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夜をつなぐ

 日付を変えて二時間近くが経った街は、週末の夜という特別さのせいかまだまだ人影があった。

 月は遠く、星の見える夜の空は群青色で、控えめな外灯がぽつりぽつりと立っている。駅前の通りから少し外れて、わたし達は手を繋いで歩いていた。指を絡めていたのは最初だけで、あなたはわたしの指先の冷たさに驚いて笑い、体温を分けているはずなのに少しずつ冷えていくのはどうして、と穏やかにゆったりとした声で聞いた。

 女の人は末端冷え性の子が多いよね、と年上のわたしを若い女の子のように扱ってくれるあなたは背が高く、女にしては上背のあるわたしでも隣をそのまま向けばあなたの肩があるばかりだ。

 ホテルを出たばかりで、こんな夜中に放り出されるのも楽しいねえ、とあなたは言った。

「こっちに来たのは昼過ぎだったから、貴女がこちらは冷えますよ、って言っていたのをてっきり嘘だと思っていたんだ」

「昼間は暖かいんですよ、ここは日中と朝晩の寒暖差が激しくて」

「寒いね、貴女はいつもこんな寒い夜の中にいるんだね」

 十一月という、秋と冬の交わる季節。

 普段はこんな時間もう寝ていますよ、と言うと、あなたは静かに笑った。

「じゃあ今日は不良だ」

「不良ですね」

「僕は外から来た異物みたいなものだからさ、非日常を楽しんでいればいいだけだけど」

「わたしはここに住む人間だから、単なる不良です」

「僕が連れまわしている」

「自分の意志で、ここにいるんですよ」

 駅前のビジネスホテルに泊まる予定の県外からやってきていたあなたは、わたしを家まで送ろうとしていた。こんな夜中に無駄なことをしなくてもひとりで帰れるのに、何度も断ったのに、送らせてくれないなんてそんなひどいことはない、と駄々をこねてわたしを送りたがった。

「ちょっと待ってね」

 上着のポケットからスマートフォンを取り出すあなたが手を解く。離れたらまた冷えるのだろうと思う間もなく、彼は自分の腕にわたしの手をくぐらせた。だから、そっと肩に寄り添う。

 あなたの匂いがする。

 適当な香水をつけてきただけだよ、と言われたけれど、わたしはそれをあなたの匂いとして認識していた。さっき数え切れないほどくちづけた首筋はあなたの匂いばかりがしていた。

「なにか連絡でもきてました?」

「なにが?」

「スマホを見ていたから」

「明日のチェックアウトの時間の確認」

「……すみません、夜遅くまで」

 喉が鳴ったと思って、隣を見上げる。あなたが笑っていたから、絡めた腕が揺れた。

「あんなに好きだと言われたのは人生で初めてだな」

「まさか」

「本当。意外と草食……どちらかといえば、かな、特に自分に自信があるわけでもないし、淡白な方だと思うんだけど、貴女には欲情した」

 欲情、という言葉だけが原色の強さで光って耳に落ちた。恥ずかしくなって、照れ隠しであなたの腕を引く。勘違いしたらしく、腕が解かれて手が繋がれた。指先が冷たい、という自分の体質を、今日ほど嬉しく思ったことはなかった、だってあなたの体温を分けてもらえる。


 今より五時間近く前、わたし達はうっかり迷子になった末にやっとたどり着けたバーにいた。カウンターの他は二人掛けの席があり、そのひとつひとつは洞窟のような壁で半分覆われていて声が妙に反響していた。

 わたしにはスプモーニを、あなたには随分とスモーキーな香りのするまったく甘くないカクテルを。ひとくちくれて、あまりのアルコールの強さにわたしが絶句したのをあなたが笑う。

「貴女はカンパリが好きだよね」

「好きですね、でも同じ材料で同じ分量だったとしても、お店によってカクテルって味が違いますよね」

「あれ、不思議なんだよねえ」

 ナッツを注文したのにどちらも口に入れなかった。わたしは、あなたの指先ばかりを見ていた。大きな手、切り揃えられた爪、あなたの長い指はそのいい体格を裏切るようにどこか繊細で、声の反響する空間であなたのゆったりとしたいい声を聞いていた。世界に、あなたの声と手だけがあればそれで満ち足りると思いながら。

「うーん。あのね、話してしまうけれど、僕は結婚してからも妻ではない女の人を抱いたことがあるし、それは否定しません」

 ゆっくりとまばたきを三回してから、はい、と返事をした。

「子供がいなくて、夫との関係も上手くはいっていなくて、悩み事を相談されている延長のような形で」

「……はい」

「貴女はね。僕が手を出してしまうには幸せすぎる人なんです」

 子供がいて猫がいて、多少の不満はあったとしても離婚したいほど切実に夫への不信感が募っているわけでもなく。

「簡単に誘えないでしょう、そんな人を」

 あなたの目が細められて、ただでさえ目尻のやわらかく垂れ下がっている顔が笑っている表情になるのに、むしろ泣いているように見えてしまって。

 不幸ならわたしを抱いたのか。

 わたしが、不幸なのならば。

「僕は既婚者の人とそういうことになったとして、うちには子供もいないし、相手の全部の責任を取るつもりの気持ちで関係を結びますけど、」

 貴女はだって幸せじゃないですか、と言おうとするあなたの声を途中で遮って、わたしは手を伸ばした。さっきからずっと見ていた綺麗な指先を取る。自分に引き寄せて、そっと目の高さに掲げてから、ゆっくりと唇を押し当てた。心臓は緊張しすぎて飛び跳ねていたけれど、案ずるより産むが易しだ。

 わたしが不幸ならすべてを引き受けるつもりで手を出したと仮定するのなら、恋心がそこにないとも言い切れないと思った。それは勝手な思い込みでもないと、わたしが一番自分を信じたかった。

「わたしはあなたを食べてしまいたいですよ」

 戸惑った視線が揺れる。わたしが微笑む。

 女は捕食される側ではない。食ってしまう側だ、だっていつでも肉の口に取り込むのは女の方であって、飲み込まれるのは男の方なのだから。

「ものすごく、迷っているんです」

「わたしには欲情しない?」

「ものすごく、欲情しているから迷っている」

 欲情という言葉が少しも似合わない涼しい顔であなたが言う。

「今の状況に何の不満もなさそうで、どうして僕と一緒に居るのか貴女がよく分からない」

「純粋に、好き、という気持ちだけの話では駄目ですか」

「もてないんですよ」

「誰が」

「僕が。だから、好きだと言われてもぴんとこない」

「他の人なんて知らないです、わたしがあなたを好きなだけです」

「貴女は真っ直ぐすぎて、」

 あなたがそっと視線を外した。けれど口元は静かに微笑んでいた。

「あなたに迷惑をかけたいとか、そんなことは思ってないですよ」

「迷惑なんてなにもかからない。そういうことじゃなくて」

「わたしはあなたのことが好きなんです」

「既婚者の自覚を持って下さいよ」

 あなたが完全に笑う。お手洗いに、と立って戻ってくると、あなたがスマートフォンから目を上げて、近くのホテルが取れちゃいましたよ、とおどけて言った。ビジネスホテルをそういうホテルの代わりに使うのなんて初めてだなあ、とどこか困ったように。


 夜の空気の冷たさが入り込まないように、ぎゅっと手を繋ぐ。

 それなのにあなたはわたしの指先の冷たさに気付いてしまい、絡ませた指をほどいてまたわたしの指先を包み込むように握る。

 ラブホテル代わりに使ってしまった飛び込みのビジネスホテルで、わたし達は結局最後まで行きついてしまうことはなかった。ただあなたのすべらかな肌を撫でて、呆れるほど頬に何度もくちづけていた。あなたはわたしが息もできなくなるほど強く抱きしめて、なにをしているんだろう、と嬉しそうな色の声で言った。あなたの腕が力を込めるたび、わたしの唇からは幸せな笑い声がこぼれた。

 首筋に、胸に、脇の下に、あなたは鼻を押し当ててわたしの匂いを嗅ぐので逃げ回ったけれど、結局押さえつけられてしまう。なにをしているんだろう、とわたしも言ってみて、ふたりで笑った。見つめ合って唇をねだって、唇をねだられて何度か重ねた。

 好きだと、何度も言ってみてあなたがくすぐったがるのを見ていた。そんなに好きだなんて言われたことがない、なんて言うので、それなら今までの人生で誰かがあなたに告げなかった分も、と思ってたくさんの好きを口にした。名前を呼ばれて背中からとろける。あなたの名前を呼んだら大笑いされたので、むくれたら照れてるだけだと言い訳された。

 切り取られた夜の中の秘密。

 ゼリーのような冷たさの群青。

 一線を越えないようにと互いにひるんだわけでもなく、混ざり合う前の段階をただもっと延々と望んだだけにも思えた、あなたに聞いたわけではないので同じ気持ちだったかは分からないけれど。

 くちづけだけを重ねて、指を絡めて、肌のあちこちに唇を押し当てられて、抱き締められて、帰らないと、という言葉は多分あなたが先に口に出した。帰らせたいですか、と聞いたら、一番強い力で抱き締められた、そうだったら楽なのに、の声が苦しそうだった。

 服を着て、三時間もいなかったホテルをチェックアウトして、わたし達は表に出て。日付は変わってしまっていた、手を繋いでひたすら迷子になるためにぴったりの夜の中だったのに、わたしは自分の家という目的地を忘れることができなかった。

 夜の中を、あなたと歩く。

 土地勘のないあなたが迷わず最初から泊まるはずだったホテルに戻れるよう、脇道などには入らず信号機の目印をいくつも作って、手を繋いで。

 次の約束はなかった、次にいつ会えるのかは分からなかったから、だけどまた会いましょうという希望だけは手渡して、彼はそれをちゃんと受け取ってくれた。

 好きだという。

 この気持ちは恋だ。

 人はいくつになっても恋をする生き物なのだろう。たとえば、子供がもう望めない歳になっていたとしても。たとえば、別の相手と結婚していたとしても。のべつまくなしに恋ばかりしていたらとんでもないことになるのは分かっている、それでもどうしても止まらない気持ちもある。その恋を育ててしまうかなかったことにするのかは本人達次第だけれど。

「あのね、」

「なに」

「あのね、うふふ」

「なに、笑ってるし」

「あのね、ああ、あの信号を左です」

「そんなのがおかしかったの?」

「ううん、……好き」

「……また臆面もなく、」

 だけどあなたが嬉しがるのが、繋がれた手から伝わってくる。

 あなたがわたしの名前を呼ぶ。あなたの声は丁寧にほんのわずか低くて、呼ばれると肌がとろけそうになる。

「同じことを、貴女に思ってますよ」

 好きだと口にするのは恥ずかしいのか罪悪感なのか。

 こちらは星が綺麗に見える、とあなたが空を見上げた。

 同じ空で繋がっているなんて、なんて意味のないことなのだろう。手が繋げなければ、肌を重ねることができなければ、声を聞くことができなければ、同じ空の下にあなたがいたってどうしようもない。

 あたためられる形で握られていた手を解く。わたしから、指を絡め直す。

 次の信号が赤だったらキスをしましょう、と言ってみた。

 子供みたいですよ貴女、と、あなたが楽しそうに笑った。

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