6
もしも神様がこの世界にいたのなら。
「かなえてもらいたい願いってなにかある?」
ビル風に吹かれた多恵は、約半年伸ばしっぱなしの髪を一生懸命押さえているがそんなことでは追いつかないくらいかき乱されている。
「え?」
同じく吹きすさぶ風にマフラーとダッフルコートの裾をはためかせ、縁もゆかりも無い雑居ビルの非常階段の手すりに背中を預けて立っていた葉月は、聞きそびれて問い返した。
「もし、神様がいたとしたら。なにかかなえてもらいたいお願い事ってある?」
ミンクのマフに顔を半分うずめた多恵がもう一度同じことを尋ねた。
「うーん、別にない」
「ないの?」
あっさりした葉月の返事に、多恵は小さく笑って首をかしげた。
「ないよ。というか、カミサマってなに?」
葉月も笑った。十二月の街は道路も街路樹もイルミネーションや金銀の飾りで街頭まで飾り付けられているが、よけいに寒さを際立たせて感じさせるものでもある。
日が落ちていっそう寒そうに美玖が腰にしがみついてくるので、葉月は赤と白のギンガムチェックのニット帽をすっぽりとかぶせてやった。
「なにって」
「どっかの人たちにとってのカミサマなら今ここにもいたりするるけど、なんかかなえてくれる? 美玖」
葉月が声をかけると美玖は黙ったまま目をあげたが、多恵にもわかりきっていたとおり無言が返答だった。
「うちには昔から神様がいたよ。美玖が生まれてくるよりもっと前から。僕も誰かにとっての神様だったかもしれない。でもその正体がなんだったのかなんてわからないし、僕らは僕らで生きていかなきゃならなくて、そして誰の願いもかなえたりできないよ。だから僕も誰かに願いをかなえてもらいたいとは思わない」
強い風が葉月の声を途切れさせるが、かといって張り上げて喋るような内容でもない。多恵にきちんと伝わったかどうかも定かではない。
「多恵は? なにかかなえて欲しいことあるの?」
同じ質問を本人にしてみると、多恵はまた少し笑った。いや、口角をあげて笑みに似た表情を作った。
「あったよ」
「過去形なんだ」
「うん。もうかなったから。……多分」
多恵はあいまいに呟いて、そして別のことを言った。
「寒いね」
「うん、そろそろどこか店でも入る?」
映画館で朝からヒマをつぶしたあと一時間近くこの場所にいるので、そろそろつまさきがしびれるほど冷たくなっていた。
多恵のロングブーツに守られた足だって同じことだろうと水を向けたが首を横に振られた。
「まだどこにも行きたくない」
多恵は視線を落として階段を一段だけ登る。
「じゃあさもし、今度生まれ変わってくるとしたら、なにになりたい?」
風上の多恵の言葉はよく通る。けれど意味をつかみとりかねて、葉月は惑った。
「あたしはねえ」
葉月の返事を待たずに多恵が続けた。
「キリンになりたいな。そんで背中に鳥のっけてのんびり暮らすの」
「ウシツツキ?」
「そんな名前なの? キツツキは木をつついてるけど、牛をつついてないのにね」
「さあ、牛もつついてるんじゃないの」
「ふうん」
多恵は振り返ってベビーピンクのコートを風でふくらませる。
「葉月は?」
「僕?」
葉月は少しだけ高い位置にいる多恵と目線をあわせた。
「僕はなんにも生まれ変わりたくないな。死んだら、もう二度と生まれて来たくないよ」
葉月は考えることもなくあっさりと答えた。そもそも葉月は死後の世界や、霊魂の存在などを信じているわけではない。
先を視る力を持つ美玖も現世以外の世界について言及したことがなかった。
葉月自身はもちろん見たことがないので無いとも断定できないが、あるとは思えない。なので葉月はそう答えた。
多恵は、ただ寂しそうに笑っただけだった。傷一つない白い顔で。
(どこかでなにかを間違えた。ボタンのかけちがえみたいにひとつずれたら全部ずれていく。どこからなおしていいのか、もうわからない。
きっと、はじめから、間違えていたのかも。いまさら言ってもしかたないけれど)
夜半から降り始めた雨の音を、敦は背中を丸めてただじっと聞いていた。
熱はだいぶ引いてきたが、かわりに今度は間欠泉のように激しい咳の発作に襲われて何度も眠りを破られる羽目になった。
冷たい夜の底に横たわって、浅い呼吸を繰り返しながらにうつらうつらしていると馬鹿げた感傷ではあるが自分は一人なのだと思えた。
「!」
ごほっと、何かに誘発されたように一度咳が出ると後は全身に力を入れて嵐がとおりすぎるのをひたすら待つしかない。
敦は咳がおさまると涙のにじんだ目でぼんやりと天井をながめた。白い蛍光灯が闇の中にほのかに丸い環を浮かべている。まるでくらげみたいだ、と思った。
ぷかぷかと波間を漂っているようにしか見えないくらげにも、意思があってどこかを目指しているんだろうか。
溺れてしまった多恵と違って、葉月と美玖はどこかへ向かって今でも進んでいるんだろうか。
出るはずのない答えを探して、敦は朦朧とした頭をわずかに傾けた。そのとたん、再び咳が襲って来て敦は必死に指を握って咳き込んだ。
咳がおさまれば、生きるのに必死な自分を笑う余裕も出てくるが最中には何を思う暇もない。敦はただ喉を擦り切れさせながらげほげほと咳を繰り返す。
敦は震える指で枕元に転がった喉スプレーを探って、口腔奥に噴射した。
ひりひり痛むばかりで効いてる気がしないが、それでも痛むことで自分は生きてるんだと思った。
いつの間にか雨音も止んでいた。何時なのか正確な時間はわからないが、夜が明けるまでにはまだもうしばらくかかるだろう。
少しでも眠りたいと敦は固く眼を閉じた。
回るメリーゴーランド。
「もう帰ろう」
にぎやかな音楽に、上下する回転木馬が行ったりきたりを繰り返し、視界の隅に入るのに嫌気がさした多恵が声をかけたら、葉月はわずかだが意外そうな表情を浮かべていた。
いつも葉月の家に遊びに行ったときも、どこかへ出かけた時も、多恵からそろそろ帰ろうかと言い出すことがなかったからだろう。
いつもは敦の役目だった。でも敦はここにはいない。彼は一緒には来なかった。彼の未来は一本道ではないにしても、ある程度先が見えており、その道を歩むことになんの疑念も反抗心もなかったからだ。
「疲れた?」
意外そうな表情はすぐに消え、葉月はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「ううん……うん、そうかも」
多恵はあいまいにうなずいてみせた。
「美玖」
納得したように葉月も頷き、柵の向こうのメリーゴーランドをのぞいている従妹に声をかけた。
美玖はくるりと振り返ると、手招きする従兄の下へすぐに走ってきた。十二歳だという彼女は年よりどこか幼く、けれど三人のうちの誰よりも年寄りのように見えることがあった。
「どこへ帰ろうか」
葉月がどういう意図を持ってその言葉を選んだのかは、多恵にはその時はよくわからなかった。
「え?」
自宅を出てきて十日、多恵たちは葉月の母親の遠縁にあたるという家にお世話になっていた。
離れもある立派な家の住人たちは、先に連絡したとはいえ突然増えた三人を住居が別なため顔をあわせることが少ないせいもあるだろうが不満や迷惑そうなそぶり一つ見せず今日まで歓待してくれている。
それだけに葉月の台詞は多恵を困惑させるのに十分すぎた。
「別に毎日あそこへ帰らなきゃいけないってわけでもないじゃない?」
「そりゃそうだけれど……。でも荷物とか置いて来てるし」
「必要なものは持ってるでしょ。財布とか携帯とか」
「着替えとか全然持ってきてないよ!」
「買えばいいじゃない」
葉月はこともなげにあっさりと言う。
「じゃあどこへ行くの」
「どこでもいいよ。どっか行ってみたいところある?」
多恵はふるふると首を横にふった。
同じ屋根の下で寝起きしているわけでもなく、住人たちとめったに顔をあわせることもないのになにか嫌なことでもあるのだろうかと遠まわしに問うても、葉月はいつもの涼しげな微笑でなんの問題もないという。
ならば、何故。多恵にはさっぱり理解できないが、美玖は特に気にした風もなく話の成り行きを待ってテーブルの上に残ったジュースを飲んでいる。
「あのうちが気に入ってるならそれならそれでいいけど」
「そういうわけじゃ、ないけど。……葉月って今まではずっと家にいて、普段そんな出かけたりもしないのになんか急にアクティブになったなって。ちょっと疑問だっただけ」
多恵は言い訳がましく早口に言った。
「まあね。どこかへ行く必然性がないなら無理に出かける必要はない。でも今はちょっと状況が違う。学校がないのが大きいね。学校だって別に行かなきゃいけなかったわけじゃないけど暇つぶしにはなってた。毎日の行動が特に定まらないなら起点になるベースも必要ないってだけだよ」
「よく、わからない……」
視線を落とす多恵に、葉月は苦笑して立ち上がった。
「まあいいよ。今日のところはとりあえずおじさんとこへ帰ろうか。美玖、ゴミ捨てておいで」
美玖はこっくりとうなずくと、そばのゴミ箱へぱたぱたと駆けていく。
「おじさんとこ、実は居心地悪いとか?」
他人の家だからやはり遠慮があるのだろうかと多恵は尋ねてみたが、葉月はあっさりと否定した。
「べつに。こちらが遠慮する筋合いじゃないし」
「ふうん」
「誰のおかげで、あの家を維持できてるのかってことだよね」
葉月は意味深に笑ったが、説明はしてくれなかった。戻ってきた美玖の手を引きながらなんのこだわりも見せずに多恵にじゃあ帰ろうかと言った。
「美玖はどっか行きたいところある?」
美玖はきょとんと顔をあげたが、思案するように首をかしげている。
「海に泳ぎに行くのはさすがにまだ早いかなあ」
「じゃあ、やま」
「ふむ、まあ悪くない提案だ。観光マップみたいなの駅にあるかなあ、なければ本屋でも行こうか。別に近場に限るわけじゃないんだし、ね」
複雑な胸中の多恵のことなど知るはずもなく、葉月は夕飯のおかずでも話すように気軽な口調で計画をたてていく。
多恵はぎゅっと指を握った。足元がおぼつかないような不安な気持ちがするのはなんでだろう。
葉月と一緒に家を離れた時から、もう戻るつもりはなかった。そして今出てきた時と何も変わらず多恵のそばには葉月がいて、美玖もいる。彼らは別の町へうつるにしても、ちゃんと多恵を人数に入れてくれていた。
不安に思う要素なんかないはずなのに、どうしてこんなに心臓がドキドキするのだろう?
当初伊豆へきたときの多恵の考えとしては、このまましばらくこの町にいて落ち着いたら、それから生活拠点を手に入れ、アルバイトを探したりするものなのだとばかり思っていた。
なのに葉月はあっさりとこの町での生活を捨てようとしている。飲みかけの缶ジュースを捨てるより簡単に。
彼には経済力があり無理に働く理由がない。だから生活の拠点となる場所も必要ない。それだけのことだ。
そして共に出てきた多恵もそういう生活に変わってしまっていた。それをまだ多恵が知らなかっただけだ。自分はただ、二人についていけばいい。離れないように。
多恵は一度だけ眼を閉じ、それから前を向いて葉月と美玖の後を走って追いかけた。不安など気づいていないふりで。
熱が下がったとはいえ、おさまらない咳とよどんだ膿のようななんともいえないけだるさを身体に押し込んだまま野田敦は駅のホームに立っていた。
雨上がりの朝は足元から冷えが立ち上ってくるほど寒い。
敦としてはもう一日くらいは学校を休ませて欲しかったが、運悪く期末試験前で三年にあがるときの考課に響くらしいという噂を聞きつけた母親が許してくれず登校のいたりとなったのである。
さすがに駅までは車で送ってもらえたが、通勤通学で混みあうホームで敦を守ってくれるものはなにもなく、ぼんやりする体を支えてマフラーに顔を埋めたまま電車の入線アナウンスを聞いていた。
コートのポケットに突っこんだ右手で肩に食い込むショルダーバッグのベルトを直そうと身じろぎして、ふと敦は目を上げてどきりと心臓を止めた。
「!」
それはほんの一瞬だった。すぐに目の錯覚だとわかった。向かいのホームの先頭に立つ男が、やわらかいたっぷりとしたベージュの生地を使ったダッフルーコートをまとった葉月文人に見えた。
立っていたのは背格好が似ているだけの、全くの別人で着ているものもよく見れば葉月の好みとは少し違うようだった。
反対側のホームに電車が入ってくる。敦は白い息を吐いた。
銀色の下りの電車。その窓際に。
登りの電車より多少だが混み合っていない車内でドアにもたれて本を読む、葉月文人が、いた。
敦の視線に気づいたように、彼は本を閉じて顔を上げる。
けれど今度は心臓は騒がない。
ずっと会いたいと思っていた。
(学校に)
行かなくては、とこんな時でも考えている。
反対側の線路に、葉月がいるのに。
敦は静かに電車が去っていくのを見送った。
きっかけがなんだったのか、葉月にはわからなかった。どういう仕組みでそこにその力が存在し、そして発現するのか、それすらも知らない。
それは当たり前のように葉月のそばに生れついてずっとあったものだ。
彼の生まれた家には昔からそういう力に恵まれた人間が必ずおり、みんなで守り育てていくものなのだと誰かに教わるより前に知っていた。
葉月自身にはたいした力はなかった。無いことは悪いことでもない。それもあたりまえのことだった。
あ
たりまえに生まれついたのだから、だからこそその力に恵まれた子供を大事にしなくてはならない。そういうことだ。
美玖が生まれる時、葉月には誕生前から自分が守らなくてはいけない子供であることがわかっていた。だから自分に出来る限りそのようにしてきたつもりだ。
お昼をすぎて、何日もうっそりとたれこめていた灰色の雲はようやくぽたりぽたりと雨粒を落とし始めた。
美玖はベッドに横になって朝から眠っていたし、多恵はもう二時間近くバスルームを占拠している。
十二月も終わりに近づいて外に出るのも寒く、ましてやいつ雪に変わってもおかしくないくらい冷え込む日なので買い集めたバスボムを試すのが楽しいらしい。
多恵は天気と同じくらいこの数日不調そうだったが、今朝はひどく機嫌がよかった。
天気と多恵の気分を気にする美玖もほっとしてるのか、くうくうと子犬のように丸くなって寝息をたてている。
ヒマをもてあまして、葉月はなんとなく手帳を開いた。ずっと以前に、なにをそんなに書くことがあるのかと多恵にからかわれたことがあるが、移動しなければ移動しなかったとただ記入するだけだ。
とりあえず一行ペンを走らせて、ふと葉月は手を止める。
「あっ、と」
「ざーんねん!」
背後に人の気配を感じて手帳を押さえた時にはもう遅かった。バスルームをようやく解放した多恵が葉月の手帳を奪って楽しげに笑っている。
「あはは、返して欲しくば要求を飲め」
「んー、とりあえず聞くだけ聞こうか。交渉の窓口を閉じる理由はないからね」
「そうだねー、うーんなにをしてもらおうかなあ」
「今から考えるんだ」
葉月は肩をすくめたが、多恵は首をかしげて真面目に思案している。
「美容院行きたいかなー」
「ああ、行ってくれば?」
「帰りにケーキ買いたい」
「いいね、僕にカフェラテ買って来て」
「あとはー、そうだなあ」
「欲が深い犯人だね」
「そりゃあもちろん」
葉月が呆れた声を出しても上機嫌な多恵は気にしたふうもない。
「この手帳の焼却、もつけてもらおうかな」
「へ? なんで?」
意外な要求に葉月は瞬いたが、多恵は理由を説明しなかった。
「というか、そもそも交換条件になってなくない? その手帳を返してもらう条件なんだから」
「そっか」
多恵はあっさりとうなずくと、興味を失ったようにぽいと葉月に投げてよこす。受けとめて葉月は苦笑した。
「で、なんで焼却を?」
「べつにー、深い意味なんてないけど。葉月が毎日毎日ちょこちょこ書いてるから。葉月の持ち物でずっと持ってるものって他になくない?」
「そうかな」
葉月は多恵の意図をとりあぐねて首をひねる。
「まあいいけどね」
そう言って多恵は最近お気に入りのベージュのマフを首に巻きつけた。
「自分が生きてるかどうかなんて、別にそんなの書いてなくたっていくらだってわかる方法があるのにね」
「まあそうだね」
葉月が苦笑いすると多恵もにっこりと笑った。
「じゃあ行って来ようかな」
笑って多恵がベビーピンクのコートを羽織った。
「これ」
いつのまにか美玖が起きていて、四角いピンク色のひらべったいものを多恵に差し出していた。
掌にのっているのが携帯だとは、最初葉月は気がつかなかった。家を出て来て長いこと多恵が携帯を取り出すことがなかったので失念していたのだった。
多恵はちょっと意外そうに睫をぱちぱちとさせて美玖と携帯を見比べていたが、ありがとうと受け取った。
「探してたの」
多恵は嬉しそうにぎゅっと携帯を握る。
「あれ、なくしてたの?」
「……ううん、ふふふ、一度捨てたの。ずっと後悔してたんだよね。ありがとう美玖ちゃん」
多恵は携帯をコートのポケットにしまうと、美玖の頭を一度抱きしめそして今度こそ軽い足取りで部屋を出て行った。
美玖が少し困った顔で葉月を見る。
「どうした?」
尋ねると美玖は眉を寄せて何か痛みをこらえるような顔をしたが、よくわからない、とつぶやいた。
「そっか」
でも、多分美玖もわかっているのだと葉月は思った。
もう多恵が戻ってこないだろうということを。
「どうしてかなあ」
美玖がぽつりとつぶやく。
「わたしたちのこと、もうきらいなのかな」
「……どうかな。多分、違うと思うけど」
年下の従妹を慰めるつもりではなく、本心で葉月はそう答えたがかといって今は好かれている気もしていなかった。
「うーん、とりあえずなんか食べようか。おなかすくころだろ」
葉月は追及することをせず、手帳をテーブルに戻すと従妹をうながし部屋に備え付けのミニ冷蔵庫を開く。
牛乳が残っているのでシリアルを食べてしまうか、菓子パンとお湯をわかしてスープくらいだろうか。
簡単な食事を二人ですませ、どのくらいたったころだろうか。もし多恵に戻るつもりがあるならばそろそろだろうかと考え始めた頃、まず廊下の向こうがざわつくような気配がした。
美玖もなにか感じたのか、不安そうに見上げてくる。お互いにまずなんとなく部屋の電話に視線をやってしまったのは家にいた当時のクセだろうか。
葉月はすぐに部屋を出てみることはせずまず窓を開けた。広い道路が下に横たわっているが車の動きは少ない部屋にしたので事故というわけではないと思ったし目視ではなにも見当がつかなかった。
それでもぽつりぽつりと通行人が足を止めてホテルの裏側を注目しはじめているのがわかる。
いやな予感がした。さっと目の前が黒く塗りつぶされたような違和感。
「美玖」
葉月はとっさに名前を呼んだ。美玖は立ち上がって葉月のすぐ後ろにいた。
ぎゅうっとセーターの端を握って来て、小さく震えているのが振動でわかった。
美玖は蒼ざめて、大きな目に不安をいっぱい湛えているが葉月と目があうとゆっくり被りを振る。
なにも、見えないということだ。
それが何を意味しているのか、葉月にはすぐわかった。弾かれたように窓を閉じて離れると迷わずクローゼットを開いてカバンを引きずり出した。
いつもなら、不要な荷物は置いていく。大事なものなんて、ほとんどないのだから。
しかし今日はそういうわけにはいかない。葉月は片っ端からカバンに荷物を放り込んだ。
「美玖」
もう一度呼びかけると美玖はこっくりとうなずくと、部屋の片づけを始めた。手当たり次第に乱暴なパッキングをしたので十分程度で完了した。
葉月は慎重に部屋の中を点検するとまず美玖を外に出し、非常階段から荷物と一緒におろした。
そして自分ひとりだけでチェックアウトをすませる。この頃には外には消防車や救急車のサイレンが鳴り響き、交通整理のマイクロフォンが野次馬整理を呼びかけてずいぶんな騒ぎになっていた。
冷静さの皮をかぶりきれないホテルマンからはたいした情報は聞き出せなかった。葉月は急いで野次馬をかきわけて、非常階段で待つ美玖を迎えに行く。
荷物は全部駅のゴミ箱に投げ捨てた。
一緒に行動することを避けて、バスと電車に別れて乗り継ぎを何度か繰り返し隣の町へうつったのはもうすっかり日も暮れてからだ。
フロントで店員と顔をあわせなくて良い安いラブホテルにひとまず入ると葉月は落ち着きを取り戻すどころか、逆に自分の見下ろした両手が震えていることに気がついた。
薄暗い部屋の中で電気をつける気力もなかった。葉月はベッドのふちに座ったが、美玖も色を失ったまま足元のカーペットの上にぺたりと腰をおろしている。
葉月が途中で買ってきた水のペットボトルを口に運んでも、ほとんどがあごと首を濡らして垂れて落ちるばかりだった。
「……テレビ、点けてみて」
ようやく声をかけると美玖はのろのろと動いてスイッチを入れた。夕方のニュースは隣の町で起きた死に軽く触れたけれど、あたりまえだが葉月が知りたいことにはまったく言及されるはずもない。
美玖は生気のない顔で視線を落としてぼんやりとしていた。
どうしてこんなことになったのだろう。多恵は、どうして。
美玖が携帯を差し出した時、葉月は彼女は帰るのだと思った。彼女の家族や友達が待つ場所へ。
それを止めるという思考は葉月には一切なかった。だから見送ったのに。
美玖には、自分にかかわることはなにも見えない。そして取り出したものについて理由や関連を知ることもない。
ここに長くいることはできない。だからこの先自分たち二人がどうなるのかわからない。
逃げては来たけれど、剥きだしの裸のまま放り出されたようなものだった。
混乱したまま葉月はベッドに横たわり、しばらく眠った。
目が覚めても体が泥のように重かった。
「美玖」
相変わらず部屋は薄暗く、テレビはにぎやかに笑っているが余計空虚に感じるばかりだ。
時間がわからないまま従妹に呼びかけると、美玖はさっきと同じ場所にいてゆっくりと顔を葉月へと向けた。
「多恵ちゃんは、どうして」
小さな声がそっと部屋に落ちた。
「……多分、自分が生きてるってことを知りたかったんだと思うよ」
葉月が答えると、美玖はただ視線を落とした。
「どこへ行こうか」
返事を期待しない問いかけに、美玖は静かに笑った。
葉月はゆっくりと手を伸ばした。細い頼りない首へ。
美玖はそのまま眼を閉じた。葉月が指に力を入れると、美玖は一筋だけ涙がこぼした。