七話
昼の休憩時間、社内のテレビが猫の癒され映像を流している。猫も杓子もペットブームの昨今、テレビ局がぬかりなく便乗し、モデルが飼ってる猫モデルなるものを紹介し、自前でブームを作り上げようとしている。それを見てウチの従業員の会話にも花が咲く。
「わー。かわいーい。見て、見て、蛤さん。ほら、猫じゃらしに猫パンチしてる」
持参したお弁当を食べつつ夜見子君が猫映像の虜になってる。
「普通の猫の生態だと思いますが……まあ、お昼から芸能人の不倫やコンサートを見せつけられるよりかは、よっぽどいいですけどね」
あこや君が相変わらずの無表情で冷静に返す。まるっきりおばちゃんのコメントだ。こちらは近所で買ってきたコンビニ弁当だが。
「蛤さんノリが悪いなあ。もしかして犬派ですかあ?」
「特になに派でもありません。最近の猫塾長や店番犬やら、もうお腹一杯って感じです。
今更普通の猫を見せられましても」
「いいですよねえ。猫塾長。生徒希望者が殺到して、経済効果も凄いんですってね」
「まあ、テレビの言うことですからどこまで本当かは分かりませんが。二匹目の泥鰌を狙って犬美容室や猫あんま師とか続々と登場してるらしいですね。いっそのことウチも猫が社長の猫葬儀屋にでもすれば、業績が少しは上向くかもしれませんね」
「ぎゃははっ。猫社長の猫お葬式。ウケるー。じゃあ社長はヒラに降格ですねっ」
二人して恐ろしい相談をしている。今後ウチの社長に猫が就任するようなことがあれば間違いなくこの二人の陰謀であろう。
「油谷さんはどう思います? 猫社長。やっぱり今の社長よか有能ですかね?」
夜見子君が休憩室の隅であんパンをほおばりつつまだなにかの書類と格闘している水魚サンに話を振る。
「くだらんな。愛玩動物に興味はない。猫を社長にして業績が上がれば苦労はない。せいぜい社屋のネズミ対策が適任だろう」
「うーん。油谷さんもどっちかっていうと犬派ですからねえ」
三者三様の意見が出たところで社内にインターホンの音が響く。概ね予定通りだ。僕は食べ終えた弁当箱を片付け、玄関に向かう。が、入り口に向かうとぎょっとした。
そこには全身黒のジャージでフードをかぶり、赤色のサングラスでキメた西園住職が斜に構えて立っていたのだ。
「ハァーイ、咲君。じゃ、行きましょ」
そう言うなり住職は背を向けた。ご丁寧にジャージの背中には白地でデスと英語で書かれている。これが住職のお忍びスタイルなのか、はたまた私服か、深くは追求しないでおこう。僕らは少し歩いて一見の喫茶店に入る。と、店内に微妙な空気。無理もあるまい。全身黒ずくめの住職と作業着姿の僕が連れ立っているのだ。傍からはカラーギャングにカツアゲされてるオタクにしか見えないだろう。
席につき、怯えるウエイトレスに注文を入れる。コーヒーを待つ間、早速本題に入る。
なんのことはない。住職の檀家に不幸があり、その葬儀をウチが行うことになったため、打ち合わせのために住職が尋ねてきたのだ。電話でも事足りるのだが、この前の件もあり、住職もたまにはショッピングなどを楽しむため人里に下りてくるので、じゃあ会って話しましょうかとなった訳だ。簡単なスケジュールの確認なので話はすぐに終わった。
「じゃあ、当日は咲君が迎えに来てくれる。顕揚庵のお坊さんがサブで入る。法要は三十分コース。火葬場でも読経を上げる。これでいい?」
「うん。顕揚庵の助っ人は自分で現着するから問題ない。これでOKです。ただ、行きと帰りはウチの軽トラを使うことになるから、かなり窮屈な思いをさせることになるけど」
「構わないわよ。軽トラだろうが、マイティボーイだろうが、チンクエチェントだろうが、咲君と一緒ならアタシは大歓迎だから」
嬉しいことを言ってくれる。でも、この怖い風貌で言われてもなあ。それにマイティボーイって……あの車の狭さは殺人的だと聞いたことはあるがお目にかかったことはない。もしかして住職って、カーマニアなのかなあ。
「お待たせいたしましたあ。アメリカンコーヒー二つですね」
てなこと考えてると可愛いウエイトレスがコーヒーを運んできた。が、住職は一瞥もくれない。ウエイトレスは逃げるように伝票を置いていった。
「それともうひとつ。今日、会いに来たのはこれを渡したかったからなの」
住職はポケットからUSBメモリーを取り出し、テーブルに置いた。
「ホントはこの前ウチに来たときに渡すべきだったんだろうけど、そんな雰囲気でもなかったしね」
「なんです? これ」
「失礼かもしれないけど、今までボツった曲の中からアイドルソングっぽいものを幾つかピックアップしといた。気に入ったものがあればそれを編曲なりアレンジなりして新曲を起こしてあげる」
「ええー。そこまでしてもらうのはさすがに悪いですよ。すでに発表済みの曲を貸してもらえればそれでいいです」
「駄目。それじゃアタシのプライドが許さないの。最低でもあの女が歌わせてくださいってなレベルのものにはしなきゃ」
まとめへの対抗意識マジパねー。オネエ怖ぇー。住職はコーヒーをひと口啜ると、身を乗り出した。
「咲君。忠告しとくけどあの女、咲君に気があるわよ。アイドル候補かなにか知らないけど、貞操を奪われないよう、気をつけてね」
いきなりとんでもないことを言われ、咳き込んでしまう。
「そんなんじゃないですよ。まとめはただの幼馴染だから。僕なんかに一ミリも恋愛感情なんか抱いてないから。そこは保証しますよ」
「あら、そうかしら。この前ウチに来たときの様子じゃ、ただの幼馴染って態度じゃなかったわよお。オカマの勘かな」
それがアテになる勘かどうかはよく分からないが、仰るとおり、僕とまとめはただの幼馴染というには、少々込み入った事情を抱えている。話すべきか逡巡したが、住職との今後や人柄を信じ、思い切って打ち明けることにした。
「西園さん、僕が中学生の頃、両親が他界したのは知ってますよね? 乗ってたタクシーがトラックと衝突したんです」
「まあ、小耳に挟むくらいにはね。アタシも詮索するのは好きじゃないし」
「そのタクシーには、まとめのお母さんも同乗してたんです。本当はまとめの親父さんも一緒に乗ってるはずだったんですけど、予定があって親父さんは命拾いしたんです」
「それは……お気の毒だったわね。じゃあ、咲君と彼女のご両親は家族ぐるみのお付き合いをしていたと、そう理解していいのかしら?」
「今でもです。親父さんは僕を実の息子のように思ってくれてます。当時、僕らは高校受験を控えてて、進学は諦めようとさえ思ったものです。まとめはお母さんを亡くした訳だから、そりゃあ悲しいにきまってます。でも、両親を亡くした僕の手前、無理をしていました。結局、両家の葬儀は慌ただしく行われ、まとめの気持ちの区切りは、まだついてないんじゃないかと、僕は思ってるんです」
「ふうん。それが、彼女を葬式アイドルに抜擢した理由?」
「いや、それは関係ありません。アイドルユニットのメンバーになってくれそうなのが、たまたままとめしかいなかったというだけの話です」
言いながら果たして本当にそうだろうかと、僕は心の中で自問した。
「でも、ちょっと待って、その話じゃ、咲君が進学する前にご両親が他界したわけよね?
それでよく、会社がもったものね」
「ええ、そうです。あのときはさすがに僕も会社の倒産を覚悟しました。社長である父さんと、母の葬儀を済ませたものの、当時の従業員は次々辞めていきましたからね」
「それが今でも健在ってことは、一体、どんなマジックを使ったのかしら?」
「当時主任だった水魚サンが会社を切り盛りしてくれたんです。僕は中学を卒業と同時に会社を手伝うつもりでいましたが、水魚サンとまとめの親父さんに諭され、どうにか高校は出させてもらいました。その間は僕も多少手伝いもしましたが、水魚サンがほとんど一人で会社を維持したと言っても過言ではありません」
「あのオールドミス? なるほど。それで咲君はあの女に頭が上がらない訳ね」
「オールドミスって……水魚サンはまだ二十八ですよ! 確かにいき遅れの感はあるけど、最近じゃ珍しくもないでしょ?」
「まあね。あの女が結婚する姿もちょっと想像できないけど。でもまあ、大体の事情は分かったわ。話してくれて、ありがと」
住職は一人分の代金を置いて席を立った。さすが住職。僧侶と葬儀屋が清らかな関係でなければならない暗黙の了解をきちんとわきまえてらっしゃる。
「西園さん、まだコーヒー半分残ってますよ」
「ブラックはお肌に悪いから半分だけにしてるの」
「そうですか。じゃあ遠慮なく」
住職が店を後にすると店内の空気が和んだ。僕は住職の残したカップにミルクと砂糖をドバドバ入れ、もったいないのでありがたく頂戴した。
僕が会社に戻るとすでに午後の業務は始まっていた。とはいえ、仕事がない間は待機状態のようなものなのだが。やがて五時を告げる山のカラスの放送が聞こえ、めいめいにタイムカードを押す。が、水魚サンはカードを押した後もそのままデスクに戻り書類と格闘。
これもいつもの光景である。ウチでは残業代は出せないのでタダ働きは分かりきっていることなのになあ。なぜに水魚サンはここまでウチに滅私奉公と言って差し支えないくらい、尽くしてくれるのだろうか。
「それじゃあ、おつかれさまでしたーあ」
「お疲れです」
「うむ」
夜見子君とあこや君の退社を水魚サンが当然のように見送る。が、突然まとめが血相を変えて飛び込んできた。
「やすピン、大変よ! 平坂さんと、蛤さんも早く来て。お願い!」
その尋常ならざる様子に、僕らは慌ててまとめに案内されるまま、ウチの社屋とお帰り屋の店舗の間にある狭い隙間に入っていった。が、そこにあったのはダンボール箱に入れられた一匹の黒い子猫だったので激しく脱力した。僕はてっきり親父さんになにかあったのではと思ったのだ。心配して損した。
「わー。可愛いーい」
夜見子君が掌サイズの子猫を真っ先に抱き上げる。が、子猫は震えてばかりで鳴き声すらあげない。
「待ってください、平坂さん。いくらなんでもこの子猫は小さすぎます。なにか処置をしなければ死んでしまうのでは?」
あこや君の意見にまとめが同意する。
「うん。これから寒くなるし、ウチは飲食店だし、今からお店開けなくちゃだし、どうしよう」
「ええー。この子死んじゃうの? そんなのやだよー」
ったく。いい大人がなにうろたえてんの。ウチだって葬儀屋なんだよ? こんな面倒、うっちゃっておけばいいんだよ。などと言おうものなら僕は一生、三人から冷血漢のそしりを受けるのだろう。ここは一緒に、うろたえるフリをしておくのがベストです。
「そ、そうだね。このままじゃ死んじゃうね。どうしようかなあ。とりあえずさ、表通りに出しておいて、親切な人が通りがかるのを祈ろう」
「やすピン! 冗談言ってる場合? 早くやすピンの事務所に入れてあげてよ。私も後で行くから」
一番現実的な解決法を提示したのに、なんで怒られるの? 二人もまとめに同意して、結局この捨て猫を事務所に入れることになった。多分、水魚サンが黙っていないぞ。
三人で事務所に入る。外気より暖かいとはいえ、室内も肌寒い。奥のデスクで水魚サンが怪訝な顔を向ける。
「なんだ? お前達、もう帰ったんじゃなかったのか?」
「外に子猫が捨てられていたんです。油谷さんの仕事の邪魔は致しません。しばらく事務所を使わせていただきます」
あこや君がコートを脱ぎつつ事情を説明すると、水魚サンはうっとうしいと言わんばかりに大きく息を吐いた。
「ひーん。どうしようどうしよう。早くなんとかしないとこの子が死んじゃうよお」
「平坂君、お願いだから事務所内を走り回らないでよ。油谷君の怒りが爆発しちゃうじゃないか」
「仕方ありませんよ。私も動物を飼った経験がありませんし、こういう場合、どうすればいいんでしょう」
ほらみろ。結局ノープランなんじゃないか。やはり僕が一番大人の対応をしたということだな。とはいえ、僕だって知識なんてない。こういうときこそ落ち着いて検索だ。あ、駄目だ。僕の仕事用の携帯はネット契約してないんだった。あこや君ならスマホを持ってるはずだ。僕があこや君に声をかけようとした刹那、水魚サンがだん、とデスクに手をついて立ち上がった。やはりこうなるか。
「ええいッ。仕事にならん! 平坂! 給湯室からタオルでも新聞紙でも、ダンボールに詰められるだけ持ってこい。蛤は近所のドラッグストアで子猫用のミルクだ。缶か紙パックのものがある。レシートはとっとけ。後で私が払う。それと倉庫に白熱灯があったはずだ。社長、キサマが持ってこい。それと猫のトイレになりそうな洗面器か、バケツもだ。さっさと行け!」
腕まくりをした水魚サンの号令一下、それぞれが行動に移る。タオルにくるまれ、白熱灯で暖められた子猫がミルクを飲み、ピイピイと鳴き声をあげるまで回復した頃にはもう八時を回っていた。それにしても意外な一面だ。まさか水魚サンに動物を飼うスキルまであったとは。アパートで一人暮らしのはずなのだが。
「遅くなってごめーん。なんか今日に限ってお客さんが多くって」
まとめがおにぎりやら、から揚げやらが盛られた皿を持って入ってきた。いくらなんでも子猫はおにぎりなど食べないと思うのだが。
「ああ、小豆沢さん。もう大丈夫ですよ。ほら、見てください。この元気な姿」
あこや君が無表情のまま、夜見子君に張り付いて離れない子猫を見せた。三人が子猫を囲んできゃっきゃと騒いでいる中、すでに水魚サンは残業モードに入っている。
「はああ。今日はすごい残業やっちゃったよお。まとめちゃんも来たし、もう私達、帰ってもいいよね?」
「そうですね。この子の面倒は社長がみてくれるはずですから、いいかげん帰宅しましょう。それでは私達は帰りますので、油谷さんもあまり無理なさらないでくださいね」
おにぎりをほおばりつつ、なぜ僕が面倒を見なければならないのか釈然としない。
「ああ。もう暗いから気をつけろ。なにかあったらすぐ私に連絡しろ」
水魚サンが二人を見送ったが、やはりデスクを立つ気配はない。するとまとめが僕に声をかけてきた。
「ねえやすピン、こんなときにアレなんだけど、ウチのお店でちょっとアレがナニしちゃって困ってんの。少し手伝ってくれない?」
「ごめん、ちょっと主語が伏せ字でなんのことやらさっぱり分かんないんだけど、どうしても僕が行かなきゃ駄目?」
「どうしても! そういうわけでやすピンを少しお借りしますから、油谷さん、しばらくこの子の面倒みててくださいね」
「はあ? なんで私が。お前らが連れ込んだんだろうが。おい、待て。私はそんな奴知らんぞ」
水魚サンの文句も聞かず、まとめは半ば強引に僕を事務所から連れ出した。
「一体なにがあったってんだよ。お帰り屋で起きた問題を僕がどうこうできる訳ないだろ」
「鈍いなあ、やすピン。いいからちょっと見てなさいよ」
まとめはそう言うと腰をかがめてドアの隙間から事務所内を窺い始めた。僕も釣られて事務所内を覗き込む。中では水魚サンが両手で頭を掻いている。やはりご機嫌ナナメだ。事務所内ではピイピイという子猫の鳴き声のみが響く。まさか水魚サン、あの猫を窓から放り捨てやしないだろうな、などと心配していると水魚サンが立ち上がり、猫の入ったダンボール箱の元へ歩み寄った。水魚サンが手をダンボール箱に突っ込み、猫の首根っこを摘まんで持ち上げた。水魚サンの手の中で丸まる猫。本当に投げ捨てるつもりじゃあるまいな。固唾を呑んで見守ってると、しばらく猫をしげしげと眺める水魚サンの顔が不気味に崩れ始め、猟奇的な笑みに変った。
「はにゃーん。可愛いにゃーん。お前はホントに美人だにゃーん。あ、フーッて言っちゃ駄目だよ、フーッて言っちゃ駄目だよ、ゴロにゃーん」
猫なで声で水魚サンがそう言うと、子猫に頬ずりし始めた。こ、怖い! 普段とのギャップが恐怖をより増幅させる。これなら放り捨ててくれたほうがまだマシだった。
「よしっ。録画完了。やっぱりねえ。油谷さんみたいな完璧女子は癒しに弱いと思ってたんだよなあ。ほら、このスマホ、やすピンに貸したげるから、後はうまくやんなさいよ」
そう言うとまとめが差し出したスマホにはさっきの激ヤバ映像が記録されていた。
「ま、まとめさん。これで僕に一体、なにをしろと?」
「決まってんじゃん。これで油谷さんを脅迫してアイドルにさせちゃえ! 少し汚い手段だけど、こうでもしなきゃ一生アイドルユニットなんてできないからね。やすピンの本気を見せてみろ。じゃあね」
まとめはそう言って階段を下りていった。そんな恐ろしいミッションを僕にやれって言うのか! 葬儀屋の社長カッコ二十三、自社オフィスにて殴殺死体で発見! の、三面記事が脳裏を過る。もしかしてまとめはこの陰謀のために子猫も仕込んだのだろうか。いや、深くは考えまい。それが友情というものだ。僕は覚悟を決め、ドアを開けた。
水魚サンが僕の入室に気付くと、猫を抱きしめたまま後ずさった。明らかに動揺している。こんな水魚サンを見るのは初めてだ。
「な、なんだ。いきなり入ってくるな。あ、いや、違うぞこれは。少しこいつの様子がおかしかったので、ちょっと見ていただけだ」
今まで見たことのない水魚サンのうろたえた様子につい僕の気持ちも大きくなる。
「おや? 僕はなにも言ってませんけど? しかしおかしいですね。今の口ぶりだと、僕が今しがた見た光景とは若干、齟齬がありますねえ」
「い、今しがた? 一体、なな、なんのことだ」
依然、猫を抱きすくめたまま水魚サンが後ずさる。僕はじりじりと距離を詰め、事務所の隅に追い込んだ。
「こういう光景ですよ」
僕は薄ら笑いを浮かべ、まとめから受け取ったスマホを再生モードにして水魚サンに突きつけた。
「はにゃーん。可愛いにゃーん」
僕からは見えないが、スマホのディスプレイからはさっきの衝撃映像が再生されているはずだ。
「あああああああああッ!」
水魚サンが突然絶望的な悲鳴をあげ、その場に突っ伏す。懐の猫はたまげてどこかへ行った。
「き、キサマ、こんなものを録画して、一体どういうつもりだ!」
水魚サンが般若のような形相で僕を睨みつける。本当にこれで正解なのだろうか?
「ククク。いやだなあ。ただの偶然ですよ。グ・ウ・ゼ・ン。それよりも、僕はこの会社の、一応社長としてこのクソ猫、もとい黒猫の処理をどうするべきか考えていましてねえ」
なんだか喋ってるうちに僕のキャラの方向性もおかしくなってきたぞ。鬼畜系ギャルゲーの主人公入ってる、みたいな。
「処理だと? キサマ、あの猫をどうする気だ? ことと次第によっては許さんぞ」
「そう言われましてもねえ。まさか事務所で飼う訳にもいかないでしょう。まあ、僕は自宅があるので飼えなくもないですが、そんなつもりはありませぇん。あとは、従業員の誰かが飼う? それもナッスィング。平坂君も蛤君もマンション暮らし。水魚サンもアパート住まいでしたよね? まあ、ペット可の物件なら問題ありませんが、多分違うんでしょう?」
「くっ」
「じゃあ第一発見者のまとめが飼う? ノンノンノン。まとめの家は飲食店ですよ? 猫なんて飼える訳ないでしょう。では、導き出される答は、ひとつですよね」
体をのけ反らせてメガネのポジションを直す。僕は一体どこを目指してるんだろう。
「明日の朝、一番に保健所に連絡します。これが最も、現実的な解でしょう」
「保健所だとッ? 生まれて間もない子猫だぞ。キサマの血は何色だ!」
「なんとでも。でも、僕だってできればそんなことはしたくないんですよ? 水魚サンさえよければ、この事務所で飼うのもやぶさかではないんですがねえ」
「ほ、本当か?」
「ええ。でもそうなると、他の従業員からクレームが出たときに対処しなければなりませんねえ。そこでですね、ひとつ取引をしましょうよ」
僕は再びスマホのディスプレイを向ける。
「はにゃーん。可愛いにゃーん」
「……取引だと? 私になにをさせる気だ。この、豚があ!」
「そう構えないで。簡単なことですよ。僕の要求をひとつ、呑んで下さればいいだけです」
狼狽した水魚サンが観念したようにゆらりと立ち上がった。
「そうか……お前の言うことをひとつ、聞けばいいのだな」
水魚サンはそう言うなり、胸元のボタンを外し始めた。
「ちょ、ちょっと水魚サン! アナタ一体、なにやってんですかッ」
「なにって、私に肉奴隷になれというのだろう? そういうオタゲーがあると聞いたことがあるぞ」
「そりゃ十八禁の鬼畜系ゲームのことでしょ! 僕の守備範囲じゃないから! 水魚サンにそんなことさせる訳ないでしょ!」
「なんだ。そうなのか? じゃあ私になにを要求するつもりなのだ?」
「前に言ったじゃないですか。僕の作るアイドルユニットのメンバーになってくれればいいんですよ」
「そ、そんな真似を私にしろというのか?」
またも水魚サンが力なく膝を折った。
「……そんな辱めを受けるくらいなら、私は死を選ぶ。お前のような豚に、決して屈服などしないぞ」
肉奴隷になるよりアイドルやるほうが屈辱的なのか? 水魚サンの貞操観念がいまいちよく分からない。するとさっきの猫が出てきて水魚サンの手を舐め始めた。
「水魚サン。その子を見てください。面倒を見てくれる者がいなければすぐに絶えてしまう、儚い命です。その子をおいて死んでしまって、本当にいいんですか? 死ぬのはいつでもできます。ですが、その子のために陵辱に耐え、行きぬく道だってあるはずです。それこそが、真に屈服しないということです。それに生きてさえいれば、いつかきっといいこともありますよ。たとえば、猫のいる職場とか」
「ね、猫のいる職場だとお!」
水魚サンが頬を染め、だらしない顔でなにか妄想してる。まあ、大体想像つくけど。
「いいだろう。今回ばかりはキサマの要求を呑んでやる。だが、約束は必ず守れ。違えたときには、明日、こいつがいなくなっていたら……必ずお前を殺す!」
水魚サンはそんな物騒なことを言うなり退社の準備を始めた。僕が猫を抱き上げ時計を見るともう十時を回っていた。水魚サンはそのまま出口に向かい、廊下に出たかと思うと再び顔を出した。
「それと、これだけは覚えておけ! 私はいつか、必ずペット可の物件を手に入れる!」
そう吐き捨てるとツカツカと水魚サンが階段を下りる音が聞こえた。やったあ。水魚サンを倒したぜ。ラスボスだと思ってた水魚サンを最初に攻略できるとは思わなかったな。これもみんなまとめのおかげだ。僕が抱いていた黒猫を持ち上げると、こいつも嬉しそうに、ピイと一声、鳴いた。