5
「三十八度五分。一体昨日はどこを歩き回ってたの」
体温計を一瞥した母親があきれたように言った。
文句を言い返してやりたいのだが、喉がひきつれるばかりでうまく言葉が出てこない。
常日頃の敦は風邪をひきこむことはあってもすぐに学校を休んで薬とベッドのお世話になるので熱をだすことに慣れていなかった。
朦朧とした頭はもやがかかっていて、考え事の一つもできはしない。母親がまた何かを言ったようだったがそれすら聞き取れず、再び意識はゆっくりと闇の中に沈んでいく。
また夢を見るのかもしれない。それは敦の子供の頃のことだったり、中学時代だったり、少し前までの多恵や葉月たちとすごしていた時間だったりした。敦が知るはずもない、旅に出た後の三人の姿も見たような気がした。
彼らは笑っていた。楽しそうに。
本当に彼らがそんなにのんきに笑いあっていたのかどうか、手帳から読み取ることはできなかったのに敦の願望なのか彼らは本当に愉快そうだった。
あの五月の日。葉月が家を出ることにしたと告げた時を思い出す。
敦はおどろいて声も出なかった。馬鹿げたことだとわかっていたのに、引き止める言葉すら。
けれど多恵は違った。即座に一緒に行くと言った。なんの迷いもなく、まっすぐに。
いや、多恵自身は自分をそう思っていたかもしれない。一緒に行くことに迷いはないと。
けれど敦から見れば、多恵が本当に迷わなかったとは思えない。迷いがなかったのではない。なんの考えもなかっただけだ。目先のことしか多恵は見てなかった。
だから自分の生活から離れることの意味がわからなかった。捨て去るものの大きさを。 ただ、彼女を縛る日常を捨て去ることだけ、そしてだいじな友人のそばにいることだけを思っていた。
それはもちろん、彼女と自分との日常の差には大きなへだたりがあることはわかっている。多恵自身は決して口を割ることはなかったけれど、誰の目にも一目瞭然だった。
体から消えることなく増えていく生傷。多恵は身近な――――おそらくは両親のどちらからか、または両方からか暴力をふるわれていた。たとえ片方からだけだとしても同じことだ。
もうひとりの親からは、助けるつもりがないのかあっても助け切れないのかは知らないが見捨てられてることには違いない。
そしてそれは、敦自身にも葉月にも言えることだ。多恵本人が触れないで欲しがっていたことを口実に、圧倒的な暴力の跡に対して口をつぐみつづけた。自分たちも加担したのだ。多恵の虐待に。
その負い目が、多恵の引止めを鈍らせた。そしてその結果が、現在の惨状だ。
多恵は死んだ。自分でビルから飛び降りた? 笑ってしまう。その状況がどうであったにしても殺されたのだ。
殺したのは、一緒に旅をしていた葉月であり、美玖であり、そして引き止めなかった自分自身だ――――。
耳に入る音をよりわけていけば、その中にかすかだが雨音が混じりだしているような気がしないでもない。ホテルのベッドに横になったまま、美玖は右耳に集中するようにわずかに首をかたむけて眼を閉じる。
確かに窓を雨粒が叩いているようだ。美玖は何度か瞬きを繰り返してから大きく目を見開く。黄色と水色のエンゼルフィッシュが鼻先をかすめて泳いでいった。
ゆっくりとベッドに起き上がる。どのくらいの時間が経過したのかわからなかったけれど、夕飯の買出しに出かけた多恵も従兄もまだ部屋には戻ってきてないようだった。
迷子になったように一匹のエンゼルフィッシュが、また美玖の頭のそばを旋回しては去っていく。美玖は手を伸ばした。薄い光が帯のように幾筋も部屋の中に垂れては消える。
美玖は眠る時に夢を見たことがない。そう言うと従兄は目が覚めてても夢を見てるようなものだから一緒だと笑った。そうかもしれない。そうでないかもしれない。美玖にはわからない。
窓に近づくと大粒の雨がガラスを打っていた。激しい降りのようだった。
(まず、カーテンをしめてへやのでんきをつけよう)
(雨がふります雨がふる)
(いま戻るとずぶぬれになっちゃうねー)
(電話で迎えに来てもらおう)
(かさのお忘れ物が多くなっております)
(いやでもおうちであそびましょう)
自分の思考と、どこか遠くの声がまじりあい、自分が何を考えていたのかよくわからなくなるのはいつものことだ。脳の中に反響する声たちをさえぎるように、美玖はカーテンを閉じようと指をのばしたが、その手元にさっきのエンゼルフィッシュが泳いできた。
薄暗かった部屋に光の帯が幾重にもおりてくる。そしてひらりひらりとエンゼルフィッシュが一匹、二匹。どんどんと増える。あれ、と思うまもなく美玖はどこかの水槽の中にいた。水藻がゆらゆらと光に揺れて綺麗だ。
美玖は嬉しくなって一緒に泳ごうと体をまわした。ネイビーブルーのスカートがふわりと舞うように体全体が重力から解き放たれて自由になる。
美玖の足はいつのまにか尾ひれになり一けりでぐうっと前へ進む。天井へ、床へ。思うがままに美玖は部屋の中を泳ぎ続ける。エンゼルフィッシュたちがお供だ。
くるり、くるり。水槽は美玖の動きをはばむほど狭くはないが、ターンが上手に決まるのが楽しくて、美玖は何度も進行方法を変える。そのたびに視界に入る尾びれが光を弾いてきらきら輝くのが嬉しかった。
「ああああー、また負けたああああ」
次は深く沈みこんでみよう、そう思った瞬間叫び声があがって美玖はびくりと体をこわばらせ両目を大きく見開いた。ぷちんと鼻先でシャボン玉が割れるように、あっけなくたやすく世界は壊れる。
気がつくと携帯ゲーム機を片手にもった多恵が、悔しい悔しいとベッドに横になったままニットのワンピースからのびた足をばたつかせている。美玖はぼんやりと瞬きをした。
「なんならもう一戦やってもいいけど?」
美玖の向かいの椅子に座った従兄がゆったりと笑っている。美玖はまばたきを繰り返した。窓の向こうは銀灰色の薄い雲が太陽の弱弱しい日差しを受けて光っている。
そういえば昼を食べてからずっと二人は、先月買った対戦ゲームにはまってずっとプレイしていたのだった。美玖は状況を少しずつ把握しながら理解する。
「うー、やだ。もう違うのやろ」
多恵の声は、すねていても明るい。
「いいけど別に」
でも、と従兄は時計に目をやった。
「先に夕飯の買い物に行っておこうか」
そうだね、と多恵が賛成して立ち上がる。寒がりの彼女はショートブーツを履いて、そのうえにコートも羽織った。
「美玖は?」
一緒に行くかと訊ねられて、美玖はゆっくりと首を横にふった。
「じゃあ留守番しといてね」
多恵に笑いかけられてうなずいた。そして思い出して、折りたたみの傘を取り出して従兄に渡す。葉月はちょっと窓の外へ視線を向けたが、黙って受け取った。
「いってらっしゃい」
美玖が声をかけると、多恵は笑って手を振る。二人が電気を消して出て行くと、室内は再び急速に色をなくした。雨はあまり好きではない。世界が薄暗く、肌寒く、ひどく静かで、そしてひとり閉じ込められる気がする。
明るい光が好きだ。日差しでも、月の輝きでも、人工灯であっても。
だから、多恵は好きだ。彼女のまわりには色があり、光があり、音がある。
きっと多恵自身もそうなのだろう。雨が降ると、多恵は少し元気がなくなる。最初の頃は気がつかない程度に。けれど今ははっきりと多恵の心が沈むのがわかった。
なれないんだよ、と葉月は言う。朝に学校へ行き、夕方家に帰る。それをあたりまえに考えて暮らしていた人間が枠組みを失ってまだうまく順応できないのだと。
それが簡単になじめる人間もたくさんいるが、多恵はそうではない。だからなれ
るのを待とうと。
もしなれる日が来なければ、彼女は家に帰らせてあげるからいつかお別れが来るかもしれないと従兄は言った。それは構わないと美玖は思う。
お別れは、いつも身近にある。美玖にとって誰かに出会うことはいつも常に別れることだった。誰も自分の側にずっといる人間はいない。母もそうだったし、たくさんの人があらわれてはすぐにどこかへ去っていく。
ずっと離れないでいてくれた父親ですら、そうだった。彼がどこへ行ったのか、今何をしているのか美玖には見えない。
けれど二度と会えないことだけは、わかった。それはあの施設を出るのだと父親が言ったときに直感のようにわかっていた。
けれど美玖は嫌だとはいわなかった。別れることが最初から決まっているのだから自分が何を言おうとそれは抗うことができないただの事実なのだ。
そう遠くなく、多恵も自分たちから離れていく。わかっている。それは止めることができないし、止めてはいけない。
けれど従兄はどうだろう。美玖には自分の存在に関することにはなにも視えない。なにも呼び出すことができない。そして彼にもなんの直感も働かない。
けれどわかるのは、最後に彼がいなくなることがあれば、物理的金銭的なことも大きいが自分の世界はもはや間違いなく崩壊するということだ。
未来におののく気持ちがないではないが、どれほど心を凝らしても、耳をすましてみてもなにも視えない聞こえないのは変わらない。
美玖はそっと息を閉じ抱いた膝に顔をうずめる。しかしさっきまで広がっていた水の世界はもう戻っては来ず、ただ目を閉じた。
「あれ?」
頭上を走るレールの上を、轟音と嬌声を連れたジェットコースターが猛スピードで走りぬけ多恵の呟きをかき消した。
多恵は携帯の液晶を見つめて瞬く。表示される文字が理解できない。日差しがまぶしくて画面で光が反射しているが、それくらいで見間違えるはずもない。
(どういうこと?)
家を出た日から十日ぶりに携帯の電源を入れたが、壊れてるわけではない、と思う。
観光地の遊園地は平日だと言うのに、ぽつぽつと家族連れの姿を見かける。カラフルなパラソルのテーブルには遅めのお昼を食べる親子で半数が埋まっていた。そんな家族から届く明るい笑い声が多恵には急にボリュームを下げたように感じられる。
多恵にはあまり友達と呼べる数はあまり多くはない。けれど敦のように人見知りはしないし、葉月と違って誰にでもすぐ話をあわせて楽しくやれるおかげでメールや電話の相手に事欠いたことはなかった。
多恵はもう一度受信メールの確認をする。家族にも何も告げずに急に家を離れたのだから、事情を知っている敦を含めてなにか誰か連絡をしてきていてもいいはずだ。
いや、これは連絡がないのとは違う。
多恵は胸の内側を冷たいものでなでられたような気もちで唇を噛んだ。
やはりセンターに問い合わせできませんでした、というメッセージが映し出されて待ち受け画面に戻る。今まで気がつかなかったけれど待ち受けの二本足で立つ猫の画像の上に表示されるアンテナは本数表示でなく圏外という漢字だ。
街中ではない。けれど山奥の遊園地でもあるまいし、駅からもそう遠くない場所でいまどき?
あたりを見渡せば多恵と同じキャリアとは限らないが、携帯を使用している人は何人もいる。そして多恵の携帯キャリアはユーザー数一位を喧伝していた。
「どういうこと?」
答えは明白なのに、認めたくなくて多恵は今度は音声に出して呟いた。
「なにが?」
焼きそばの皿をのせたトレイを片手に、葉月がいつのまにか戻ってきていて多恵をのぞきこんでいる。多恵は急いで携帯を閉じた。
すぐそばのメリーゴーランドが耳慣れた童謡をおもちゃ的な音楽で演奏しながらくるくると回っている。アナウンスのお姉さんがマイクを使って、柵の向こうで見ている親に手を振れと子供たちに声をかけていた。
「ううん、べつに」
「なんか嫌な知らせ?」
葉月は座らず心配そうに多恵をのぞきこんだ。表情を読まれるのを嫌って多恵が軽く首を振る。おろした髪が肩ではねた。
「ううん全然。そんなんじゃないんだ。普通に友達からメール」
「そう? 顔色、白く見えるけど……」
「日差しの加減のせいでしょ。それより美玖ちゃんは?」
「あれ、置いてきちゃった」
「ちょっと葉月」
多恵がにらむと葉月は苦笑してトレイをテーブルにのせた。さっき三人でハンバーガーを食べたばかりなのに焼きそばは皿にてんこもりになっている。
「連れてくるけど、大丈夫? 多恵」
「うん全然。それより早く行って」
美玖を迎えに、ではなく、早くどこかへ行って欲しかった。少しひとりになりたかった。事態を噛み砕いて飲み込むには誰にも近くにいてほしくなかった。
それでも笑みを作って多恵が言うと、気がつかず葉月は指をひらひらと振ると人の波をかきわけてまたメリーゴーランドのほうへと歩いていく。
くるくると回転木馬まわりながら上下する。乗ってる子供は二、三人しかいないのでほとんどの馬が空っぽだ。
泳ぐような葉月の背中が遠ざかるのを、多恵はぼんやりと見つめた。
家を出てきたのは、自分。
葉月がしばらく留守にすると言った時、引き止める敦を無視して無理にでもついていくと言い張ったのだ。
葉月と美玖が心配だったから。
嘘だ。
本当はずっと、もうあの家に戻りたくなかった。出て行きたいのは葉月じゃなくて自分のほうこそだと思ったから。
だからチャンスだと思ったのだ。
多恵は家がずっと嫌いだった。おしつけがましくて、痛みを強制する、うるさいばかりのあの家が。
捨てたのは、自分のほうだ。家を。そしてそこに付随する家族を。
なのに、どうして今自分はこんなにショックを受けているんだろう。
(お父さんとお母さんは、わたしを捨てた)
多恵が持っている携帯を解約したら、もう連絡を取る方法は向こうにはなんにもないのに。それなのに。
(いらないんだ、やっぱり)
いらなかったからずっと、わたしは。
泣きたいのではない、全身の水分がどっかに消えてしまったみたいにからからに渇いている。涙も、血もどっかへいってしまった。だから目がしばしばする。そして指が冷たい。
「知ってたけどね……」
片手にソフトクリームを持った美玖が葉月に反対側の手を引かれてこちらへ戻ってくる姿が人の肩越しに見えた。
多恵はじりりと焦げつくような気持ちで無意識に唇をかむ。
もう、多恵に帰るところはない。もはや彼らだけが多恵の仲間だ。
もともと戻るつもりなんて、なかったはずだ。
多恵は細く息を吐き出した。衝撃もようやくやわらいで、呼吸も自由に出来る。大丈夫だ。
気を取り直した多恵はぎゅっと携帯を一度握って、それからヒップバッグのポケットに押し込んだ。使い道はないが、時間はわかるし電卓にもなる。敦の連絡先を失うわけにもいかない。
「ごめんごめん」
テーブルに戻ってきた葉月は、おいてけぼりにした美玖にではなく多恵に笑って謝罪した。
「もう、ちゃんと気をつけてよね。ソフトクリームが欲しかったの? 美玖ちゃん」
「ちょうど他の子たちが何人も並んでて、ずーっと店員さんが次々くるくる回して作ってるのに興味を引かれたみたいだよ」
一生懸命ソフトクリームをなめている美玖のかわりに、葉月が答えた。
「ふうん」
葉月はぱちんと割り箸を割って冷めかけている焼きそばを食べている。多恵は呆れながらなにげなく視線をあげた。
すっきりと空は晴れ上がって、これからまもなく梅雨が来るとは思えないほど青い。多恵は目を細めた。ぐるりと園内を回って来たジェットコースターがまた頭上を駆け抜ける。
「あたしもなんか買って来ようかな。かき氷とか」
多恵はすぐに気を取り直して立ち上がる。
「あ、いいね。僕も欲しい」
「え!」
「ブルーハワイね。練乳いらないから」
驚く多恵に、葉月は涼しい顔で注文をつける。
「本気~?」
「もちろん」
葉月がにっこりと笑った。
「いいけど~、おなか壊したりしないでね?」
「大丈夫だよ」
大丈夫。ほんとに?
衝動的に口をついて出ようとした言葉は唇で霧消した。多恵は自分ではなく別の人間に動かされるように笑った。
「おーけー。じゃあ行ってくる。待っててね」
大丈夫。多恵は繰り返して、走り出した。
夕方になるとようやく敦の熱が落ち着いて来て、仕事から戻ってきた母親がおじやを作って運んでくれた。
ベッドの天板にクッションをたくさん詰めてもらって背中をもたれさせながら、敦は身を起こして座っている。ゆっくりと手を動かして、レンゲですくったおじやを口に突っ込んでも何の味もしなかった。
それでも食べないと薬が飲めないので、敦は機械的に手を上下させておじやを食べる。
ひどいめにあった。死ぬかと思った。まだ視界と脳の外側に白濁したベールみたいなものをかぶせられてるような感覚が残っているが、この後もう一眠りして朝になればもっと楽になっているはずだった。
敦はおいしくもないおじやを全部食べきると、一緒に持ってきてもらってあるグラスの水で解熱剤と風邪薬を一気に口に放り込み飲みくだした。
器をトレイごと天板にのせてしまうと、昨夜読みながら眠ってくしゃくしゃにしてしまった青皮の手帳を手に取る。
葉月のメモには脈絡も統一性もない。細かに天気や気温などまで書いてある日もあれば、意味不明な一言だけだったりする。それがどういう理由によってなのかはきっちりとした文字からは何も読み取れない。
最後の日は十二月二十六日だ。年末クリスマスの翌日。それはおそらく、多恵が死んだのが二十七日だからだろう。
さすがの葉月も多恵を死なせてしまった後に書き記せる言葉はなにひとつなかったらしい。
二十六日の記述は簡潔だ。
『雨。雪なら良かったかもしれない』
もしかなりの大雪が降っていたとしたら彼らの足止めになっていただろうか。どういうつもりで葉月文人がそう記したのかはわからないが、敦も同じように思う。
それとも少し日にちがずれるだけで多恵が死んでしまうのは変わらなかったのだろうか?
敦は肺の底から熱い呼気を吐きだす。やりきれない衝動にまぶたを閉じそのままずるずると背中からベッドに沈み込んだ。
もう学校には来ない、と宣言して教室のゴミ箱に教科書を全部捨てた葉月はそのとおり全く登校せずそのまま退学届けに必要な書類をすぐさま取り寄せた。。
退学手続きを行うためには必要書類に保護者の印が必要になるわけだが、葉月は自分で叔父の印鑑を押した。
「書類偽造~」
淡々と書類を作る葉月に隣に座って見ていた多恵がちゃかしたが、葉月は肩をすくめただけだった。
「別にやめる必要なんかなくね?」
できる限り平静を装って敦も声をかけたが葉月は首を横に振った。
「やめる必要もないかもしれないけど、通う必要もないから」
元々葉月の喋り方には抑揚がない。感情的になることがないが、それでも今日はやけに乾いて響いた。
「高校卒業の資格が欲しければ、他の方法もあるしね」
付け加えられた台詞に、敦はぐっと詰まる。
「えー、でもでも多恵ちゃんと同じ学校に通えるのは今だけだよ?」
多恵がテーブルにのせた両手に顎をのせた姿勢のまま葉月を見上げる。葉月は瞬いて、苦笑した。
「べつにこうして毎日顔合わせてるじゃない」
「それはいまあたしたちが学生だからでしょー? 卒業しちゃったらどうせ全員ばらばらになるわけだしさー」
「そう、どうせいずれはばらばらになるわけだよ。ね」
にっこりと葉月が笑って、多恵もしかたなさそうに黙った。確かに葉月はみんなと同じようなペースで学校へ行き進学や就職を考える必要はないのかもしれない、と本心では二人も知っているのでそれ以上に説得する言葉を見つけられなかった。
「――――修学旅行、北海道だよ?」
ちらっと目をあげて多恵がもう一度だけ口を開いた。
「そりゃ個人でも行けるだろ」
「もう敦はどっちの味方なの!」
ついうっかり自分の本音をこぼしてしまって、敦は多恵から盛大に抗議を受けるハメになった。
「い、いやだってなあ。修学旅行は……ってそもそも中学の修学旅行も葉月来てないじゃん」
「あれ、そう言えばそうだ。長野行ったんだよねー」
そのまま多恵は修学旅行の思い出話に突入したが、微笑して聞いている葉月もとっくにミミタコな内容ばかりだ。
葉月はさっさと書類を完成させると机の上でとん、と揃え用意されたA4封筒にそれらをしまいこむ。
「担任か校長にでも、そんな嫌なこと言われたわけ?」
家の中でするな、と戒められていたにも関わらず思わず敦は口にしてしまった。
葉月は無言で視線を敦に向けた。怒りでもなくただ勁い拒否だけがそこにはあり、それが葉月の返答だった。
「まあねー、学校やめたからって友達じゃなくなるわけじゃないしー。基本葉月が校内にいないだけで、後はなんにもかわんないよね」
封筒をとじるためのノリをテーブルでコロコロと転がしながら、多恵が諦めたような声を出す。
「そういうこと」
多恵に向き直った葉月の表情はもういつもどおりに戻っている。敦は気分を削がれてソファに背中を預けた。何故家の中で呼び出しの話をしてはいけないのかさっぱりわからない。
美玖に聞かせたくないのかもしれないが、当の本人はこの場にはおらず、上の階で昼寝をしているのだから耳に入ることはないはずだった。
敦は息を吐いた。彼女がこの家に来てから、なんだかおかしなことばっかりだ。未来が見える? 必要なものがその手から出てくる?
確かにそれらしい品物のいくつかを美玖が敦の前でも取り出しはしたが、けれどそれがなんになるのだと言うようなチャチなものばかりだ。
葉月は美玖を追ってくる人間を非常に警戒しているが、敦もおそらく多恵もこの家を訪ねて来る間も帰りもそれらしい人影のひとつも見たことがない。
敦はふと目をあげる。入り口近くのキャスターにコードでぐるぐる巻きにされて投げ出されたままの電話が目に入った。
それは、ほんの思いつきだった。ただほんのわずか、スイカに振りかける塩程度の微量の好奇心と嫌がらせが混じっていたかもしれない。
敦は喋っている二人の後ろをすいっと通り抜け、電話をつかむ。
「だめ」
小さな声がした気がした。そのままケーブルをモジュラージャックに突っ込んだ。
とたんに。
電話がピリピリと呼び出し音をかき鳴らす。ボリュームはしぼってあったがそれでも敦は心臓に直接打ち鳴らされたほど驚いた。
「わ、な、なに! どうしたの!」
電話を落としそうになった敦に多恵が丸い目をさらにまんまるくして呼びかけた。
動けない敦に構わず手の中で呼び出しベルは鳴り止まず、葉月がすばやく立ち上がってケーブルを引っこ抜くまでずっとイライラとこの家の住人を呼びたてていた。
「どうしたの」
間近で問うて来た葉月の顔には純粋な驚きと、不審が浮かんでいた。
「や、悪い……。……ライブのチケット買うのに、フリーダイヤル……携帯から繋がらないの思い出して……」
血の気が引いたままだろう唇は、それでも勝手に動いて言い訳をつむいだ。
「そっか、うちのからは無理だね。家に帰るまで売り切れないよう祈ってなよ」
葉月は疑わず頷いた。
「びっくりしたー。なになに、なんのコンサート行くの?」
胸をなでおろしながら、多恵がテーブルに両肘を突いたまま立っている二人を見上げてくる。敦は適当なアーティストの名前を挙げた。
「うーん、知らないなあ。今度CD貸してよ」
「……ああ、うん」
敦はあいまいに頷いて、元の場所に座り直した。毎日のようにこの家に押しかけて来ているが、電話が鳴ったのを敦はこれまで一度も聞いたことがない。
たまたまだ、と理性はそう言っている。葉月はいま学校に行っていない。教師なりクラスメートなり心配してかけてくる人間の一人くらいいないとも限らないし、それがこのタイミングだったとして何もおかしいことはないのだ。
敦が気を取り直して、なにか飲み物をもらおうかと再び立ち上がりかけたその時、戸口にいつのまにか美玖が立っていた。
誰にも気づかれずに、ひっそりと。
さっき手の中で電話が鳴り出した時と同等に、心臓がどきりと跳ねた。
「あれ、おはよー美玖ちゃん」
多恵がのんびりと声をかける。美玖ははにかんだように笑って中に入ってくる。
たまたま、だ。と。敦はもう一度思った。昼から眠っていた美玖が、目を覚まして降りてくる。これこそ、電話よりたまたまのタイミングに違いない。
小さな子供だ。それなのに、どうして自分は落ち着かない気持ちがするのだろう。……。