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 敦は息苦しさに体を反転させる。制服のシャツとズボンのままでベッドに倒れこむように横になり、手帳を見ながらいつの間にか眠っていたらしい。関節があちこち痛んで、そして熱い。

 

 普段しなれない運動をしたせいで、風邪をひいてしまったのかもしれない。

 薄目を開けると部屋の中は真っ暗だ。さっき妹が来た気配があったが、その時電気を消してくれたのだろう。

 ついでに起こしてくれたら良かったのに。いまさら起き上がって着替えなどできそうになかった。

 

 敦はベッドの上でうなる。どのくらい声が出たのか、自分自身では定かではなかった。いったい何時なのだろう。

 誰か起きている家族がいて、自分の様子に気づいてくれるだろうか。

 全身が熱いのに、鳥肌がたつほど寒い。そばに毛布がないか手で探ったが、それらしい感触にふれることはなかった。

 

 学校を休んだ翌日は、葉月はきちんといつもどおりの電車で学校に来ていた。敦もバスがちょうど良い時刻に駅についたので、多恵と葉月の二人に合流することができた。


 いつもの時間のいつもの車両のいつもの場所に、葉月はいた。


 美玖は家でひとり留守番をしているといっていた。車内での葉月は昨日とは違って、本当に普段のままで、そのまま再びいつもの日常が戻ってくるのだと敦は疑いもしなかった。おそらく多恵もだろう。


 けれど葉月が登校したのはその後たった四日間だけだ。

 土日をはさみ水曜日の朝、担任に呼び出された葉月は校長室へ行き、その後まったく何の授業に出ることもなく放課後まで解放されることはなかったと人づてに聞いた。


 心配した多恵がまたしても休憩時間のたびに敦の教室へ来ては騒いだが、敦になにかできることがあるはすもない。


 全ての授業が終わった放課後、校長室のドアが正面からよく見える図書室の前の中庭で多恵とじっと待ったあの時間はイライラするほど長く、そしてつらかったのを嫌というほど覚えている。

 

 敦はベッドの中でなんとかならないかとよじるように力を入れてみたが、熱いだけのかたまりになった体は1ミリていどしか動かない。

 

 あの日、ようやく校長室から解放された直後の葉月の無表情な顔は紙のように白かった。

 多恵ですら話しかけることを一瞬ためらったほどだった。

 その四日前が、気楽にそれなりにすごせた日の最後なら、このときが葉月が学校に来た最後だ。

 

 葉月は教室に一度戻っていつものように教科書類をすべてカバンにしまった後、ふと気がついたようにカバンごとゴミ箱に捨てた。教科書も、参考書も、ノートも、筆記用具も、学校からのおしらせといったようなプリントにいたるまで。


「ど、どしたの葉月!」

 びっくりして大きな声を出した多恵にも葉月にっこりと笑った。

「もういらないんだ」

 手ぶらの葉月はそのまま脱靴場で上履きも捨てて、学校を出た。


 敦はぼうぜんとしつつも、一度だけご乱心、と冗談めかして呟いてみたが多恵も葉月も耳にすら入れてはくれなかったようだった。


 まともに会話が成り立ち始めたのは、地元の駅に戻ってからだ。

 詳しい話をしてくれたわけではないが、匿名の電話が学校に葉月が未成年のみで暮らしていることを報告してきたのだといった。

 多恵はそれだけのことなのかと不思議そうにしていた。自分も同じような顔をしていただろう。


 保護者がいないことが公になれば、その時点で所在の知れなくなっていた叔父を探そうと公的機関が動くのではないか。敦はそう期待したが、葉月はしばらく無言で前をにらんでいたが、やがて首を横にふった。


 それがどういう意味だったのかはわからない。詳細をたずねようにも、短い会話は家につくまでの間だけで葉月にうちの中でその話はするなときつく言われたからだ。


 けれど家にたどり着いてからも、葉月は学校での話をしなかった。

 にこやかに美玖の相手をし、敦をからかい、多恵と冗談ばかりを言いあっていた。


 そしてそれきり、葉月は学校と縁を切った。

 敦はいまの自分とその時の自分と、何も変わっていないような気がして胸郭から重く熱い息を吐き出す。

 

 断片的な情報を葉月から直接聞くか、こうして葉月が残したメモを読んでいるだけか。それだけの違い。


 聞きたいことが、たくさんある。どうして学校だけでなく家まで出て行かなければならないようなことになったのか。

 いや、そんな過去のことはいい。

 

 知りたいのはその後だ。三人で旅に出た後、何を考え、何を思い、何があったのか。どうしてあんなことになったのか。

 こんな手帳の走り書きではなにもわからない。伝わらない。

(おまえには止められなかったのか)

 自分になにもできなかったことを棚に上げ、敦は朦朧とした頭で友人に呼びかける。

 

 教えて欲しい。今どこにいるのか。何を考え、何を思っているのか。そして、これからどうする?

 葉月と、美玖と。きっと二人でいるのだろう。お前たちはどこまで行くつもりなんだ。

 もちろん聞いてもまた、敦にはなんにもできないのかもしれない。

 

 けれど、今度はもっと本気で、死ぬ気で考えるから。これ以上取り返しがつかないことが起きる前に。

 葉月も聞いてほしいから、この手帳を敦によこしたのではないのか?


 だからまずは、出て来い。




「うわわわわわ、葉月ブレーキ! ブレーキってば!」

 真っ青に晴れ上がったすっきりした空の下、自転車のタイヤは絶好調に回っている。

 あまりにも早いその回転に不安を覚えた多恵の初夏の空に不似合いな悲鳴が大きく響いた。 

 

 多恵は自転車の後部タイヤの軸に足をかけて立ったまま、つかんでる葉月の背中を小さなバックパックごとばしばしと叩く。


「できたらやってるって!」

 ハンドルを握っている葉月もペダルを踏みしめたまま振り返ることもできずに叫び返した。

 自転車はすでにこぐ必要はなく坂道の勢いに乗ってひたすらに加速をつけてゆき、するすると山道を軽やかに走りおりてゆく。

 

 サドルに座って従兄の腰につかまっている美玖は、来るべき事態にそなえて体を固定させている。

 長く雨さらしになったまま道端に放置された自転車が無事に動いた時は多恵も手を叩いて喜んだが、奇跡はどうやら二度は続かなかったらしい。


「やだやだやだ。まだ死にたくない」

「だいじょうぶ」

「うーん、まあ、死にはしないね。うん」

 多恵は動転しながらも、この微妙なバランスを崩すきっかけにはなりたくなく、舗装されてない砂の道を葉月が上手にハンドルをさばくのをただひたすら祈るように見守るばかりだった。


 道の両脇に立ち並ぶ木々が、飛ぶようにすぎてゆく。傾斜はそこまで急直下ではないのだが、多恵にしてみればシルクロードなのかと思うほど、どこまでも終わりなく長く続いている気がした。


「大丈夫だって。終わらない道はないから」

 多恵を元気付けるためにわざと言ってるのか葉月が軽口を叩く。

「まあ、どんな終わり方するかはわかんないけどさ」

「ちょっと!」

 冗談めかした台詞が続いて、多恵はその背中を強くひっぱたいてやりたい衝動にかられたが、ここはぐっと我慢するしかない。

 真ん中にはさまれた美玖がおかしそうに鈴の音のような笑い声をもらした。


「もう、のんきなんだから二人ともー。やめてよ玉のお肌にもういまさら瑕なんてつけたくないんだからさ」

 久々の好天で気温は昼に向けてうなぎのぼりに上がっている。吹き抜ける風のおかげで今は汗をかくほどではないが、車輪が止まればむわっと蒸し暑さを感じるだろう。


 天気予報を見て多恵はノースリーブのキャミソール、美玖も同じくノースリーブのワンピース姿で出てきてるので、転倒したら場合によっては片腕丸ごと擦り傷だらけになりかねないのだった。

 

 もちろん半そでTシャツの葉月だって怪我はまぬがれないだろうが、せっかく家を離れたのに痛い思いなんて二度としたくない。


「いっ! ひああああ」

 ずっとなだらかな道とはいかないようで、急に車体が深く沈んでそれから跳ね上がる。ふわりと内臓が浮き上がったのを感じる。

 多恵は自分の悲鳴を聞きながら、着地の衝撃に耐えた。

 さすがに美玖もこれには驚いたようで眼を丸くして多恵を振り返り、そしてまた笑った。


「こわかったあ、マジびびったよ葉月!」

「ごめんごめん。言おうと思ったらもう飛んでた」

 相変わらずのんきな声が前方から戻ってくる。


「あ、えっとねえ」

「なに?」

「もう一回飛ぶから、今度は飛び降りて」

「……は?」


 同じトーンで続いた文章は、けれどとても不穏な言葉で思わず多恵は尋ね返す。この友人はさっき跳ねた衝撃で脳も揺れてしまったんだろうか。

 自転車のスピードはさっきからちっとも変わってないのにどうしろと言うのだ。


「説明してる時間はないから。せえの、でね。美玖もいいね。タイミングずれたら死なないとは言えないから気をつけてね。行くよ?」

「ちょ、ちょっちょっと葉月」

「――――せえの!」

 

 あわてふためく多恵を無視して、号令があたりまえのように落ちてくる。仕方なく多恵は覚悟を決めて走り続ける自転車を蹴りつけた。


「きゃああああああああああ」

 悲鳴をあげたのは怖かったからではない。単にかけ声みたいなものである。

 さすがに猛スピードで坂道を駆け下りる自転車から飛び降りて華麗に着地とは行かず、道に膝と両手をついたがそれでも一応無傷の範囲である。

 よろめく体を支えている間に、多恵は自転車が何かにぶつかって大破するような音を聞いた。

 

 顔を上げると反対側にうまく着地したらしい葉月が、地面に転がっている従妹に手を貸して起こそうとしている。

「だいじょうぶ、美玖ちゃん!」

「ああ、大丈夫大丈夫」

 びっくりして声をかけると、本人ではなく葉月が返答した。どんな根拠があるのかと疑わしく思っていたが、美玖は起き上がらず葉月はそのまま隣にすとんと腰をおろす。


「どしたの?」

 心配になって近寄ったが、美玖は大きな両目にぽかんと空の青をうつしだしてぼんやりしていた。

 かがみこんだ多恵に、美玖が断片的ながら言葉を返した。


「きれい」

「ああ、うん。そうだね」

 雲ひとつない夏の空を、美玖はただ見上げている。


「多恵こそ、平気?」

「うん。やっぱキャミ失敗! って思ってたけど下がクロップドパンツで良かった。脛までだからなにがあっても怪我防止とはいかないけど、少なくともスカートと違ってどんな時でもパンツ丸出しになることはないもんね」

 多恵は真剣に答えたのだが、葉月は少し呆れた顔をした。


「そこなの?」

「そこなの! ねえ、美玖ちゃん。美玖ちゃんも無事でよかったね」

 断言して多恵は美玖に同意を求めながら、自分もそのそばに座った。涼しく風が吹き抜けて緑がさわさわと揺れるが、乾いた地面は砂っぽくほこりを巻き上げる。


「さーてここからどうするかな。自転車無事かな」

 葉月はやれやれというように肩をすくめてから、ちょっと前方をあおぎみるようにする。

「あ、そうだ。さっきの結局なんだったの」

 聞くと葉月は無言で来た道を指をさす。多恵は立ち上がって見に行ってみたが、道はへこみというより地割れに近いほどえぐられていた。


「うっわー、怖い。なんかあったのかな地震とか、台風とか?」

 多恵が自分の両肩を抱くようにして誰にとなく言った。

「どうだろうなあ」

 あいまいに答えた葉月もよっこらしょと勢いをつけて立ち上がった。そのまま前方の木にぶつかってこけている自転車へ歩み寄っていく。


「とりあえずパンクはしてないな」

 ハンドルを持って起こしながら、あちこちを検分している。

「チェーンが外れてるくらいかな」

「なおりそう?」

 多恵は今度は葉月のそばへ近づいた。後ろから膝を曲げて一緒に自転車をのぞきこんでみるが、もちろん手伝いなどできる知識はない。


「どうかなあ。俺、あんまりこういうのって苦手というか……これまでやったことないし」

 バックパックをおろすと葉月はスパナを取り出した。さっき美玖が空間からスパナを出した時には、多恵はもちろん葉月も疑わず長年放置されたままとおぼしき自転車のカギを壊すために使うのだと思っていた。


「まっさかこの場でメンテするためだったとは……」

 意外、と多恵が呟くと葉月が苦笑する。

「まだまだわからないよ? この後一宿一飯を求めてどこかの家に押し込み強盗するための武器なのかも」

 葉月がいたずらっぽく目をあげて、多恵は吹きだした。


「それこそムリムリ! こんなスパナ一本じゃ、葉月なんか返り討ちにあうのが目に見えてるよ」

「そうかなあ。俺だって死ぬ気でがんばれば老人くらいなら」

「なーにいってんの。いまどきの高齢者はみんな元気ですよ。そもそもがんばれないから葉月なんじゃん?」

「それもそうだなあ」

 葉月は納得したようにうなずいてペダルを手で回す。一度ははまったと思ったチェーンがまたからんと音をたてて外れた。

「む」


「死ぬ気でがんばれー」

がっかりと肩を落とす葉月に、多恵は茶化した声を投げた。

「おー」

 やる気のない声が返ってくる。笑いながら多恵はまた美玖の側へ戻った。飽きもせず彼女はまだ空をながめている。


 のんびりとした時間だった。多恵は息を吐き、今度はやわらかい草の上に座った。かたわらの木が影を作ってくれる。

 この後葉月が自転車をなおせないようなら、また三人で歩き出さなくてはならないのだろう。


 昨日、三時間に一本しかない電車を景色に興味をひかれてうっかり降りてしまって以来ぶらぶらと歩いていたが、いつの間にかなんにもない山の中に入り込んでしまった。


 遭難というようなレベルではないが、そろそろ現状自分たちがどのあたりにいるのか知りたい気がしている。

 とはいっても多恵は方向感覚もなければ地理や地名にもうとく、ここがどこだという駅標を見ても、葉月に説明されてもいつもぴんと来ないのだがそれでも知ると知らないでいるのとはえらく違うのだ。


 そのあたりはやっぱりこの二人と自分の違うところだ。なにごとも気にした風もない美玖はともかく、葉月はわかればわかったにこしたことはないようだが、わからないからといって調べようという気はないらしい。


 ここがどこだろうと、前へ進もうが右へ曲がろうがどっちにしても変わりはない、と葉月は言う。

 確かにそのとおりだ。多恵はじんわりとにじみでる額の汗を軽く指でおさえた。


 葉月に言われれば、納得するのだがけれど自分はどうも凡人というか小市民なのか時々まだ不安になってしまう。

 時間もそうだ。もう家に帰らなくても良い。そんな日を自分はずっと待っていたしそのために一緒に出てきたのに。


 なのにまだ、夕刻になるとどこかそわそわして落ち着かなくなる。帰らなければ、考えてしまう自分がいるのだ。

 どこへ。自宅へ? 帰ってどうする。というより帰りたくなんか、ない。帰るところはない。ないのだ。


 多恵にとって自分の家は帰るべき場所ではなかった。帰らざるを得なかっただけだ。まだ未成年だったから。


 だからどんな体の痛みにも心の傷にも耐えてきた。ようやく解放されたというのに、どなのにうして自分はこうなのだろう。向こうだって、多恵のことなんて必要としていないのに。


 急に鎖が外れた囚人みたいなものだろうか。いつか鎖の重みなんて最初からなかったみたいに気にならなくなるだろうか。

 そうしたら。


「ちょっと休憩」

 チェーンに手を焼いている葉月がバックパックを片手にこちらに戻ってきた。多恵の横に腰をおろすと、すっかりぬるくなったお茶のペットボトルとタオルをこちらによこす。


「ありがと」

 朝開封しているため残り半分ちょっとくらいなのでちびちびとだいじに飲んだ。

「そういえばおなかもそろそろ空いてきたし、なんとかしないとやばいよねー」

 なだらかに下る坂道は見えている限りはずっと山の中だ。


「大丈夫だよ、多分。そんなずっと山の中さまようなら美玖はスパナじゃなくて遭難セット出したと思う」

 心配する多恵をはげまそうと思ったのか、葉月は真剣な顔で言った。

「え、うん、そうかもね」

「というより、そんな迷子になるような道なら選択しないはずだから大丈夫」

 まじまじと見つめられてたじろぐ多恵に葉月は吹きだして付け足した。からかわれたことに気がついて、多恵は盛大に怒ったが葉月は笑っているばかりだ。


 不意に美玖が体を起こす。

「ごはんたべたい?」

「え? まあもうちょっとしたらなんか欲しいかな」

 戸惑いながら返事をすると美玖はにっこりと笑った。

「あっち」

 指を指すのは木立の中だ。美玖はそのまま歩いていく。

「くるまの音がする。もうすぐ」

「お、いいね。乗せてもらおう」


 葉月がすぐに従妹の提案にのって立ち上がった。そしてそのまま扱いかねていたスパナを草むらにめがけて弧を描くように放り投げる。

「あ、待って待って」

 あわてて多恵もバックパックにタオルとお茶の残ったペットボトルをしまいこんで続いた。


 今はまだ、この生活に慣れたとはいえないけれど。きっと次の季節がめぐってくるころには自分も順応しているはずだと思いながら。



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