event2 11/8 長田の誕生日
「誕生日おめでとう」
今日はとにかくこの言葉をかけられる日だ。もちろんその後に「ございます」がくっついているパターンもあるし、「おめでとう」が「おめっとう」等とくだけた表現になっていることもある。
ただ、30を過ぎた頃辺りから、自分の年齢なんてどうでもよくなって、ありがとうなんて返しているいまも「――んで、結局いま何歳だったっけ」等と考えていたりもする。
彼にとって誕生日とは、自分がこの世に生を受けた日として、ぼんやりと母親に感謝の念を送ってみたり、とりあえずいまも生きていることを有難いと思ってみたりと、掴みどころのないもやもやとした幸せを何となく撫でるような日である。結婚してからは特に、誕生日というのは妻や子どものためにあるようなイベントだと感じるようになって、わざわざ御馳走をリクエストしたりだとか、ケーキやプレゼントを要求したりするだなんてことも無い。
妻の咲が作ってくれる料理はいつだってどれも彼の好物だったし、それに、口に出さずともその日の夕餉は確実に普段のそれよりも豪華だ。
プレゼントにしてもそうだ。もちろん人並みの物欲はあるので、欲しいものが無いわけではない。だけれども、人から『贈られたい』わけでもなかった。それにここ数年は――。
「おい、咲。もしかして、これって……」
息子はとっくに寝てしまった夜10時。リビングのテーブルの上に置いてある『ブツ』を手に取り、健次郎はキッチンにいる妻に声をかける。
「んー? あ、見つけたぁ?」
見つけたも何も、これ見よがしに置いてあったのだ。御丁寧に表面を上に向けて、手に取ってください、見てくださいと、言わんばかりに。
咲はうふうふと機嫌良く笑いながら、温め直した馳走の数々をトレイに乗せて運んでくる。
「すごいよねぇ、さすが健次君の息子」
「いやいや、咲の血だろ、これは……」
健次郎は必死に背伸びをしている小柄な咲のために、手にしていた画用紙を彼女の目線にまで下げた。
「私、絵心無いもん。健次君の方が上手だよ。我ながら親馬鹿だなぁって思うけど、園で一番上手だと思った!」
「だよなぁ。……もしかして勇人って天才なんじゃねぇのか?」
「……やっぱり健次君もそう思う?」
至極真剣な表情で我が子の才能に恐れおののく2人であったが、冷静な第三者から見れば何てことはない、年相応な幼児の絵である。歪な楕円形の中に目鼻とおぼしき黒い豆粒が3つと、恐らく口であろうヒョロヒョロとした赤い直線。頭頂部から伸びた数本の髪の毛は長く、当時背中までの長髪だった長田の特徴を良く捉えていた。
その後も年を重ねる度に人間らしくなっていく『父の似顔絵』が愛息子からのプレゼントとなった。さすがに小学校に上がれば描いてくれなくなるだろうと寂しく思いながらも、それが健全な成長なのだと自分を納得させていた数年前のその夜、テーブルの上には封筒が置いてあった。どこで覚えたのかきちんと『〆』の文字まで書いて厳重に封をされている。
当然咲も中身を読むことは許されておらず、健次郎は「これは男同士の秘密だから」とにやつきを押さえながら自室でそれを読んだ。そこには日々の感謝と次の休日の遊びの誘いが綴られており、彼は溢れてくる涙を止めるのに随分苦労した。年々緩くなっていく涙腺を殊更刺激するその手紙はいまのところ毎年贈られていた。そしてそれは当然今年も――。
「健次君、大丈夫~? ティッシュ間に合ってる~?」
コンコンと控えめにノックをしながら新しいティッシュ箱を持った咲が声をかける。そのドアの向こうから返ってくるのは「おぅ」という弱々しい声だ。
今回もかなり『来る』内容の手紙を、それ専用のファイルに入れ、すっかり空になったティッシュ箱と、彼の涙やら鼻水やらをたっぷり染み込ませたティッシュがぎゅうぎゅうに詰め込まれているコンビニ袋を手に持った健次郎がドアを開けた。まだ赤みの残る鼻と、こちらはしばらく治まりそうもない真っ赤な目を見て、咲はにこりと笑う。毎年の恒例行事である。
「はい、私からも」
「ん?」
真新しいティッシュ箱と共に渡されたのは、ピンク色の可愛らしい封筒である。「おいおい、咲まで俺を泣かせにかかるのかよ」
苦笑しながらそれを受け取る。最早小さな紙くずであろうと入る余地は無いコンビニ袋を高く上げた。「もう入らねぇよ」
「うふふ。私はそんなに泣かせるやつじゃないよぅ。それにいまじゃなくていいから。さ、ご飯食べよ」
ふわりと優しい笑みをと共に差し出された手を取ってリビングへと向かう。ダイニングテーブルの上には『いかにも』ではない、さりげない御馳走がところ狭しと並べられていた。
「旨そう」
「美味しいよ、きっと。健次君の好きなものばっかり作ったんだから」
「咲が作る料理で嫌いなもんなんてねぇからな、俺は」
「それ毎年言うよね、健次君は」
「そうだったか?」
「そうだよ」
夕食というにはかなり遅い時間である。最近夜更かしを覚えた勇人もさすがに寝ている時間だ。
「それとね、今年も晶君がケーキ持ってきてくれたよ」
「まじかよ。あいつ今日仕事じゃなかったか?」
「うん、合間に届けてくれたみたい。美味しいよねぇ、晶君のケーキ。今年はねぇ、チョコレートだよ」
「勇人はもう食ったのか?」
「うん。本人はパパより先に食べるのはなぁ、なーんて言ってたけどね」
「いやいや、アキのケーキをお預けなんて可哀相過ぎるだろ。で? 咲も食ったか?」
「ううん、我慢した」
「何だ、食ってても良かったのに」
「だって健次君と食べたかったんだもん」
「そうか、悪いな」
いつの頃からか、誕生日には晶が手作りのケーキを届けてくれるようになった。――それも、健次郎が不在の時を見計らって。せっかくの誕生日なのだから、祝いの言葉なんぞと共に面と向かって渡してくれたら良いのに。そう思ったのだが、決して当日に全く顔を合わさないというわけでもなく、その言葉は当然贈られているのだ。だから、同じ言葉を二度も言うことに抵抗があるのかもしれないし、もしかしたら不器用すぎる晶なりのサプライズってやつなのかもしれない。それに便乗するかのように、ここ数年は彼女のパートナーである章灯までもがメッセージカードなんてものを中に忍ばせるようになってしまった。まさか章灯からのカードで彼の涙腺は緩んだりしないものの、それでもちょっと「良いじゃねぇか」と思ってしまったりするあたり、「俺も年を取ったなぁ」としみじみ感じてしまうのである。
「ケーキ、入る?」
御馳走を平らげた後で、咲が尋ねてくる。彼は「もちろん。だって俺の誕生日ケーキだぜ?」と余裕たっぷりに答えた。
「あぁ~、今年のも最高~」
ぎゅっと目を瞑り、咲はフォークを構えたままふるふると震えた。「もうっ、何なの? 晶君は! 恰好良くて、スタイルも良くて、ギターも上手くて、それでこのケーキは何っ?」
神様ってほんと不公平! と言いながらも零れんばかりの笑みで咲はケーキを頬張る。これもまた毎年恒例となっているその様子が何とも可愛らしいと思うのは、単に彼女が一回りも年下だからなのだろうか。
「美味しい~」
「そんなに旨いなら残りも食っていいぞ」
「また太っちゃうかなぁ……。でも……」
「食べたいんだろ?」
「うぅ……。この美味しさは最早凶器だよね」
そう言って、咲は眉間にしわを寄せつつも綻んでしまう頬を押さえた。
「本当に良いの? 健次君」
「良いって。食っちまえよ。まぁ明日にしてもいいけど」
「うーん、カロリー的には明日にした方が絶対良いんだけど……。でも、今日食べちゃう! だって誕生日だもんね!」
「そうだそうだ。食え食え。俺は咲が肥えても一向に構わんからな」
「何よそれぇ。もうちょっと私に関心持ってくれたって……」
「違う違う。そうじゃねぇって。咲がコロコロに肥えても気にしねぇってこと」
「……そうなの? そんなこと言ったらもう際限なくぶくぶくに太っちゃうかもよ?」
「良いんじゃねぇ? 抱き心地良さそうだし」
「もうっ、健次君はそればっかり!」
「良いじゃねぇか。好きな女を抱いて何が悪い」
残りのケーキに「いざ!」とフォークを構えた状態で咲の動きはぴたりと止まった。「好きな女って……」
ぽつりとそう呟いて、目を泳がせる。艶のある丸い頬が少しずつ赤く染まっていく。
「ん? 何かおかしいこと言ったか、俺?」
「だってもう結婚して随分経つし……」
「おう、そうだな」
「何ていうか、もう『勇人のお母さん』ポジションっていうか……」
「まぁ確かに勇人の母ちゃんだわな」
「だから……その……好きとかそういうのとは……違うのかなって……思ってたり……」
「何言ってんだ。咲は勇人の母ちゃん以前に俺の妻だろうが。何でこの俺が好きでもねぇ女と添い遂げなくちゃなんねぇんだよ。咲は俺が妥協するような男に見えるのか?」
「みっ、見えない! 全ッ然、見えない!」
「だろ?」
健次郎はニヤリと笑い、ほんの少し前のめりになってその大きな手を咲の頭の上に乗せた。わしゃわしゃと髪の毛をわざと乱すようにして撫でると、咲は大きな口を開けて笑った。そんな彼女の口の端にはチョコレートが付いている。
咲の可愛らしい寝息が聞こえてきたところで健次郎はベッドからそぅっと抜け出した。シャワーでも浴びるかとドアノブに手をかけたところでふと思い出す。
そういえば咲から手紙をもらったんだったな。
後で読もうとリビングのテーブルに置きっぱなしになっていたのだった。
そんなに泣かせるやつじゃないなんて言っていたが。
どれどれ、と開けてみると、中に入っていたのは写真である。
はちきれんばかりの笑顔が2つ並んでいる。それぞれが端を持っている小さな横断幕には『誕生日おめでとう! パパ大好き』の文字が躍っていた。
あぁ、これが幸せというのか。
成る程、どうやら幸せってやつはちゃんと影も形もあって掴めるものらしい。
感触もある、匂いも、味も、音も。
ぽたり、と雫が一滴その上に落ちて健次郎は慌ててそれを拭った。
「――畜生、やっぱり泣かせるんじゃねぇかよ」