0-4 友人
「それで友達って何をするの?」
あれから、クリシュラの胸の中でゆっくりさせてもらって、涙と鼻水をハンカチで拭いてもらって、すこしお茶を飲んで。
とっても落ち着いて、心に悲しさなんて無くなって。
だったら、クリシュラの望み通りになりたい、そう思うのは私にとっては必然だった。
だけど、私は友達なんていた事もなければ、遊び方なんて私をいじめることしか知らない。
「それじゃ、ゲームをしましょう」
「…ゲーム?」
「ええ。チェスって知ってるかしら?」
「知ってま…知ってるわ」
チェス、それだけは知ってる。
孤児院にはチェスがあって、それは他の子達には全く遊ばれず、隠れて一人で時間を潰すときは、それを触っていたのだ。
ルールはたまたまあったチェスの指南書を見て。
自分対自分の勝負は、最初は指南書と睨めっこしながら、次第に違う戦法を試しながら。
かなりの時間をチェスに費やしたな、って思う。
とはいえ、人と戦うのはこれが初めて。
「よろしい。じゃあ遊びましょ。大丈夫、分からない所は教えてあげるから」
そもそも、人…というか友達と遊ぶことがこれが初めてで、すごくワクワクした。
+-+-+-+
チェックメイト
声に出さず、盤面を見て確信する。
実力は僅差だと思う。
自陣側も詰みかけていて、あと1手向こうが早ければ負けていたのは私だった。
ただ、さてどうしようかと悩む。
このまま勝ってしまっていいのか、分からないのだ。
というのも、試合経過中のクリシュラの態度が、最初、初心者の私を気遣ってサポートをしながら、定石などを詳しく教えながら、それこそ和気あいあいと雑談も交えて対局していた。
ただ、中盤を通り越して、私の実力が思ったより通用することが判明してから、その雰囲気がガラリと変わった。
長考。
悩んでる姿も、まるで世を憂う女神様みたいだななんて思う。
だけど、会話はめっきり減り、真剣な彼女の態度からは、負けたくないという意思が見て取れた。
だからこそ、悩む。
自分は勝ちたい訳では無い。
いまこうして対局してるだけでも胸踊る時間なのだ。
それを彼女の気分を悪くしてまで、勝つ必要を感じなくて。
だから、負けの一手へ。
盤面は急激に進み、私のキングが丸裸に。
「チェックメイト、よ」
嬉しそうな彼女の声がする。
満面の笑みで、惜しかったわね、なんて自慢げな顔をしているのが可愛らしい。
私が勝てばどうなっていたのかは分からないけれど、この愛らしい笑みは手に入らなかったのではないかと思う。
自分の判断に間違いはなかったと、その笑顔を堪能していると。
「いえ、これはお嬢様の負けでございますね」
いつの間にやら、バトラーさんが居た。
全く気づかなかったが、どうやらお茶のお代わりとお菓子を運んできてくれていた様子。
彼が、まるで見ていたかのように盤面を再現させ、
「ここでリズベット様がこうしていれば、こうで、ほらチェックメイト。お嬢様の負けでございます」
バレた…
クリシュラの表情は、みるみる険しいものへ。
初めてみる、クリシュラの怒りに、その矛先が自分であるのがとても怖くなって。
「リズ」
「ひゃい!!」
びっくりするぐらい変な声が出た
「分かってて見逃したの?」
そう問う目は、嘘偽りをするな、と言っていて、コクコクと首を縦に振る。
嫌われただろうか、そんな不安で押しつぶされそうななか。
「私、手を抜かれるのが一番嫌いよ。もうしないでね、ってぇ…泣いてる?」
「…ぐすっ…ひぐっ…」
やっぱり、怒った彼女の声が続いて、涙が零れてしまう。
いつから自分はこんなに泣き虫になってしまったんだろう。
言いたいことがあるのに、言えないで泣いてる自分が嫌で。
なによりも、クリシュラに嫌われるのがもっと嫌だから、思いを言葉に乗せる。
醜くても、カッコ悪くても、彼女は友人と言ってくれた。受け入れてくれているんだ、そう勇気づけて。
「らって…ぐすっ…くりしゅら……ひっく…勝負の時…すん…全然…笑ってくれない……ぐずっ…やだよ……」
言葉にしてみればどれだけ幼稚なことか。
自分は、彼女に笑ってて欲しかっただけなのだ。
だけど、それは混じり気なしの真実で、故にクリシュラにも通じて。
「はぁぁ、そっか……よし!次よ」
彼女は一瞬で表情を笑顔に、私に再戦を持ちかけてくれて。
ハンカチでぐじゅぐじゅの顔を拭いてくれる。
その手つきは優しくて、心が安らいでいく。
「次は決して手を抜かないこと」
クリシュラに厳命されて、またコクコク頷く。もう絶対にしないと心の中で誓う。
しかし、自分はどうしてしまったのか、こんなに感情の浮き沈みが激しいのが初めてで自分でもよく分からなくなる。
彼女と向かい合って、もう大丈夫だよ、と微笑む。
クリシュラは笑顔を返してくれる。
幸せだ、素直にそう思う。
さて、再戦だ、とコマを並べ直していると…
「では、賭けをしてはどうでしょう。お互いにされて困ることを賭ける。これならば無条件に勝ちを目指せるでしょう?」
いい提案とばかりに喜色満面の老紳士。
クリシュラには好評の様子で。
「うん、いいわね。じゃあ私が勝ったら、明日私の朝ごはんを抜くわ…ふふっ…それがリズにとって一番効きそう」
確かに、その賭け金は困る。
ご飯が食べられないのは辛いことなのだ。
私が負けたせいでクリシュラがご飯を食べられないなんて許せない。
だから、私が勝たないと、という決心が強まり。
「あなたが勝ったら、どうしたい?」
ふぇ、と気の抜けた声が出てしまう。
私の心は、人生の中でいま一番満たされていて、だからなにか望む必要なんてなくて。
「ここまでよくしてもらって…これ以上に望むものなんてありません。ありえません…」
言葉にしてみると、恥ずかしくて、顔が熱くなってしまう。
だけど、言えて良かったと思う。
はにかむようにして答えてくれる彼女の笑顔はやっぱりとっても綺麗で。
その顔を見ているだけでドキドキして幸せな気持ちでいっぱいになって。
彼女が近づいてきて、その手が私の頬に触れる。
そのまま、なでりなでりと。
一杯で満たされている私の心にまだもっと幸せが注ぎ込まれる。
ひんやりとした手は、びっくりするぐらいすべすべで、気持ちいい。
「んー…それなら後から思いついたのでいいわ。勿論、なんでも、とは行かないけれど」
「…へっ……ひゃいっ!」
頬に当たる幸せな感触に集中しすぎた。
変な声で返事をしてしまって恥ずかしい。
だけど、と眼前のチェス盤を睨む。
勝たないと、全力で戦わないと。
だって、彼女の朝ごはんと、私のお願い権がかかっているのだ。
お願い…何をして貰えるのだろう。
ハグ
最初に浮かんだのはそれだった。
目覚めてすぐ、泣きじゃくる私にクリシュラがしてくれたこと。
さっきも、私を友達にしたいと言いながら抱きしめられた。しっかり感じた柔らかさと体温。
いま思い出しても幸せな気持ちになって。
だめだめ、と不埒な想像をやめる。
ハグだなんて、望みが大きすぎる。
もっと小さくていいのだ。
「じゃあ始めましょう。先手は譲るわ」
「はいっ!」
幸せの量は決まっているらしい。
これは、孤児院でよく聞かされた話で、不幸な人がいたら幸せな人がいる。ようは、その配分が変わっているだけなのだ。
だから、もし不幸なのだとしたら、それは他人の幸福につながっていて、少しぐらいの不幸なら他人のために受け入れなさいと。
そう教えられてきたし、今までそうしてきた。
だから、小さくていい。
だって、彼女といられるだけでこんなにも幸せなのだから。
きっと、私はたくさんの人の幸せを奪っていて。
これ以上、皆の幸福を奪っちゃいけない。
+-+-+-+
気づいた時には日が暮れていた。
盤面は私が優勢。
私の読み通りなら、次の手でチェックメイトが確定するはずであり。
クリシュラは私の読み通りに、唯一の逃げ延びる一手に気付かない。
そして、次の手番がきて。
「チェックメイト!!!……です」
思わず大きな声が出てしまった。
向かいのクリシュラは、真剣に盤面を見つめていて…その目がちょっと鋭くて……ちょっと…ほんのちょっとだけ、怖くなる。
やっぱり負けた方が、なんて思ってしまったその時に。
さわさわ、と髪に優しく触れる手に気づいて。
撫でられているた。
えへ、えへへ、と口が閉まらなくなって。
「よくやったわ。完敗よ…」
「はい!」
そのやり取りが嬉しくて仕方ない。
「明日の朝ごはん、ちゃんと食べてくだ…ね」
敬語が出そうになってつっかえる。
どうにもこの女神のような人に敬語じゃない話し方をするのが気が引ける。
でも、クリシュラと私は友達。
実感はないけど、さっき交した言葉が証拠になっていて、努力しようとおもう。
努力して敬語をやめて、もっと仲良くなりたい。
それはそうと、クリシュラの1回のお願い…なににしよう。
ハグ、してほしいな、と思う。
でも、やっぱり口にできない。
「お願いの方は、考えてみるね」
「もう1回、しましょう」
じゃあ、これからどうしよう、って声をかけようと思っていた矢先に、彼女から聞こえた言葉は少し意外だった。
なんというか、有無を言わせない感じが、まるで負けて悔しく思っている感じがして。
もしそうなら、可愛いな、なんて思った。
結局、その後、夕飯とお風呂を挟んで2試合した。
結果は私の勝ち、のみであり、日が沈んでもうしばらく経って眠くて仕方なくなる。
だと言うのに、クリシュラのもう1戦という、声に断ることが出来ず、フラフラの頭で戦いに望み…
クリシュラの長考中に意識が遠くなって…体が揺れて。
気づいたら眠りに落ちてしまっていた……
+-+-+-+
腕に抱く少女から、くぅくぅと寝息が聞こえる。
可愛らしい子だと思う。
それに純粋だとも。
だから、彼女の左手をみて痛ましい気持ちになる。
湖で見かけた時のリズベットは、筆舌し難い目をしていた。
世の中の全てを諦めて、自分の命も諦めて、どんなことをされればそんな目ができるのか、この細い少女の身体にどれだけの重荷が背負わされてきたのか、どれだけ酷い仕打ちを受けてきたのか。
イヴァンダールの黒枷、それに、アステリオの髪。
正しい知識さえあれば、アステリオの髪で黒枷の呪いは全て打ち消されることは分かることで。
彼女は呪いを撒き散らす存在ではない。差別されていい理由なんてない、
でも、人間にはそれが難しいのかもしれない。
それで、自分は?
と、問いかける。
自分は、彼女に対して胸を張れる存在だろうか?
下心なしに、ただの善意でこの子を助けたと言えるのか。
答えは否だ。
ベットに寝かせて、その寝顔を観察する。
今日、私の友達になったこの少女は、見た目よりも、想像してたよりずっと純粋だった。
純粋すぎてびっくりした。
どうか、私に幸せを教えてくれた人の傍に…
泣きながらそう話した彼女が、嘘を言ってるはずがない。
故に、怖くなる。
私の下心に気づいた彼女がどんな反応をするのか。
リズベットは壊れかけのガラス細工だ。
きっと、もう一つなにか強い衝撃があれば粉々に砕けて、もう元には戻らないだろう。
もしかしたら、最後に、リズベットを壊してしまうのは自分かもしれない。
そう思うと怖くなる。
リズベットの首筋を撫でる。
んー、と反応した彼女の、手が動いて絡まる。
ちょっとだけ手を繋ぐ形に。
安心しきって、安らかに眠る彼女はとっても無防備。
気づかないうちにコトを済ませてしまえば。
でも、自分の矜持と、彼女へ確かに芽生えた友情とある契約がそれを邪魔する。
そういえばこの気持ちは友情なのだろうか…
私も友人が出来たのは初めてで、故に分からない。
だけど、彼女はなんだか放っておけなくて、泣き顔を見てると辛くて、抱きしめると幸せな気持ちになって、笑い顔がとっても可愛らしくて。
願うならば、私がコトをしなくていい、その展開を望む。
彼女との関係を壊しかねないその、展開を避けたいと願う。
だけど、それは無理だと理解していて。
「おやすみなさい」
手を解く。
手はこちらを探すように宙をさまよい、やがて、下ろされる。
毛布をかけて、天蓋を閉じればもうその顔が見えなくなる。
1週間。
1週間はこのままでいられる。
だから、その時間を大切にしようと、心の底から誓った。