紫陽花の残像
僕の世界は、いつも一枚の、息で曇ったガラスを隔てていた。現実の輪郭は常に甘く、色彩は滲み、遠い場所で鳴るサイレンの音は、水底から聞くようにくぐもって鼓膜に届く。そのガラスの正体が、父の早すぎる死という名の、拭うことのできない記憶の残滓であることに気づいたのは、随分と後のことだ。父が書斎に残した、黒く重い鉄の塊。その古びたフィルムカメラのファインダーを覗いている時だけ、僕は世界にピントを合わせる方法を、辛うじて思い出せる気がした。シャッターを切るという行為は、この曖昧な世界に対する僕の、唯一可能な抵抗だった。
月白沙那という名の光が、その曇りガラスの向こう側から僕の網膜に像を結んだのは、世界が涙に濡れていた梅雨のさなかの放課後だった。旧校舎の裏手、生命を持て余したように咲き乱れる紫陽花は、雨という名の悲しみを飽和するまで吸い上げて、自らの青を毒々しいほどに深化させていた。僕はその、あまりに饒舌な色彩の奔流を、沈黙した機械の箱に閉じ込めようと試みていた。
ファインダーの中、幾重にも重なる花弁の青紫のグラデーションに、ふと、異物が混入した。傘もささず、まるで世界のすべてを拒絶するかのように佇む、少女の影。僕と同じクラスの月白沙那。濡れた黒髪は、夜の川の水面のように光を鈍く反射し、白いブラウスは雨という第二の皮膚を得て、彼女の華奢な骨格を淡く透かしていた。彼女は、この世の湿度を一身に集めて咲いた、人間のかたちをした紫陽花のようだった。僕の指は、ほとんど意思とは無関係にシャッターを切った。カシャン、と。世界から削り取られた一瞬の光が、フィルムという名の記憶の海に沈んでいく。その微かな断末魔を、降りしきる雨音だけが聞いていた。
それが、僕たちの間に生まれた、最初のそして唯一の共犯関係だったのかもしれない。
以来、僕の視線は磁力に引かれた砂鉄のように、無意識下で常に彼女を追いかけるようになった。彼女は、教室という名の閉じた水槽の中を、他の魚たちとは決して交わらない軌道で泳ぐ、一匹の孤高の熱帯魚だった。窓の外を眺めるその横顔は、ここではないどこか遠い場所の光を映しているようで、図書室で分厚いページをめくる指先は、物語という名の深海に潜っていくための、しなやかな水かきに見えた。
ある雨の日、僕は図書室の書架という名の森に身を隠し、彼女という名の静かな湖を眺めていた。彼女が読んでいたのは、ページの縁が時間の経過で琥珀色に染まった海外文学の全集。その静謐な空気に耐えきれず、僕はわざとらしく写真集を床に落とした。鈍い音が、澱んだ空気を叩く。彼女の視線が、物語の深海からゆっくりと浮上してくる。目が合った。僕の心臓が、鳥籠の中で激しく暴れる鳥のように、肋骨を内側から何度も打った。
「何を、撮っているの」
静かだが、ガラスの縁のように鋭利な響きを持つ声だった。いつの間にか、彼女は僕の横に立っていた。古い紙とインクが混じり合った、知性の匂いがふわりと香る。
「……決まってない。ピントが合うものを、探してる」
「ふうん。世界は、そんなにぼやけて見えるの」
核心を突く言葉だった。まるで、僕が隔てている曇りガラスの存在を、彼女は初めから知っていたかのようだった。僕の手元にある黒い鉄の塊に、彼女の視線が落ちる。沈黙が、現像液のように僕たちの間に満ちていく。このままでは、僕という存在の輪郭まで溶かされてしまいそうだった。
「この街の外れに、古い灯台があるんだ。打ち捨てられた、白い巨人の骸みたいなやつ。知ってる?」
「知らない」
「今度、行ってみないか。そこから見る海は、世界の果てみたいに見える。曇りの日の方が、もっと」
自分でも驚くほど、その言葉は滑らかに紡がれた。僕の誘いを、彼女はただ、長い睫毛を一度だけ伏せることで肯定した。それはまるで、僕の曇りガラスに、小さな亀裂が入った瞬間だった。
週末、僕たちは約束通り、海風に白く錆びた灯台を目指した。雲は低く垂れ込め、海と空は溶け合い、世界は巨大な灰色の繭の中にあった。軋む螺旋階段を上ると、遮るもののない風が、僕たちの思考まで吹き飛ばしていくようだ。彼女は手すりに寄りかかり、色彩を失った海をじっと見つめていた。その横顔を、僕はまた、無意識にファインダーで切り取っていた。風に舞う髪は、彼女の思考がほどけていく軌跡のようだった。遠くを見つめる瞳は、世界の果ての、さらにその先を探しているようだった。そこに写るのは、僕の知らない彼女の物語であり、僕が決して読むことのできない、閉ざされた書物だった。
「どうして、フィルムカメラなの。今どき、流行らないでしょう」
「撮った写真が、すぐに見えないから」
「どうして、見えない方がいいの」
「……撮った瞬間と、見る瞬間の間に、時間という川が流れている方がいい。撮った光景は、その川を渡って、僕の元にたどり着く。その過程で、ただの風景は、意味のある記憶に変わるんだ。光が、ただの物理現象じゃなくて、物語になる。……多分」
彼女は何も言わず、ただ僕の持つカメラを、まるで壊れ物をいたわるような優しい目で見つめていた。その日、僕は夢中でシャッターを切り続けた。彼女という存在の、その揺らぎやすい輪郭を、光の粒子という名の楔で、フィルムに永遠に打ち付けたかった。この曖昧な世界の中で、彼女だけは、確かに存在しているのだと、自分に信じ込ませたかった。
夏休みが近づき、太陽が空の支配権を取り戻し始めた頃、僕は写真部の暗室にこもっていた。酢酸の、記憶を呼び覚ますようなツンとした匂いが鼻をつく。赤いセーフライトの光だけが灯る、世界の始まりのような静寂の中、僕はピンセットで印画紙を現像液の海に沈めた。
じわり、と。何もなかった純白の紙の上に、世界が再び生まれようとしていた。
そこに浮かび上がってきたのは、僕がレンズ越しに見ていたはずの、あの儚げで神秘的な月白沙那ではなかった。不安、焦燥、そして、何かを強く希求するような、溺れる者の眼差し。レンズは、僕の願望という名のフィルターを無慈悲に剥ぎ取り、彼女の魂の、生の断片を容赦なく写し取っていた。息を呑んだ。他人の心の聖域に、土足で踏み込んでしまったような罪悪感と、同時に、彼女のその痛みに触れたいという、矛盾した激しい衝動に、僕は暗闇の中で身動きが取れなくなった。
夏祭りの夜、僕はその罪悪感を振り払うように、彼女を誘った。人混みの熱気、綿菓子の甘ったるい匂い、ヨーヨーの色彩。世界のすべてが過剰に飽和し、僕たちの間の曇りガラスを、さらに厚くしていくようだった。はぐれないように、と。その言い訳がなければ、僕に彼女の指先に触れる勇気はなかっただろう。触れた指先は、想像よりもずっと冷たかった。
打ち上げ花火の音が、腹の底に響く。光の大輪が夜空という名の黒い画用紙に咲いては消え、その刹那の光が、彼女の横顔を劇的に照らし出した。その表情は、歓喜ではなく、むしろ何かを悼むように見えた。
「高村くんは、本当に私のこと、見てる?」
花火の轟音という名の波にさらわれそうな、小さな声だった。僕は返事ができなかった。「見てる」と、そう答えることは、あまりにも簡単な嘘だったからだ。僕が見ていたのは、月白沙那本人だったのか。それとも、僕が作り上げた「月白沙那」という名の、美しい幻影、都合のいい虚像だったのだろうか。僕のレンズは、被写体を忠実に写しながら、同時に撮影者の欲望をも映し出してしまう、残酷な鏡だった。
祭りの帰り道、夜の湿気を含んだ風が、火照った頬を冷ましていく。虫の声が、まるで世界の残り時間を告げる秒針のように、規則正しく鳴いていた。彼女は、夏休みが終わったら、この街を離れるのだと告げた。それは、まるで借りていた本を図書室に返す話でもするかのような、ひどく淡々とした口調だった。僕たちの間に横たわる時間の川が、にわかにその流れを速め、僕を置き去りにして奔流となっていく。僕はその岸辺で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
最後の日は、まるで世界が嘘をついているような、完璧な快晴だった。梅雨の置き土産だった湿度は完全に乾き、空の青は目に痛いほどの暴力性をもって、僕たちを見下ろしていた。僕たちは、あの灯台にいた。僕はカメラを持っていかなかった。レンズという言い訳を捨て、この曇りガラス越しの世界を、裸の眼で見ておきたかった。
「今日は、撮らないの?」
「うん。ちゃんと、目に焼き付けておきたいから」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ寂しそうに、でも、どこか安堵したように微笑んだ。
僕たちは言葉もなく、ただ、太陽の光を乱反射させてきらめく、巨大な生き物のような海を眺めていた。風が、潮の香りを運んでくる。永遠に続くかのような、満たされた沈黙。その沈黙の画布に、最初に筆を入れたのは、彼女だった。
「あの紫陽花の写真、好きだったな」
僕は驚いて彼女の顔を見た。僕が最初に彼女を撮った、あの雨の日の写真。僕の心の中の暗室で、まだ誰にも見せずに、大切に温めていたはずの一枚。
なぜ、と問いかける言葉は、唇の先で気化して消えた。問うてはいけない。それは、僕と彼女の間にだけ存在する、言葉を超えた光の共鳴のようなものだ。僕のファインダーが彼女を捉えたあの瞬間、彼女の瞳もまた、レンズの奥にある僕の心を、確かに捉えていたのだ。僕たちは、互いを被写体とし、互いを撮影者とする、一瞬の共犯者だったのだ。
彼女を見送りには行かなかった。駅のプラットホームで演じられる別れは、僕たちの物語には似合わない。僕たちの関係は、始まりも終わりも曖昧で、現像液の中に滲んだ像のように、明確な輪郭を持たなかったのだから。
蝉時雨が、まるで世界の終焉を告げるかのように降り注ぐ午後、僕は一人、暗室にいた。
赤いセーフライトの光が、子宮の中のように僕を包む。ここでなら、僕は僕でいられる気がした。
最後の一枚となった印画紙を、祈るように現像液に浸す。
じわり、じわり。
白と黒の狭間から、あの雨の日が、ゆっくりと蘇ってくる。
それは単なる画像の再生ではなかった。失われた時間が、もう一度、僕のためだけに、その息を吹き返す神聖な儀式だった。
雨に打たれ、自らの重みに耐えかねるように頭を垂れる紫陽花。
その傍らに、世界のすべての湿度を吸い込んで佇む、少女の姿。
ピントは、意図した通り紫陽花に合っている。彼女の姿は、まるで幽霊のように、輪郭が淡くぼやけている。
それでも、分かった。
写真の中の彼女は、僕を見ていた。
ファインダーという僕の曇りガラスを隔てて、世界を覗き込む僕を、その奥にある臆病な魂ごと、見つめていた。その瞳は、僕を責めてもいなければ、憐れんでもいない。ただ、そこにいる僕を、そのまま認めているように見えた。
恋が始まったのか、それとも終わったのか、僕には分からない。そんな言葉で定義できるほど、僕たちの間に流れた時間は、単純ではなかった。ただ、この一枚の写真は、僕の心の壁に焼き付いて、決して色褪せることはないだろう。彼女が僕の曇りガラスに残していった、小さな、しかし決定的な亀裂。そこから差し込む一筋の光が、ひどく、ひどく眩しい。
僕は、現像の終わった写真を、水洗いのバットにそっと移した。流れ続ける水の中で、写真はゆっくりと像を定着させていく。まるで、僕の心も一緒に洗い清められていくようだった。
もう、ファインダー越しでなければ世界が見えない、ということはないだろう。彼女のいなくなった世界は、以前よりも少しだけ解像度を増して、その悲しいほどの美しさで、僕の目に映っていた。
僕はきっとこれからも、この滲んだ世界の中で、ピントを合わせるべきものを探し続けていく。
僕の、長く、そして切実な夏が、静かに始まろうとしていた。