event3 11/23 勤労感謝の日・前編
「いつもありがとうございます」
楽屋で一人、そう口に出してみて小さく頷く。
……今年こそは。
何気なくカレンダーを見た時に見つけた『勤労感謝の日』という文字。土日祝日もあまり関係が無い、というか、むしろ世間一般が休みの日にイベントを組み込まれがちな仕事をしていると、その日が祝日なのだということはわかっていても、それが果たして何の日なのかがぽっかりと抜け落ちてしまう。特に新曲を出したりすると、どうしてもプロモーション活動をしなくてはならなくなるので尚更である。今日が何日で何曜日なのかは、部屋の中に置きっぱなしになりがちなスマートフォンを起動させるまでわからなかったりするのだ。そしてそのスマートフォンについても、主人と同じくらい寡黙だったりする。――というか、その『主人』の方が、ついうっかり電源を入れるのを忘れているだけなのだが。
だから、夜、ベッドに入る頃になってようやく今日が何日で何曜日だったかを知ることも多い。
それでも大した問題も起こさずに一社会人として、与えられた仕事を『遅刻もせずに』こなしてこれたのは、一重に、そんな彼女の性格を熟知してくれている優秀なマネージャーのお陰なのである。
白石麻美子。
その『優秀なマネージャー』の名である。
そういえば年齢については聞いたことがない。けれど、きっと自分とそう変わらないだろう、と晶は思った。彼女は、自分が実は女性であるという事実を知る数少ない人間の一人だ。
いつもパリッとしたスーツを着ていて、自分にはこの先も確実に縁が無いであろう細く危うげなヒールの靴を履いている。いつもせわしなく走り回っているというのに、足をくじいたとか、ヒールが折れただとか、そういう話は聞かない。自分だったら確実に足首かヒールかのどちらか、もしくは両方を折るだろう。
それが身体の一部になっている『大人の』女性というのは、そんなへまをしないものなのだ。きっと。
スマホを首と肩で挟んだ状態で、分厚い手帳に何やら書き込んで入るその小さな背中を見つめながら、晶は一人納得し、小さく頷いた。
通話を終えても彼女は振り向かなかった。まだ書き終えていないのだろう。背を丸めると、華奢な彼女の身体はもう一回りも小さく見えてしまう。身長は恐らく成人女性の平均辺りだと思うのだが、そのヒールのお陰で、彼女は何だかいつも背伸びをしているように見えるのだ。
彼女が背伸びをしても、自分にはもう少し届かない。
章灯さんはいつも「アキは言うほどでかくねぇよ」と言うけれど、それは彼自身が『長身』にカテゴライズされる人物であると同時に、職業柄、スポーツ選手やモデルなど背の高い女性と触れ合う機会が多いからだと思う。年に一度の健康診断で嫌々身長を測ってみたところ、何故か1㎝伸びていた。現在171㎝。特にスポーツ経験があるわけでもないのに、肩幅も女性にしては割と広い方だと思う。だから、男の振りをするにはまぁ好都合ではある。けれど、いざ女に戻ろうと思えば、何だか無理に女装をしているようで気持ちが悪い。
もちろん、そう思っているのは彼女だけで、それくらいの身長の女性も別に天然記念物というわけでもないし、肩幅にしたって水泳経験者には鼻で笑われるレベルだ。女物の衣服を身に付ければ360°どこから見ても女にしか見えない。
手帳をパタンと閉じ、くるりと回った麻美子は晶と視線を合わせてからにこりと笑った。「お待たせしました」
きれいというよりは可愛いに属する顔立ちだと思う。彼女は、ともすればそのやや幼すぎる顔を気にして、せめて眼鏡でもかけようかと悩んでいるらしいのだが、どうやら視力自体は良いのだという。かといって章灯のように伊達眼鏡をかけることに抵抗があるようで、せめても年相応の大人の女性に見えるようにと前髪を流して額を出してみたり、癖毛を矯正したりと、気を遣っている。
「仕事ですか?」
「はい。やりましたよ、来春のゴールデン枠! しかも、現段階で2クールが決定しているみたいです」
「2クールですか」
「とりあえずは前期のOPということでしたが、『歌う! 応援団!』の前例がありますからね、反響次第では後期のみならず、2クールめも任せていただけるかも、と」
やりきった、という表情でピースサインを出す。そうしてから、子どもっぽい仕草だと思ったのか、少し顔を赤らめ、その手を引っ込めた。「さて、行きましょうか」
今日は、どうしても章灯のスケジュールが合わなかったために単独での仕事である。とはいえ、音楽雑誌に載せる写真撮影だけだ。インタビューの方は予め章灯が受けている。それでも隣に相棒がいないというのはかなり心細い。
「あの、白石さん……」
せっかく今日は『勤労感謝の日』なのだ。先程新規で貰った――いや、彼女の営業力によって『勝ち取った』件も含めて、日頃の感謝の気持ちを伝えなければならないだろう。
そう思い、名を呼ぶ。しかし平素からヴォリュームの低い晶の声は麻美子の耳に届いていないようで、何の応答も無い。そして数歩歩いたところで、やっとその声が届いたのか、彼女はぴたりと立ち止まり、晶と視線を合わせた。
「……アキさん、いつもありがとうございます」
「――え?」
虚を衝かれた。
それはこっちの台詞だったはずだ。
自分が一体彼女に何をしたというのだろう。
「いつも言おう言おうと思って、結局言えないでいたんです。今日言えて良かった。だって、勤労感謝の日ですもんね」
照れたように笑う麻美子は何だかいつもより幼く見えた。
「いえ、その……こちらこそ、いつもありがとうございます」
流れに乗って言ってみたものの、完全に二番煎じである。
「――ぇえっ? そんな! ありがとうなんて! 私なんかに!」
それでも麻美子は照れた表情のまま、謙遜するかのように両手を振って見せる。
「『私なんか』じゃないです。自分こそ、白石さんにお礼を言われるようなこと、してません」
「違います! 違うんですよ、アキさん!」
少しだけいつもより大きな声を上げてしまってから、麻美子は、ここが関係者のみが通る廊下で良かったと思った。
「違うんです、本当に……。私は……、その……私は……」
そう言うと、麻美子はまるで尿意を我慢でもしているかのように内股になってもじもじし始めた。彼女の薄桃色の頬が赤く染まる。
麻美子は決して頬紅を差さない。
産まれ育った環境によるものか、はたまた単なる体質か、彼女はもともと頬の血色が良いのである。それは、幼少時のあだ名が『りんごちゃん』になってしまうほどの赤さであった。さすがにその赤さは成長と共に落ち着いたものの、安物の下地とファンデーションの幕を重ねてもなお、うっすらとその存在を主張してしまう。だから、これは天然の頬紅なのだと開き直るようにしているのだった。
そんなことを以前彼女から聞いていた晶は、みるみる染まっていく麻美子の頬をじっと見つめながら、次の言葉を待った。
「私……アキさんのお陰で『まともな大人』になれたんです」
「まともな……?」
ということは彼女はそれまで『まともな大人』ではなかったということになる。彼女の言う『まとも』が一体何なのかはわからないが、例え彼女が『まとも』じゃなかったとしても、少なくとも自分よりはましだろう。
「料理洗濯はからっきしでしたし」
……まぁ一応料理は得意の部類だ。後片付けは不得手だけど。
「掃除だって全然ダメで。部屋もいつも散らかってて」
……これに関してはかなり耳が痛い。
「自分のスケジュール管理なんか出来なくて、遅刻もしょっちゅうだったんです」
…………。
かつての『自分のダメさ』を吐き出す度に麻美子の顎は下がり、それに比例して声もどんどん細くなっていった。その一言一言が晶の胸に深く突き刺さる。
「けど!」
「!?」
勢いよく顔を上げると同時に発せられた声に、晶の肩はびくりと震えた。