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2回目の入院

最初に兆候があったのは2度目の入院の2年前だと思う。自分のお尻の下で、文字が書くような気がした。気を紛らわそうとDELLのパソコンを買ってインターネットしていたら、それはなくなっていた。しかし、98年の11月ごろからまたお尻の下で文字が書かれているような気がして、内科医のところに行って薬をもらった。眠れないので、サイレースをもらった。この時点で精神科医に診察を受けていれば良かったのかもしれない。またこの頃は自分でホームページを作っていて、その作業に睡眠時間を割いていたのでそれも良くなかったのだろう。99年の3月ごろになると、自分の意識の中で誰かが自分の悪口を言っているようなきがした。睡眠不足になって職場にも行けなくなった。内科医に行ってヒルナミンを処方してもらったが、全く効果がなかった。近くの市民病院の精神科で診察を受けて薬を処方してもたったが、それを飲むと具合が悪くなった。妄想と会話していて、一週間ぐらい眠れなかった。職場の病院で、精神科医に診察を受けて「電波妄想がある」といった。すると、「すぐ入院したほうがいい」と言われた。私の頭の中には誰かがいた。絶えず、それをしてはいけない、などの命令をしていた。


早速近くの地方都市の精神病院に入院することにした。職場の上司が車で送って行ってくれた。病院には独自のルールがあった。お小遣いは親族が決めていて、その範囲ないでお菓子やタバコを買わなければならないのだ。僕の入院当事の精神科医は二人いて、病院の年配の先生と職場の若い先生だった。若い先生は私の面倒をよく見てくれ僕はスリッパが無いと若い精神科医にいったら、精神科医は「お小遣いをためて、スリッパを買えば」といったが、次には「なんとかしましょう」と言って。夕方にはスリッパがとどいた。入院当初は閉鎖病棟にいた。パンフレットによると、そこの病棟は症状が回復しつつある方の病棟だったらしい。僕は入院時にはワイアードの創刊号とドリームズカムトルーや東京スカパラダイスのCDを持っていった。よく貸してくれと言われた。僕の入院した病院は方言がきついところだったので、聞き取るのに苦労した。よく眠れずに深夜にデイルームで雑誌を広げた。若い先生は私の妄想を「アレ」と呼んで、「アレ」とは付き合わないようにしてくださいね、と言った。入院して強い薬を飲んだせいか、僕の妄想は無くなっていた。ただ、副作用か体の具合が悪くなるときがあった。そういうとき、看護師さんは体温をはかり、脈をはかるくらいで特に何もしてくれなかった。若い先生は「ときには具合が悪くなりますが、だんだん良くなりますからね。」と言っていた。病院生活は朝が早い。朝は眠くて仕方なかった。2度目に入院した病院は職員が掃除してくれたので、そこは良かった。でも、タバコが小遣いで決められていて、更に禁煙タイムがあったので困った。同じ病室には20歳くらいの若い子と40歳くらいのおじさんがいた。他にも躁病で入院している方とかいた。40歳くらいのおじさんはなぜかユーロビートを聞いていた。あと、宗教に凝っているみたいで、僕に本を読んでくれと言った。僕はこの本は主語と述語がきちんとしてないから読めませんといった。今だったら、別にこだわらないのだけど。病気になってから頭痛がしていた。薬をのんでも治まらなかった。40歳になるおじさんというと、僕が喫煙場でタバコを吸っていると、歌の本を持ってきた。僕が見せてくれと言ったら、嫌だと言った。なぜか腹がたって、食事をしているとき、「ばかやろー!・・・・」と叫んでしまった。後で事情を聞くと、タバコを吸っていたので、歌の本を燃やされるかと思ったらしい。それだったら最初から歌の本を持ってこなければいいじゃないか。この40のおじさんは自己顕示欲が強くて、いつも看護婦に媚を売っていた。嫌な奴だ。なまりが強くて何を喋っているかわからないし。若い子はBOOWYをよく聴いていた。お菓子とかせがんできた。この子も精神分裂病で、家で暴れるのでクリニックから紹介されてきたらしい。あとは、妄想が激しい方がいた。YMOの曲は自分が作曲したとか言っていた。実家で就職のことでもめて、病気になったと言っていた。この方は大学が東京だったらしく標準語だった。


病棟では昼間学習会やら、レクレーションが行われていた。学習会は病気になると、生活障害や思考障害が起きるので、薬をきちんと飲むようにと言っていた。精神科医ではなく看護師が行っていた。身辺整理をきちんとするように、とも言われた。爪を切ったり、整理整頓をしろとのことだった。しばらくすると、1ヵ月半すると病状が良くなったのか2階の準開放病棟に移された。


準開放病棟に移ったら、作業療法とレクレーション療法が行われた。作業療法は作業療法士んがいて指導をしてくれるのだが、人数がたくさんいて、きめ細やかな指導はしてもらえなかった。作業療法士さんは親切なのだが。僕は最初、塗り絵をしていた。最初は凝ってグラデーションを付けたりした。でも飽きてしまって、ワープロをするようになった。若い精神科医が仕事で役に立つようにワープロをしたほうがいいと言ったからだ。ワープロは変換方式が独特でパソコンのようにはいかなかったので、最初はとまどった。今はパソコンが主流なので、ワープロも電気店には売ってない。ワープロで村上春樹の小説をずっと打っていた。飽きて飽きてしかたなかったが。レクレーション療法ではソフトバレーやミニゲームをした。嫌でしかたなかったが参加しないと外泊の許可が出ないので仕方なかった。外泊するのも、実家が他県だったので、鈍行列車で、一日かけて行った。叔母が僕を迎えに来てくれたときにはうれしかった。入院中はなるべく職場と連絡しないようにと言われた。問診は週一回で、5分程度だった。準開放病棟はホテルのように立派だった。ここで、躁うつ病の女性に出会った。彼女は眠れなくて入院してきたと言っていた。彼女と話すのは楽しかった。彼女の高校時代の話はユーモアがあった。男に捨てられて病気になったと言っていた。


たいていの精神病患者は元気がなく遊ぶ気力も残っていない。タバコの貸し借りでトラブルを起こしたりする。・・・・そして僕は開放病棟に移った。


開放病棟は古い建物だった。ベッドがところ狭しとならんでいた。ここの患者は元気がなかった。SSTもずっとさせられた。毎日の挨拶をしようなどだ。こんなことをして何の役に立つのだろう。開放病棟は使うお金は金銭管理さえしていれば自由だった。僕はお菓子やタバコを自由に買うことができた。精神病院は行動が規制されるので、お菓子とかタバコに走ってしまうのだ。僕が非社交性な性格だったからかもしれないが。頭痛はずっとしていた。でも、僕はもう入院生活には飽き飽きしていた。頭痛で仕事ができますか?と、年取った精神科医に言われた。僕は大丈夫ですと言った。この選択が間違っていたのだ。やはり、頭痛が治るまで入院していたほうが良かったかもしれない。でも現在の精神病院の環境は余りにも劣悪だ。第一自由がない。僕は入院中、ずっと拘束されているという思いがしていた。精神病院に入院せず、自宅療養できればいいのだが、職場は許してくれない。


無理を言って退院した。つけは復職後きた。


僕は職場に居場所を無くした。

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