保育所帰りの親子
「ママ。あした、ひっこしだね。」
男の子は母親と手を繋いで、夕暮れ時の中を帰っていく。
辺りが暗くなりはじめ、街灯が次々と点灯する。
「そうね。お友達のみんなや先生にお別れを言えた?」
「うん。ちゃんとバイバイってしたよ。」
男の子は少し寂しそうに俯いた。
「ねえ。なんで、ひっこすの?」
そこには小さな抗議の意思があった。母親は諭すように説明する。
「昨日怖い人が来たのは知ってるよね。」
「うん、しってる。」
「一昨日は、お友達のお父さんと、アパートの上に住んでいる人を刺したんだよ。」
「ころされるかもしれないって、おともだちがゆってた。」
「見つかったら連れて行かれるでしょ。とても怖いわ。だから、安全な所に逃げるの。」
男の子は心配そうな顔をする。
「せんせえとか、だいじょぶかな?」
「逃げるから、大丈夫よ。」
「よかった。」
母親の答えは答えになっていない。けれど、男の子はまだ小さくて、母親の大丈夫の一言だけで安心する。
それでも、まだ小さな不安は残る。
「でも、あたらしいおウチに、こわいひとがきたら?」
母親は少し考えてから、
「そうなったら仕方ないわ。また引っ越して、怖い人から逃げるしかないわね。」
そう言って、母親はパトロール中の警官をちらりと見た。
「さ、帰ろう。」
母親は男の子の手をひき、アパートのエントランスへと入る。手慣れた手付きでオートロックの操作盤に鍵を挿し込んで、カチリと回す。
彼女は、赤いヒールをコツコツと廊下に響かせながら、今日で最後となる自分達の部屋へと帰っていった。
彼女は、何から逃げようとしているのか。