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35℃

作者: けねお

夏の間に投稿するの忘れてたてへぺろ

 窓を開けた途端、熱風が濁流のように押し寄せて、礼二は息が詰まるかと思った。


 一年ぶりの夏を少々なめていたかもしれない。昨日と一昨日の気温は三十度で、テレビがどの局も夏日だ真夏日だと騒いでいたわりに、外は時折風が吹いていたおかげでとても過ごしやすかった。バイト先でも、『節電!!』と書かれたポスターを無視してガンガン冷房をかけていたので、ここ数日はむしろ肌寒く感じていたのだ。なんだ夏。どうした夏。そんなもんなのか夏。俺はちっとも暑くないぞ。今年は楽に過ごせそうだ。などと酩酊した頭で考えながら、礼二は冷房の効いたアパートで寝そべり、ビール缶を片手に窓から見える暗い空を鼻で笑っていた。


 そして現在、礼二は雲一つない青空に向かって土下座している。正確には、窓を開けた際の熱風にやられてその場でへたり込んでしまっていた。その姿が傍からみると土下座にしか見えないのだ。窓の外の青空に向かって頭を垂れるその姿に、昨夜のような余裕はまるでない。一体、彼の身に何があったのか。



  ◇



 まず、朝起きるとエアコンが壊れていた。


 どうやら昨夜の就寝中に、エアコンはその生を全うし、静かに息を引き取っていたようだった。そのせいで、寝る前あれだけ涼しかった部屋は室温三十度にも達しており、礼二は水をぶっかけられたように全身汗だくになっていた。ぐっしょり濡れたTシャツを洗濯籠に投げ入れて、とりあえずシャワーを浴びる。朝っぱらからイライラが募る頭をシャワーで冷やしながら、冷静にあの部屋の現状を確認しようとした。しかし、あっ。と、ここである事に気づいてしまった。


 扇風機がない。エアコンが取り付けられてから全く使われなくなったそれは、ただでさえ狭い部屋をさらに圧迫する邪魔物でしかなかったので、去年の冬に両親に持って帰ってもらったのだ。この段階になって、礼二は事の重大さに気づき、焦り始める。つまり今日一日、あの灼熱地獄の中を生きなければならない。


 とはいえ、それでも礼二の心にはまだ余裕があった。所詮、業者に頼んで直してもらえればいいだけのことだ。修理代がいくらかかるのかは知らないが、この前バイト代が入ったばかりのため多少高くても払うことができる。やはり、何の問題もないように思えた。


 しかし、そんな空虚な余裕は電話口の声を聴いた瞬間に消し飛んだ。


「申し訳ありませんが、今日中にお客様の元へお伺いすることはできません」


 まるで死刑宣告を聞く囚人のような気分だった。礼二が慌てて理由を尋ねると、返ってきたのはさらなる絶望の声。


「ここ数日で、エアコン修理のお電話を多くいただきまして、現在、予約が三日後までいっぱいの状態でございます。お客様には、大変ご迷惑をおかけしますことを、お詫び申し上げます」


 感情の起伏の少ない、平坦で事務的な対応だった。取りつく島もないその声に、礼二の思考が完全に停止する。ケータイを構えたまま、無意識に顔をつけっぱなしのテレビへと向けた。


『続いて、週間予報。今日から三日間は晴れ、曇りひとつない快晴となるでしょう。気温は昨日にも増して三十五度を超え、猛暑日が続きます。外出の際は帽子や日傘、こまめな水分補給を心掛けましょう。木曜日は、一部地域で局地的な雨が――』


 ガタン。と、大きな音が響いて、礼二は我に返った。どうやら思わずケータイを落としてしまったらしい。通話中にも関わらず意識が遠のいてしまうほど、礼二はショックを受けていた。


 結局、三日後に修理の予約を取り付けて通話を終えた。汗ばんだ頬に長らくくっつけていたせいで、ケータイの画面は霧吹きをかけたように細かい汗が付着している。両手も手汗でテカテカと光り、背中は蒸しタオルを押し付けられたように暑い。つい数刻前にシャワーを浴びたばかりだというのに、礼二は既に起床時と同じくらいの汗をかいていた。


 このままではまずい……焦りと暑さへのイライラでうまく頭が働かない。それでも礼二はふらふらとした足取りで、窓の方へ向かっていた。空気が悪すぎるのだ。ここは一旦、窓を開けて風を取り込み、気分転換をしなければと思ったのだ。そしてカギを外し、窓を勢いよく開けて――熱風にやられ、土下座する羽目になったのだった。



   ◇



 一人作戦会議をすることにした。


 熱風にやられこそしたが、やはり換気を行ったことが功を奏したようで、礼二は少し落ち着きを取り戻していた。窓とカーテンを閉め、ベッドに腰掛けながら、うちわを片手に今後の対策を練ることにする。絶え間なく垂れ落ちる汗が思考をたびたび邪魔するが、タンクトップでひたすら拭いながら、礼二は必死に頭を動かした。


 当然のことだが、今ここから逃げること自体はさして難しくない。マンガ喫茶へと赴きそこに一日中居座っていてもいいし、ノートパソコンや小説をバッグに詰め込んで、ファミレスや大学の図書館などに入り浸ることも可能だ。しかしそれは、根本的な解決にはならない。今はよくても、夜にはこの地獄に再び戻ってこなければならないのだ。そう、問題は昼間ではなく、これから三日間、三十五度を超える熱帯夜をどうやって乗り切るかということだ。それでは三日間外泊すればいいのでは? と思うかもしれないが、それはかなわぬ夢である。同じ一人暮らしの友人は現在実家に帰省中だし、どこかのホテルに泊まろうにも、エアコンの修理代が思っていたよりも高く、今月のバイト代が丸ごと消えることが想定されるので、これ以上金は減らせなかった。夏休みを怠惰に過ごしたいがために、シフトを殆ど入れなかった先月の自分を、礼二は今更ながら恨めしく思うが、後悔先に立たず。過去を振り返るのをやめて、再び礼二は前を見据えた思考を展開させる。


 考えてみれば、明日通販で注文した品が届く予定だったので、そもそもからして三日間の外泊など無理であったことを思い出した。ということは、ホテルより格安で済むマンガ喫茶での寝泊まりも出来ないということだ。どうやら、礼二はいよいよ熱帯夜と立ち向かう方法を考えねばならないらしい。


 腹をくくると、礼二はおもむろにノートパソコンを取り出し、起動させた。ファンから熱風を吹き出し、うなりを上げる起動音は、まるでこの暑さに苦しむパソコンの悲鳴のようだった。礼二は冷蔵庫から取り出した保冷剤をパソコンの上に乗っけたり、うちわで風を送ってやったりと、少しでも熱が下がるように手当してやる。パソコンが完全に立ち上がると、礼二は検索エンジンで、『夏 暑さ 対策』と打ち込み、調べ始めた。ページからページに飛び移り、クーラーや扇風機を使わない方法で、かつ金をかけなくてもできる方法を模索する。


 とりあえず、多くのサイトで見られたのは、洗面器に氷水を入れ、足湯のような感覚で足を冷やす方法だった。早速礼二は行動に移った。風呂にある洗面器を持ってきて水で浸し、お酒を飲むために買っておいた氷を惜しみなく投入する。試しに手を入れてみて、おおっ、と思わず感嘆した。これが思っていた以上に冷たく、気持ちがいい。礼二は椅子に座って、両足をおそるおそる、洗面器の中に入れた。


 瞬間、それまで足を覆っていた熱が、じわりじわりと引いていき、水が足の毛穴一つ一つに染み渡っていくような快感を味わった。その冷気は足にとどまらず、徐々に上り詰め、脚全体が水につかっているような錯覚を礼二は覚え、身悶える。効果は絶大だった。


 しかし、当たり前だが寝ている間にできる方法ではない。この方法のためだけに毎晩椅子に座って寝るのは辛いし、そもそも寝相の悪い礼二では洗面器を蹴ってあたりを水浸しにしてしまうのがオチだ。


 結局この案は廃案になり、礼二は次の作戦に移った。今度は、涼しくしたいところに霧吹きをし、うちわで扇ぐという方法だ。しかし、今回は試すことすらせず廃案になった。理由は勿論、就寝時にはできない方法だからだ。結局、寝ている間でもできる方法というのはつまり、自動で部屋を涼しくしてくれる方法である。その上、お金をかけず扇風機もなしとなると、選択肢は皆無に近い。それでも、礼二はひたすらパソコンとにらめっこし、案を浮かばせては却下し、試してみては断念し、あーでもないこーでもないと案を巡らせていた。



  ◇



――そしていつしか、礼二は化学者になっていた。


「それではこれより、本年度ノーベル化学賞を受賞されました、天才大学大学院理工学研究科教授、海棠礼二から、受賞に際してのコメントを頂きます。海棠教授、よろしくお願い致します」

「よろしくお願いします」


 礼二の前には各テレビ局のカメラがずらりと並び、多くの新聞記者が床に座り込んで、礼二の一挙一動を見逃さんとしていた。スーツを着た大勢の大人たちに視線を向けられることに、当初こそ居心地の悪さを感じていたが、ここ最近はひっきりなしに会見を行っていたので、今ではすっかり慣れてしまっていた。


「ではまず、率直な感想を聞かせてください」


 記者の一人が手を挙げて、お決まりの質問をする。海外メディアには何度も答えた質問なのだが、それでも礼二はいやな顔一つもせず、質問に答えた。


「そうですね。今でも信じられないです。この私が本当に? って、夢でも見ているんじゃないかと思いますね」


 表面上こそ落ち着いて答えているものの、心の中では、高笑いが止まらない礼二であった。気分は、ワイングラスを片手に高級なソファでふんぞり返る上級貴族だ。名声、歓喜、拍手、尊敬の眼差しを向けられて、嫌がる者などいないだろう。礼二も例外ではなく、日本だけでなく世界中から称賛されて、完全に調子に乗っていた。


「今回、海棠教授は、二酸化炭素の赤外線吸収帯に干渉し、意図的に調整することが理論上可能である事を発表されました。これはつまり、二酸化炭素が温室効果ガスとして機能しなくなる可能性を提示したということですよね。これは世紀の大発見、いや、世界を救った英雄といっても過言ではないと思うのですが、発見された時は、どのような心境でしたか?」


 そう、礼二はあの日、蒸し暑い部屋で夏の暑さ対策を調べていたはずが、ページを飛んでいるうちに地球温暖化の記事に行きついてしまい、環境問題についてどっぷり興味を持ってしまったのだった。そして大学で環境化学を専攻し、研究に研究を重ね――教授となった礼二は、ついに、地球温暖化を根本から解決する理論を提唱したのだった。


 その後も矢継ぎ早に記者たちは質問をしてきたが、やはりそれらも全て、ありきたりな質問ばかりだった。しかし、それでも礼二はいらだちを覚えるどころか、嬉々としてそれらすべての質問に丁寧に答えていく。例えありきたりな質問でも、世間に自分の業績が知れ渡ることがこれ以上になくうれしかったのだ。


 その中で、ある一人の若い記者が手を挙げ、こんなことを尋ねた。


「海棠教授が、化学者の道に進んだきっかけは何だったのでしょうか」


 その記者は見るからに新人で、先ほどから的外れな質問ばかりしてきていたのだが、ついにそれらしいことを聞いてきた。すっかり気分を良くしている礼二は、自分の教え子に教鞭を振るうように、自身の過去を話し始めた。


「三十年前、学生の頃、エアコンが壊れたことがありましてね。扇風機もないし、業者も予約が三日先までいっぱいだって言われて、詰んでいた状況だったんです。金欠でよそへ泊るお金もなかったし、事情があってアパートから出るわけにもいかなくてね……それで、お金をかけず扇風機も使わず、どうにかして涼しくなる方法はないかと、ネットで調べながら、蒸し暑い部屋でうんうんと考えていました。今思えば、あれがきっかけだったのだと思います」


「その時は、どうやってその状況を乗り切ったのですか?」


 新人記者のタイミングのいい質問に、礼二は満足しながら、言葉を続ける。


「結局、その時はいい方法が思いつかなくて、泣く泣くマンガ喫茶で三日間を過ごしたのです。お金と、部屋にいなきゃいけなかった用事を犠牲にしてね。それで私、ついに自棄になりましてね、いろんなものに八つ当たりし始めたんですよ。こんな思いをするのは太陽のせいだって、気温を三十五度も出す今の環境が何もかも悪いんだって。地球温暖化コノヤローってね……それで環境問題に興味を持って、化学者を目指し始めたんですから、本当に人生何が起こるか分からないですよ。今では、あの時エアコンが壊れてくれたことに感謝しています」


 軽く笑みを浮かべてそう言い切り、礼二はマイクを置いた。礼二が話している間も新人記者は真剣にメモを取っており、一通り書き終わると、礼二に礼を述べて質問を終える。ふと時計を見ると、記者会見からすでに二時間たっていた。


「それでは最後に、この会見をご覧になっている日本の皆さんに、海棠教授から一言、お願いします」


 ついに来たか。と、礼二は姿勢をただし、まっすぐテレビのカメラに視線を向けて言葉を紡ぐ。


「あの時、エアコンが壊れなかったら、今の私は居なかったでしょうね。あの蒸し暑い部屋で、涼しくなる方法を一生懸命考えていた自分をほめてやりたいです。やはり人間は、極限状態に身を置いたとき、こう、パッと、閃けるんですね。人が生き残ろうと本気であがいた時、人は進化できるのだと、私は知りました。何かこれからやり遂げたいけど、気持ちで負けてしまっている方は、一度自分を極限まで追い込んでみてください。きっと、皆さんも進化を遂げることができますよ。……まぁ、今あの頃と同じ事をしろといわれても、やる気になりませんけどね」


 会場全体に笑いが起こり、場の雰囲気が和やかになったところで、記者会見は終了した。報道陣の拍手に送られながら、会場を後にしようとドアを開けて――


 瞬間、熱風が濁流のように押し寄せて、今度こそ、礼二は息が詰まった。


「え?」



  ◇



「――ッ!!」


 目を見開き、礼二は勢いよく飛び起きた。真っ先に映りこんできたのは、自分を覆い隠すように広がる白いカーテンと、自分のものではない見知らぬベッド。消毒液の匂いが鼻に付き、汗で服が体にへばりつく感覚を覚える。傍らには、点滴があり、チューブによって礼二の腕とつながれていた。


「……夢?」


 そしてここは病院だった。



  ◇



「熱中症です」


 診察室で礼二の体を一通り調べた医者は、あきれた顔をしながら、目の前に座る礼二に向かってそう言った。


「正確には、熱疲労です。よく言われる熱中症よりも、少し危ないやつですね……海棠さん、貴方自分の部屋でパソコンを前に倒れていたんですよ。それもお昼までずっと。貴方のアパートの大家さんが見つけていなかったら、貴方死んでいたかもしれないんですよ? いったい何でまた、あの暑い日に冷房もつけず部屋に籠っていたんですか」


 つまり、現実はこうだ。パソコンで暑さ対策を調べていた礼二は、地球温暖化の記事になどたどり着いておらず、大量発汗による脱水症状により途中で意識を失ったのだ。その後、夜になってから夕食のおすそ分けに来た大家によって発見され、救急車沙汰に。これが想像以上重傷で、礼二は丸二日間、寝込んだ状態だったという。大学教授もノーベル化学賞も記者会見も、ただの夢の出来事だった。


 その後も、医者による診断か説教かわからないような時間が長々と続き、結局、身体の方は完治したと判断され、礼二は診察室を後にした。礼二が倒れたことは両親にも連絡が言っていたらしく、病院の公衆電話で無事を伝えるとこっぴどく叱られてしまい、一度引き取ってもらった扇風機が、再び送られてくることになった。


 げんなりした気持ちで帰路に着こうとする礼二だったが、ふと、医師が言っていたことを思い出し、ある事に気付いた。医者は、自分は丸二日病院で寝ていたといっていた。そして、アパートでは朝から晩まで倒れていたらしい。そして今の時刻は正午を回ったところだ。ということは……


「……まさか」


 瞬間、顔を真っ青にしながら病院の公衆電話に逆戻りし、ズボンから十円玉を取り出して、エアコンの修理センターへと電話を掛けた。コールは一回でつながった。相手が名乗るのを遮って、礼二は自分が三日前に修理をお願いした海棠であることを述べると、返ってきたのは三日目と同じ、感情の起伏の少ない平坦な声。


『申し訳ございません。ご予約された火曜日の十時に、海棠様へ何度もお電話させていただいたのですが、ご連絡がつかなかったので、今回のご依頼はキャンセルとなりました。再びご予約なされる場合、また三日後になってしまうのですが、ご予約いたしますか?』


 いつか聞いたその内容に、礼二の思考はまたもや完全に停止した。ケータイを構えたまま、無意識に顔を病院のテレビへと向ける。テレビは予想通り、天気予報をやっていた。


『続いて、明日の天気です。東京は一日を通して晴れ。最高気温は三十五度にも達し、十分な暑さ対策が必要となるでしょう。このあと三日間は今日のような天気が続きますので、外出の際にはご注意ください』


――礼二と猛暑日との戦いは、まだ終わらない。







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