八話
結局、その日の晩は自宅に帰ることもできず、事務所泊して黒猫の面倒を見た。翌日からは黒猫のおかげで落ち着かない日々が続いた。意味もなくまとめも遊びにきたりして、しばらく黒猫ブームは続いたが、その間、水魚サンはいつもと変らない様子だった。多分我慢してたんだろう。でもまあ、みんなが帰った後は本性をむき出しにして、黒猫とのめくるめく情事を楽しんでいたようではあった。
一週間も経つと黒猫は事務所内を駆け回る立派なクソ猫に成長。その頃にはまとめの提案もあり、鳴き声の響きから「ぷるり」と、命名。雌猫だったのでこの名前はまあ、いいとして、これ以上女子が増えることに僕は危機感を禁じえない。
確かにオタクにとって猫は約束の動物だ。だが、僕はネコミミというやつがなんか嫌なのだ。文句なく可愛いとは思う。そこに異論はない。が、どうせお前ら、コレさえ付いてりゃ満足なんだろ的な製作サイドの打算が見え隠れする記号に堕落してしまった感がある。
ネコミミがネコミミである必然性、ストーリー性は全く考慮されず、とりあえず可愛いから付けときましたネコミミヒロインはネコミミヒロインとは言えないのではないか。
そもそも耳が猫ということは遺伝子レベルでヒトとケモノが融合しているということだ。
一緒に暮らしてたらトキソプラズマに脳みそを乗っ取られるかもしれないし、ウイルス感染や検疫への対応、ワシントン条約への抵触も考慮しなければならない。ネコミミヒロインとの生活は必ずしも楽しいことばかりではないのだ。……なんだかなにを言いたいのか自分でもよく分からなくなってきた。
「今はまだ構わんが、一年経ったら不妊手術をせねばならんな」
夜見子君がぷるりと戯れている最中、水魚サンが言った。
「ええー。やですよお、手術なんて。ぷるりの赤ちゃん、見てみたいし、可愛そうじゃないですかあ」
夜見子君がぷるりを隠すように抱きしめる。
「気持ちは分かるがな、手術をしておかんと手が付けられなくなる。飼い主に容赦なく噛み付くようになり、外へ出るため大暴れする。雄猫と接触すれば生死に関わる病気をもらうこともあるし、車に撥ねられる可能性もある。手術をしないほうがずっと残酷なんだ」
「ううー。今はこんなに可愛いのにぃ」
夜見子君がぷるりの顔を見つめる。あこや君が質問した。
「その手術って、幾らくらいするものですか?」
「自治体から補助を受けられる場合もあるが、十万は覚悟せねばならん。それと年に一回、ワクチン接種も必須だ。こちらは一万前後といったところか」
「結構かかるんですね」
「とはいえ、犬を飼うほどではないがな。ま、ペットを飼うのはそれなりに厳しいということだ。心配はいらん。全て私が持つ」
思わず僕が割って入る。
「油谷君一人に押し付ける訳にはいかないよ。僕も半分出すよ」
「いえ、結構です。事務所を使わせてもらって、そこまで甘える訳には参りません」
水魚サンは妙なところで律儀だ。するとあこや君と夜見子君が助け舟を出した。
「そういうことでしたら私も出します。餌代や猫砂代も馬鹿になりませんし」
「はーい。わたしもー」
結局、ぷるりにかかる費用は四人で出し合うことで落ち着いた。これでコイツには社屋のネズミ退治でもやってくれねば割に合わん。タダ飯食らいをおいておく余裕など、我が赤貧葬儀屋にはないのである。
「ところで油谷君。藪から棒だが今夜、空いてるかな?」
僕が聞くと水魚サンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「別に構いはせんが、なんだ?」
「いやだなあ、とぼけちゃって。レッスンに決まってるでしょ。アイドルの」
これを聞いて夜見子君が素っ頓狂な声を上げた。
「ええー! 油谷さん、アイドルになるんですかあ?」
「ちょっ、キサマ、なにも二人の前でバラすこともないだろう!」
水魚サンが頬を赤らめて立ち上がった。秘密にする必要あるのか?
「あれ? 言っちゃ駄目でしたっけ? どうせアイドル活動することになればいろんな人に知れ渡るんですよ」
「そっ、それはそうだが……」
水魚サンが顔を赤くしてバツが悪そうにしてるとあこや君が聞いてきた。
「油谷さん、それは本当ですか?」
「あ、ああ。よんどころない事情があってな、社長の要請に応じることに、した」
「そうですか」
あこや君がパソコンに向き直る。
「そういうことだからさ、君達二人も一緒にアイドルになろうよ」
「私は今はぷるりと遊びたいから遠慮しまーす」
夜見子君は辞退した。会社は遊ぶところではないのだが。一方、あこや君はひとつ溜息をついた。
「油谷さん、私は先輩としてだけではなく、同性として尊敬していました。でも貴女もやはり芸能界とか、アイドルに憧れる浮ついた女性だったんですね。正直、がっかりです」
うわっ、キッツう。水魚サンは反論もせず俯いてる。今まで水魚サンの陰に隠れて目立たなかったけど、この子もかなりのオールドミスだなあ。確か僕が高校を卒業して、社長になって初めて面接に来たのがあこや君だった。なにを質問しても無表情で返すので正直、採用は見送りたかったけど水魚サンが、表情のない奴は信用できる! とかなんとか言って採用したんだった。まあ、あの頃は一日も早く従業員を確保したかったからなのだが。でもまあ、今では我が社の重要な戦力だから、水魚サンの人を見る目は確かなのだろう。履歴書にはバイトを転々としたように書いてたけど、この子も結構謎だよなあ。あこや君をアイドルにするのは永遠に無理っぽい気がしてきたぞ。
やがて退社の時刻となり、僕は水魚サンと連れ立って音曲寺へ向かう。事前に連絡していたので住職はパッツンパッツンのランニングにスパッツ姿で出迎えてくれた。
「あら、咲君から話を聞いたときには冗談かと思ったけど、ホントにやる気? 一体、どんな弱みを握られたのかしら?」
住職が赤いジャージ姿の水魚サンを見て容赦なく追い込みをかける。
「うるさい。よしんば弱みを握られていたとしても、喋ったりなどするものか」
僕らは住職に招かれ本堂に入る。ところ狭しと並べられていた楽器類は片付けられ、姿見や色々な器具が置かれてスポーツジムのようになっていた。しばらくはここが僕らのアイドル活動の拠点となる。
「とりあえず、油谷さんのアイドルとしての適正をチェックしましょうか。容姿は問題ないとして、肝心の性格がねぇ……。ま、演技力があればアイドルを演じるくらいはできるでしょうよ」
まるでプロのトレーナーのような住職に対して水魚サンは腕組して投げやり気味だ。
「ふん。アイドルなぞ頭がパッパラパーな小娘のやることに適性もクソもないと思うがな」
「水魚サン、その発言は色々物議をかもしそうですから、少し自重しましょう」
宥める僕には構いもせず、住職がランニングを脱ぐ。するとそこには素晴らしいシックスパックが露になった。
「うふふ。そんなこと言って大丈夫? あまりアイドル舐めてると、泣きを見るわよ」
その後、二人は競うように腹筋三百回、指立て二百回、懸垂百回、ヒンズースクワット五百回、片手腕立て百回二本ワンセット等々をこなし、ついに住職の方が音を上げた。
「な、なんでついてこれるの? この女、化け物よ」
魚市場のマグロ状態の住職に僕が説明する。
「水魚サンは学生時代からの格闘技オタクで、プロレスラーのトレーニングメニューを趣味で消化してるんです」
「頭おかしいんじゃないの?」
結局その日は住職がグロッキーとなりお開きとなった。帰りの車中では住職を負かした水魚サンが上機嫌だ。
「アイドルなぞ、顔とスタイルがいいだけの軟弱者がやることだと思っていたがなかなかどうして、体力も必要とするのだな。ま、私にかかればアイドルなどちょろいもんだがな。わっはっはっはっは!」
萌えない。以前この道をまとめと走ったときにはウキウキしたものだが、水魚サンが隣にいる今はなぜかウキウキしない。春の陽気が見せた蜃気楼だったのか、それとも二人の女子力の差だろうか。いや、この夜の山道が怖すぎるせいだろう。多分、きっと。ともあれ、水魚サンがアイドルへの認識を改め、前向きになってくれたのは大きな成果だ。まあ、あの住職のメニューもアイドルのレッスンと言うにはどうかなとも思えるが、結果オーライである。