから、静かに答える。
「自分が、ただの潜入捜査官だと思っていられた場所に」
いのりは息を呑む。
「どういう意味ですか」
「いまはまだ、知らないままでいられる。でも次に触れたら、たぶんもう無理」
言いかけて、愛華はそこで口を閉じた。それ以上を言えば、何かが決定的に壊れるとわかっているみたいだった。そのとき、研究所のどこかで低い警報音が鳴り始めた。機械の異常か、区画封鎖の予告か、まだわからない。けれどその音を聞いた瞬間、愛華の顔からわずかに血の気が引いた。
「もう行って」
「何が起きてるんですか」
「まだ、あなたに関係ない」
「関係あります」
反射的に言い返した声は、自分でも思っていた以上に切実だった。愛華は一瞬だけ黙り、それから静かに言った。
「……ならお願い。次の命令が来ても、すぐには動かないで」
「命令?」
「いつもあなたは、そこで反射的に任務へ戻る」
いのりの眉が寄る。
「戻る?」
「……少しでいい。立ち止まって。言われた通りに動く前に、自分で考えて」
だが彼女はそれ以上説明しなかった。代わりに、いのりの手首を掴む。冷たい指だった。その温度に触れた瞬間、いのりの視界にまた白い踊り場がよぎる。今度は階段の手すりではなく、自分の手首に絡んだ赤い線だけが一瞬、見えた気がした。
警報音はさらに大きくなっていた。愛華は手を離し、扉の方へ視線を向ける。
「今夜、本隊が来る」
いのりの鼓動が一瞬止まりかける。
「作戦が、前倒しになる」
「どうしてそれを」
「知ってるから」
愛華は振り返らなかった。
「だって、毎回ここから始まるもの」
その一言だけを残して、彼女は警報の鳴る廊下へ消えた。
毎回。その意味を、いのりはまだ理解できなかった。けれど胸の奥で、何かが決定的にひび割れる音だけは、はっきり聞こえた。
【何度目かの対面】
警報は、研究所の呼吸そのものを奪うみたいに鳴り続けていた。
低く、長く、耳の奥へ沈んでいく音だった。非常灯が白い廊下を赤く染め、静まり返っていた施設の輪郭を、今度は露骨な暴力の色で塗り替えていく。どこかの区画はすでに封鎖され、どこかではもう、破壊が始まっていた。
いのりは、しばらくその場から動けなかった。
――今夜、本隊が来る。
――だって、毎回ここから始まるもの。
愛華の言葉が、理解ではなく異物として胸の内側に残っている。毎回。比喩にしては生々しすぎた。冗談にしては、あの顔があまりにも疲れすぎていた。
通信端末が震えた。
『柿崎、応答しろ』
上官の声だった。短く、硬い、聞き慣れた任務用の声。それを聞いた瞬間、いのりの身体は反射的に命令を受ける形へ戻ろうとした。背筋を伸ばし、迷いを切り離し、感情の揺れを後回しにする。けれど今日は、そこへ至るまでにわずかな遅れがある。
「……応答します」
『作戦は前倒しだ。TLVを即時実行する。繰り返す、即時実行だ』
TLV。その略称を聞いた瞬間、頭の奥で白い痛みが弾けた。輪郭のないノイズ。焼けるような熱。思い出しかけて、すぐ消える何か。
『対象はDAP関連設備の完全破壊、および開発責任者の確保。状況次第で排除も許可する。地下三階のロックを解除しろ。制圧班が三分後に入る』
確保。排除。その二つの言葉のあいだにある温度差が、ひどく気持ち悪かった。
「責任者の氏名は」
数秒の沈黙があった。迷ったというより、いま初めて開示することを決めたような間だった。
『坂井愛華。お前なら、もう接触しているはずだ』
端末を握る指先から、血の気が引いた。想定していた答えだった。それでも、その名前が「任務対象」として与えられた瞬間、身体のどこかがはっきり拒絶した。理屈ではなく、もっと原始的な場所が。
『聞こえているか、柿崎』
「……なぜ私なんですか」
『何がだ』
「なぜ私が、この任務に選ばれたんです」
問いながら、自分でも愚かだと思った。捜査官に理由などいらない。そういう仕事だ。だが上官は苛立ちもせず、攻撃もせず、妙に静かな声で答えた。
『お前が最適だからだ』
「何に対して」
『その施設に入ることに対して』
そこで通信は切れた。
いのりは端末を下ろしたまま、しばらく動かなかった。最適。施設に入ることに対して。その言い方は、任務遂行能力の話には聞こえなかった。もっと別の、最初から組み込まれていた条件みたいに響いた。次の瞬間、廊下の奥で銃声が響いた。
制圧は、あまりにも早かった。
白い研究所は、戦うための場所ではない。視界は開け、逃げ道は少なく、扉は中央制御で封鎖される。攻める側にとっては理想的な構造だった。曲がり角の先で、研究員のひとりが床へ崩れ落ちる。別の誰かが悲鳴を上げる。さらに別の誰かは逃げる代わりに保管庫へ駆け込み、LDTのケースを抱えて離さなかった。
いのりは反射的に銃を構え、それから止まった。研究員たちは武装していない。抵抗はしている。だがそれは戦闘ではなく、執着ではなく、もっと切羽詰まった**保持**だった。最後まで薬を守ろうとする者。機材を庇う者。あるいはアンプルを自分で飲み干し、幸福の残像の中へ落ちていく者。その姿は狂気というより、祈りに近かった。
フラスコが割れる。青紫の液体が床を濡らし、非常灯の赤を受けて黒ずんで見える。そのとき、前方の非常灯が一度だけ明滅した。直後、補助動力へ切り替わる鈍い振動が床を伝う。
「こっち」
低い声だった。振り向くと、山本が非常用資材庫の半開きの扉の内側からいのりを見ていた。
「何が――」
「早く」
その声にただならないものを感じて、いのりは滑り込むように中へ入った。扉が閉まる。薄暗い資材庫の中には、消火剤のケースと予備バッテリー、未開封の保護マスクが積まれていた。外の警報音が、分厚い扉越しにくぐもって聞こえる。
山本の白衣の袖は裂け、頬には血がついていた。それでも腕の中に抱えているのは救急箱ではなく、小さな冷却ケースだった。山本はケースを開けた。中には銀色の薄いチップがひとつだけ収められている。
「これだけは、向こうに渡しちゃだめ」
「何ですか、それ」
「所長に返して」
いのりの掌へ押し込まれたラベルには、短くこう書かれていた。
《I-07》
見た途端、頭の奥で何かが軋んだ。白い光。数字の列。途切れる呼吸。それ以上は続かない。ただ、その番号を見た時の違和感は、端末越しに見た一瞬の文字列と同じだった。
「I-07って何ですか」
山本は一瞬だけ目を閉じた。
「……番号よ」
「何の」
「失ったものを、失った順に呼ぶための」
意味はわからない。だがその声音は、説明というより懺悔に近かった。
「LINARIAの番号です。最初は、こっちだけの」
「最初は?」
「第一次TLVのあと、公安が抽出技術や再構築ログの一部を奪っていったの。そのまま、同じ番号体系まで使った。だから向こうも知ってる。I-07を」
いのりの呼吸が止まりかける。
「再構築……?」
山本は答えなかった。ただ、いのりの指を包むようにして、チップを握らせる。
「今回は、もう所長ひとりじゃ止められない」
「山本さん」
「あなたは三十秒待ってから出て。私は別の方へ行く」
「待って」
彼女は振り返らなかった。
「返して。今度こそ、ちゃんと」
次の瞬間、山本はひとりで警報の鳴る廊下へ出ていった。いのりの掌の中で、チップの角だけがやけに鋭く食い込んでいた。
抽出室へ向かう通路は、すでに火に包まれかけていた。スプリンクラーは作動しているのに、炎だけが消えない。薬品への引火だろうか。赤い非常灯と白い作業灯が交互に明滅し、廊下全体が悪夢の中みたいな色に染まっている。
その先、防火扉の前で、一人の男が待っていた。制圧班の主任、真壁。潜入前に、いのりへ直接ブリーフィングをした男だった。
「遅い」
「中は」
「対象がDAP中枢に立てこもっている。コアの削除を始めたらしい」
真壁は認証盤にコードを打ち込みながら、振り返りもせずに言う。
「お前が先に入れ」
「私が?」
「対象はお前が深部まで来ることを拒まない。入口を開ける役としては、お前が最適だ」
理屈としては正しい。けれどいのりはいま、その“正しさ”そのものを信用できなくなっていた。
「その前に、聞きたいことがあります」
「任務中だ」
「I-07って何ですか」
初めて、真壁の手が止まった。沈黙。警報音。遠くの銃声。火のはぜる音。そのどれよりも、真壁の黙り込みのほうが重かった。
「どこでそれを見た」
「山本が持っていました」
「余計なことを」
真壁は低く吐き捨て、それからゆっくり振り向いた。その目には怒りも焦りもなく、ただ計算の狂いを見た人間の冷たさだけがあった。
「……廃棄番号だ」
「何の」
「お前の」
意味はわかる。だが理解だけが、すぐには追いつかない。真壁はいのりの顔を見ながら、手順書を読むみたいな声で続けた。
「本来のお前は、第一次TLVで死んでいる」
防火扉の赤いランプが、一定の間隔で点滅していた。現実感のない光だった。その言葉も同じだった。意味は取れるのに、現実としては受け止められない。
「瀕死状態で回収した神経記録と、第一次TLV後に奪取した抽出技術、再構築ログを使って系列を維持した。I-SeriesはもともとLINARIA側の管理番号だ。こちらはそれをそのまま使っている。I-07は、その七番目の失敗個体」
いのりの喉がひりつく。
「……何を言ってる」
「今回のお前は、それより新しい」
「ふざけないで」
「ふざけていない」
「そんな話、私は――」
「知らされていないのは当然だ。自己認識に穴がある個体ほど、役に立つ」
いのりは真壁に銃を向けた。だが指が震え、引き金にうまく力が入らない。
「……私は、生きてる」
「生体反応はある。だが、それがお前の証明にはならない」
真壁の声は、残酷なほど穏やかだった。
「お前は“柿崎いのりである”と信じるよう作られている。そうでなければ意味がない。対象は、お前を見れば必ず揺らぐ」
一拍置いて、真壁は続けた。
「毎回そうだった」
そこで、世界がひっくり返った。愛華の言葉。山本の“今回は”。端末室の断片映像。初めて来たはずの研究所にあった小さな既視感。端末に一瞬だけ表示された《I-07 / archived》。全部が、一本の線になる。いのりはこの場所に潜入したのではない。何度もここへ戻されていたのだ。
「……私は、何人目なの」
その問いに、真壁は一瞬だけ黙った。それが答えだった。
「個体番号に意味はない」
「答えろ!」
「お前が知ってどうする」
真壁は初めて苛立ちを滲ませた。
「任務を遂行しろ。対象を確保しろ。そうすればこの循環は終わる」
「終わらせたいなら、どうして私を何度もここへ戻した」
「終わらせるためだ」
「嘘」
いのりは即座に言った。
「それだけなら、I-Seriesなんていらない」
真壁の目が、初めてわずかに細くなった。
「……半分は正しい」
「半分?」
「研究所を壊す。LDTの流通を止める。危険研究を終わらせる。それは本当の任務だ」
そこで真壁は言葉を切った。警報音の向こうで、どこかの隔壁が落ちる重い音がした。
「だがDAPと再構築技術は別だ。あれを民間の手に残すわけにはいかない。危険だからこそ、国家の管理下に置く必要がある」
いのりは息を呑んだ。
「管理?」
「接収だ。封鎖だ。必要なら運用だ。お前たちみたいな系列が、その実例だ」
白い廊下が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
「対象が中枢ににしてる記憶源が、お前だからだ。坂井愛華は、お前との過去を基点に研究を組んでいる。研究所も、薬も、記憶抽出も、その延長にある。お前を投入すれば、対象は中枢から離れない。深部を開かせる鍵としても、コアを露出させる囮としても使える」
さらに、真壁は冷たく言い足した。
「しかも対象は、お前が最深部まで来ること自体を切り捨てない。お前を排除した時点で、あいつの研究は二度と完成しないからだ。お前は囮であると同時に、あいつが最後まで手放さない投与先でもある」
その瞬間、何かが切れた。
研究所を壊すため。危険薬物を止めるため。それは嘘ではなかった。だが、それだけでもなかった。公安もまた、この研究所を利用していたのだ。愛華の未練を釣り針にし、死んだ人間の人格を餌にして。LINARIAを否定しながら、その核心技術だけは手放していなかった。
そして愛華もまた、少なくとも「自分が繰り返し送り込まれていること」と「公安がそれを利用していること」には気づいていた。それでも止められなかった。止めた瞬間、自分は二度と最深部まで辿り着けず、愛華自身の研究もまた未完成のまま終わるからだった。
「……最低だ」
「秩序を守るためだ」
「人を何だと思ってる」
「お前がそれを言うのか」
真壁は冷たく言った。
「お前はそもそも、人として存在していない」
その一言で、いのりの中の何かが完全に反転した。自分が偽物でもいい。複製でも、再構築でも、失敗作でもいい。それでも、いまここで怒っているこの感情だけは、誰にも借り物だとは言わせたくなかった。
防火扉のロックが解除される。重い金属音を立てて、扉がわずかに開いた。その隙間の向こう、炎と白煙の奥に抽出装置が見えた。中央に、愛華が立っている。背後では中枢機が低く唸り、ガラス管の中を青紫の液体が脈打っている。彼女は逃げない。守るように、その前に立っていた。
「最終命令だ、柿崎」
真壁が言う。
「入れ。そして終わらせろ」
いのりは前を見たまま、静かに問うた。
「……私が終わったら、次を作るの」
「必要ならな」
その返事を聞いた瞬間、もう迷いは消えた。銃口を向ける先が、はっきり決まったからだ。
真壁が何か言いかける。だが、その言葉は最後まで音にならない。銃声は一発で足りた。男の身体が後方へ倒れる。白い壁に赤が散る。警報は止まらない。炎も止まらない。なのに世界だけが、ひどく静かになった。
いのりは、防火扉の向こうへ足を踏み入れた。愛華がこちらを見る。炎越しのその顔には、驚きより先に、深い疲れと、どうしようもない悲しみが滲んでいた。
「……やっぱり」
彼女はそう呟いた。
「今回も、あなたはそっちを選ぶんだ」
いのりは数歩進み、それから立ち止まる。言いたいことは山ほどあった。問いも怒りも、返してほしい時間も。けれど最初に出てきた言葉は、そんなものではなかった。
「私は、何人目なの」
愛華は目を伏せた。
「数えるのをやめたのは、だいぶ前」
それだけで十分だった。いのりは笑いたくなり、同時に泣きたくもなった。どちらの感情も、胸の中で火傷みたいに混ざり合う。
「じゃあ、ひとつだけ教えて」
炎が天井を舐める音がする。ガラスが割れる。愛華は黙って、次の言葉を待った。
「最初の私は、あなたを選んだ?」
愛華はしばらく答えなかった。やがて、ひどく静かな声で言う。
「選んだよ」
その返事は、救いより呪いに近かった。
「だから、こんなことになったの」
中枢機の脈動が一段と強くなる。パネルには臨界警告が表示されていた。このままでは、研究所全体が数分で吹き飛ぶ。
いのりは装置を見た。愛華を見た。自分の手に残る銃の重みを確かめる。これで全部終わる。いや、終わらせるしかない。研究所も、公安も、反復も、複製も、何度目かの初対面も。
愛華がポケットから、小さなアンプルを取り出した。他のLDTよりも透明に近い、淡い青の液体だった。
「それは何」
「あなたのための最後の薬」
彼女はそう言った。
「今までの全部を、返すための」
いのりが息を呑んだ、その瞬間。中枢機の奥で、最後のロックが外れる音がした。
【最後の薬】
中枢機の奥で、最後のロックが外れる音がした。
それは金属音というより、長いあいだ堪えていたものが、とうとう限界を越えたときの音に近かった。低く鈍い振動が床を這い、足元から脛へ、脊椎へ、じわじわと這い上がってくる。天井の照明が一瞬だけ明滅し、青紫の液体で満たされたガラス管が、脈打つみたいに明るさを増した。
愛華は手の中のアンプルを見下ろした。淡い青。LDTにしてはあまりにも透明で、毒というより、冷たく固められた光みたいだった。
「今までの全部を、返すための」
さっきの言葉が、遅れていのりの中へ沈んでいく。返す。奪うでも、与えるでもなく、返す。
「……何を返すの」
訊いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。愛華はすぐには答えなかった。警報の赤が頬に差し、消え、また差す。そのたびに彼女の表情は別のものに見えた。疲れ切った研究者にも、逃げ場をなくした罪人にも、ようやく終わりに触れた人にも見える。
「あなたが失くしたもの」
「記憶?」
「記憶そのものじゃない」
愛華は小さく首を振る。
「そんな都合よく、過去をそのまま戻せるなら、こんなことにはならなかった」
その言い方には、諦めがあった。何度も試して、何度も失敗して、それでも捨てきれなかった人間だけが持つ諦めだった。
「DAPで採れるのは、最初から“その時の私”そのものじゃない。触れた時の反応、揺れ方、残り方……忘れられなかった感情の波形だけ。LDTにすると、みんなが飲んでるみたいな、理由のない幸福になる。誰にでも効く代わりに、誰のものでもない」
中枢機の警告音が一段高くなる。パネルに走る赤字を、いのりは読もうとしなかった。読み取ってしまえば、残り時間まで現実になる気がしたからだ。
「でもこれは違う」
愛華はアンプルを少し持ち上げた。
「最後まで変換しなかった。薄めなかったし、誰にでも効く形にもしてない。あなたのところへ返すためだけに残してた」
いのりはその小さなガラス容器を見つめた。淡い青の奥で、わずかな光が揺れている。そこに本当に何かが入っているのか、それともただの願いだけが詰まっているのか、見ただけではわからなかった。
「……どうして」
問いは、自分でも曖昧だった。どうして最後にこれを差し出すのか。どうして何度も自分を通したのか。どうして中枢から離れなかったのか。どうして、まだそんな顔で立っていられるのか。愛華はその全部を聞き取ったみたいに、静かに目を細めた。
「止めたら、二度と届かなくなるから」
いのりは息を止めた。炎が遠くで爆ぜる。どこかの配管がはじけ、蒸気が白く噴き上がる。けれど二人のあいだだけは、不自然なくらい静かだった。
「公安があなたを使ってること、気づいてた」
愛華は言った。
「何度も同じように来るから。同じところで迷って、同じものに引っかかって、最後は必ずここまで辿り着く。偶然じゃないって、嫌でもわかった」
「じゃあ、どうして」
今度こそ、いのりははっきり言った。
「どうして通したの。スパイだって知ってたんでしょう。囮だって知ってたんでしょう。それでも、なんで何度も」
愛華は少しだけ笑った。笑った、というより、泣く代わりに口元が動いた。
「許してたわけじゃないよ」
その声はひどく静かだった。
「毎回、やめたかった。終わらせたかったし、来ないでほしかった。あなたがここへ来るたびに、また壊れるってわかってたから」
一歩、愛華が近づく。いのりは動けなかった。
「でも止めたら、そこで終わりだった。あなたはもう最深部まで来られない。私はもう、あなたに返せなくなる」
「何を」
「最初のあなたが、ここに残したもの」
いのりの指先がわずかに震える。最初の自分。死んだはずの、原型。I-07より前にいて、愛華を選んで、だからこんなことになったと彼女が言った、その誰か。
「あなたが最初にここで死んだ時、何も残らなかったわけじゃない」
愛華の視線が、中枢機の青紫へ向いた。
「あなたの記録。私の反応。消えなかった感情。うまく再現できないくせに、消しきれもしない断片だけが、ずっとここに残った」
いのりの胸の奥で、I-07のチップが熱を持つ錯覚がした。実際には服の内側で冷たいままのはずなのに、その存在だけが妙に重い。
「それを追いかけて、私はDAPを作った。治療のためなんて、途中までは本気で思ってた。失った人の痛みを薄くできるなら、意味があるって。でも本当は違った」
愛華は自分を告発するみたいに言う。
「私は、あなたに届く形を探してただけ」
その一言で、いのりはようやく理解した。LINARIAの地下に積み上がっていたものの正体を。薬液も、記録も、抽出も、再構築も、その全部が、最初から誰かひとりへ向けられていたことを。
「研究所は、そのためだったの」
「最初は違った」
愛華は否定した。
「でも途中から、そうなった。みんなを救うための研究所だったはずなのに、私だけが一番そこから出られなくなった」
苦く笑って、それから目を伏せる。
「だから、あなたが来るたびに終わりにしようと思った。今度こそ切り捨てようって。でも、できなかった」
「……情で?」
「違う」
愛華ははっきり言った。
「情だけじゃない。甘さでもない。ここまで来たあなたにしか、完成させられなかったから」
いのりは言葉を失った。
「完成って、何」
「あなたが、自分で選ぶこと」
その答えは、思っていたよりずっと重かった。
「命令で動くあなたじゃなくて。再構築されたままのあなたでもなくて。ここまで来て、見て、知って、それでも何を選ぶのか。そこだけは誰にも作れない。そこまで来たあなたに、私はこれを返したかった」
愛華はアンプルを握る指に、わずかに力を込めた。
「もしそれができたら、次が来ても、もう同じ反復にはならないと思った。公安がどれだけ同じ手を使っても、あなたの中に“選んだ跡”が残るなら、完全には同じになれない」
それは研究者の仮説だった。同時に、恋人になり損ねた人間の祈りでもあった。
いのりは笑いそうになった。怒りと悲しみと、呆れと救いのなさが一度にこみ上げて、喉の奥で変な音になる。
「勝手だ」
「うん」
「私の知らないところで、何度も決めて」
「うん」
「何度も通して、何度も待って、最後に返すって何」
「勝手だよ」
愛華は否定しなかった。
「だから、最後だけは選ばせる」
そのとき、中枢機が大きく唸った。警告表示が全面赤へ切り替わる。ガラス管の一本にひびが入り、青紫の液体が細く漏れた。時間がない。それはもう、誰の目にも明らかだった。
いのりは胸元へ手を入れ、山本から渡されたチップを取り出した。銀色の薄い板。角だけがやけに鋭い。
「これ」
掌を開く。
「山本さんに、返せって言われた」
愛華の目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。感情を押し込め続けてきた彼女の顔に、初めてはっきりしたひびが入る。
「まだ、残ってたんだ」
「何なの、これ」
愛華はチップを受け取ろうとはしなかった。代わりに、そのラベルを遠くから見るみたいに目を細める。
「I-07は、あなたじゃない」
いのりの眉が寄る。
「……は?」
「少なくとも、今ここに立ってるあなたそのものじゃない。でも、無関係でもない」
愛華はゆっくりと言葉を選んだ。
「最初のあなたが死んだあと、公安が持っていったものと、こっちに残ったものがあった。I-Seriesは、その“残ったもの”をこちら側で整理するための番号だった。I-07は、七番目に失敗した“返却手順”」
「返却手順」
「あなたへ戻すための試行」
いのりは、息を吸うことさえ忘れた。
「人格の複製とか、そういう意味だけじゃない。感情の返し方。記憶との接続。どの波形なら、どこまで届くか。失敗するたびに、番号だけが増えた」
愛華は少しだけ目を伏せる。
「だから、私は途中から数えなくなった。数え続けたら、まともでいられなかったから」
I-07。失敗個体という言葉の冷たさと、返却手順という言葉の狂気が、いのりの中でうまく重ならない。だがどちらにしても、その番号の先にいたのは人間だった。自分であり、自分でないものたちだった。
「じゃあ、これは」
いのりはチップを見た。
「失敗の記録?」
「失敗の残りかす」
愛華はそう言って、ようやく手を伸ばした。チップに触れた指が、ほんの少し震える。
「でも、無駄じゃなかった。失敗したから、ここまで来た」
そのまま彼女はチップを装置脇のスロットへ差し込んだ。小さな認証音。モニターに一瞬だけ古い波形ログが走り、すぐにひとつのラインへ重なる。中枢機の唸り方が変わった。暴走の音ではなく、どこかで止められずに回り続けていたものが、ようやく終点を見つけたみたいな音だった。
「何をしたの」
「これで、本当に最後」
愛華はそう言って、もう一度アンプルを見た。
「中枢に残ってた未完のログを閉じた。これを渡したら、もう次の手順は組めない」
いのりの胸の奥に、奇妙な静けさが落ちる。救いではない。けれど、少なくとも終わりは終わりとしてやってくるのだと、初めて思えた。
「研究所は」
「もう助からない」
「あなたは」
愛華は、その問いにだけ少し困った顔をした。
「私も、たぶん」
あまりにも平坦な答えだった。その平坦さが、かえっていのりを傷つけた。
「そんな言い方、するなよ」
気づけばそう言っていた。自分でも驚くほど、子どもみたいな言い方だった。愛華は目を瞬いた。それから、ほんの少しだけ、昔を思い出した人みたいに笑う。
「……いまの言い方、少しだけ知ってる気がする」
その瞬間、いのりの喉が熱くなった。完全な記憶ではない。でも確かに何かが触れた。消えたはずの過去の向こう側から、ほんのわずかに手が伸びてきたみたいに。
「最初の私は、あなたを選んだ」
いのりは静かに言った。
「なら、今の私は」
言葉が止まる。何を言うべきなのか、正しい形はわからない。ただ、ひとつだけははっきりしていた。ここで命令でも反射でもなく、自分で選ばなければ、この話は本当に終わらないということだけが。
愛華はその先を急かさなかった。ただ、アンプルを持ったまま待っていた。
「……飲めば、どうなる」
「全部は戻らない」
「正直だな」
「最後だから」
愛華は淡く笑う。
「でも、何も残らないわけでもない。私の中に最後まで残ってたあなたとの幸福だけは、届くと思う」
「記憶じゃなくて?」
「記憶を支えてた温度のほう」
その表現が、ひどく愛華らしいと思った。正確で、回りくどくなくて、それでいて残酷だった。
「だからこれは薬っていうより、たぶん……」
「遺書みたいなもの?」
いのりが言うと、愛華は少しだけ目を見開いて、それから困ったように笑った。
「そうかもしれない」
天井の一部が崩れ、白い破片が炎の中へ落ちる。吹き上がる熱風に、愛華の短い髪が揺れた。いのりは目を閉じた。自分が何人目なのか、もうどうでもよかった。原型が誰で、どの系列がどこで失敗したのか、全部は知らなくていい。いまここに立って、怒って、迷って、それでも目の前の人を見ている自分だけは本物だと思えた。
目を開ける。
「……飲ませて」
愛華の指が、ぴくりと震えた。無理やりではなく、自分から口を開く。その小さな動作が、ふたりのあいだの何かをようやく対等にした。
愛華は一歩近づいた。アンプルの先が唇に触れる。冷たいガラスの感触。次いで流れ込んできた液体は、思っていたよりもずっと少量で、そして、ひどく苦くて、ひどく甘かった。
喉を落ちた瞬間、視界が白く染まる。
白い踊り場。非常灯。細いボルドーのリボン。振り返る横顔。名前を呼ぶ直前の息。掴んだ手首の温度。離したくなかったという感情だけが、ひどく鮮明に残る。
場面は断片のままだった。会話も、前後も、理由もわからない。けれど、その時そこに確かに幸福があったことだけは、疑いようもなくわかった。
幸福には理由がいる。その理由の輪郭までは戻らなくても、理由が「存在していた」と身体が知っている。それだけで、今まで自分の中に空いていた空洞が、ほんの少しだけ形を持った。
涙が出た。どうして泣いているのか、自分でもわからない。ただ、これまでの自分たちの全部が、遅れて痛みとして届いた。視界の向こうで、愛華が泣いていた。初めて見る顔だった。それなのに、ずっと昔から知っていた気がした。
いのりは震える指を伸ばし、その頬に触れた。熱いのか冷たいのかもよくわからない。けれど、たしかに生きている皮膚の感触だけがあった。
「……やっと、会えた」
愛華は何も言わなかった。ただ目を閉じて、その手に自分の手を重ねる。中枢機が最後の警告を吐き出す。空気が震える。崩壊はもう止められない。
「ねえ」
愛華が、目を閉じたまま言った。
「もし次があっても」
いのりは首を振った。
「ないよ」
その言い方に、愛華がわずかに笑う。
「そうだといい」
「そうする」
命令ではない。誓いというには遅すぎる。それでも、その言葉はたしかに自分で選んだものだった。
いのりは愛華の手を握り直した。ぎこちないくらい強く。離れないようにではなく、ここにいたと証明するみたいに。
白い研究所は、もう研究所ではなかった。治療施設でも、薬物工場でも、再構築の実験場でもない。ただ、幸福の残り火に囚われた人間たちが、最後に自分の選択だけを抱えて立っている場所だった。
崩壊の光が、すべてを白く塗りつぶしていく。警報はまだ鳴っている。炎も止まらない。ガラスも、記録も、装置も、やがて全部消える。
それでも、いのりはもう前みたいには思わなかった。自分が空っぽの容器で、誰かの記録の続きにすぎないとは。最初の自分が何を選んだとしても、今の自分もまた、ここで選んだ。それだけは奪われない。
愛華の肩が、かすかに触れる。その重みを感じながら、いのりは最後に一度だけ目を閉じた。
苦くて、甘い。その味だけが、最後まで消えなかった。




