3
「やっぱおかしいよね?」
多恵が大きな声を張り上げつつ真面目な顔を近づけて来て、敦は食べかけの焼きそばパンを喉につまらせそうなほどぎょっとして身を引いた。
屋上へつながる非常階段の踊り場はそこで立ち入り禁止の通行止めなので他の生徒たちの姿はなく二人だけだ。そのせいだけでもないが、多恵の声は遠慮なくよく通る。
「あ、ああ、まあね」
不意打ちにドギマギしている敦を多恵は怪訝そうに眉をよせたが、今はとりあえず追及しないことにしたらしい。
「家にもずっと何回も電話してるんだけど、全然出ないし。たとえ葉月が家にいないにしても美玖ちゃんがでるんじゃないかな?」
多恵はさびた手すりに両腕をかけてもたれながら首をかしげた。相変わらず眼帯のふちのあざが青黒く残っているというのにたった一晩でその下の頬骨のあたりにもすれたような傷が増えている。
「まあ、おかしいっちゃおかしいかもしんないけど。そんなこともあるっちゃあるんじゃないか?」
「ないよー! あたしや敦ならともかく、葉月だよ?」
敦が中庸的な台詞を口にしたところ、多恵はかっとなったように振り返った。
多恵のいらだち含みの心配は、葉月文人が今朝いつもの電車に乗ってこなかったことからはじまっている。
駅までのバスの時刻がその日の道路の混み様によって変わってしまう敦が、朝必ず葉月と同じ電車に一緒に乗るというのは不可能に近い。よっぽど早く家を出ていて葉月が来るのを待てばできるだろうが、そんなことをする意味もない。
なので敦は会えたらいいねくらいの心積もりだが、駅から家がすぐ近くの多恵はほとんど同じ電車で登校する。
多恵はともかく、葉月の一日の行動は登校時間に限らず家に保護者がいない高校生とは思えないほど学校がある日は常にと言っていいくらい几帳面にハンコで押したように繰り返されていた。
敦からしてみれば奇特以外のなんでもないが、葉月は風邪はおろか熱くらいなら誰もいない家に転がっているより保健室で寝てる方がマシだと学校へ出て来くる。
自分がまだ生きてるかどうかの確認を、自分ではない誰かがしてくれるならよっぽどか楽だと言うのだ。敦には一人暮らしの経験がないのでそんなものなのかとは思いはしてもまったく実感できない台詞ではある。
なんにせよその葉月が今朝はいつもの電車のいつもの車両に乗りこまなかった。そこから多恵は何度も葉月家に電話をし、HRの後はもちろん授業の合間に何度も遅刻して来ていないか確認しに教室へのぞきに行ったらしい。
そして今も昼飯もそこそこに敦を引っ張りだしてこんこんと心配を述べている。
「はー、友達甲斐があるねー。葉月泣いて喜ぶぜ」
「敦……」
いつもならこの程度の冗談、憤慨してみせても軽く流す多恵の目つきは、今日はマジだった。
「心配じゃないの?」
「うーん」
「昨日の今日だよ?」
「昨日の今日だからこそってのもあるんじゃ?」
「どういう意味?」
「イトコいかにも着の身着のままって感じだったろ? いろいろ着替えとか必要なものもあるだろうし。週末までとりあえずありものでなんとかってわけにいかないだろうから買い物とかさ。またはおじさんとやらに連絡ついたとか」
「そりゃあ……」
敦が説明すると多恵はぐっと詰まって唇を噛んだ。口元の古傷がひきつっていたが特に痛みはないらしい。
「でも朝の八時半とかに買い物は早すぎじゃない?」
「まあ、そうかもしんないけどさ。買い物とも限ったもんじゃないだろ」
「うん。そう。買い物ともおじさんと連絡がついたとも、そしてなんかあったのかどうかともわかんないんだよね」
低い声で呟くと多恵は意を決したようにうなずいた。
「やっぱ決めた。あたし先に帰るね敦」
「お、おいって」
言うなり敦を置いてさっさと立ち去ろうとする多恵の手首をあわててつかむ。
「なにがやっぱなんだよ」
「だって、ここでああでもないこうでもないってうんうん考えたって答えなんて出ないじゃない」
「まあそりゃそうだけど。それにしたってさ」
わざわざ残りの授業をすっぽかさなくても、あと二時限もすれば下校時刻になるのだ。
「べつに敦につきあえって言ってないでしょ。あたしはもうこれ以上机に向かってたって勉強なんてちっとも頭に入らないよ。英語の小テストだって散々だったんだから」
「そりゃ昨日おまえが勉強しなかったからだろ」
「集中できてたら少なくとも白紙では出さなかったよ!」
「……そりゃあ」
ご愁傷様という台詞を飲み込んでいる間に、多恵はせっかちにも敦の手を振りほどいて進もうとする。
「待てって」
「待てないよ」
顔を上げた多恵の眼帯をしていないほうの目がきらりとつりあがって敦をにらむ。ひるまないぞと敦は自分に言い聞かせながら言葉を探した。
「だから、さ」
「なに?」
「えっと」
多恵はいらだち半分呆れ半分に敦を待ってくれていた。
「だから、あの、俺も一緒に行くよ」
迷いながらそう申し出ると、多恵は一瞬ぽかんとした。それからゆるゆると尖っていた瞳がやわらぐ。
「こまったもんだねえ」
おおげさに芝居がかって多恵が肩で息を吐いた。
「友達甲斐がありすぎて、葉月きっと泣くよ?」
「うるさいよ……」
多恵は陽光がはじけるように明るく笑った。
「いこ」
我ながら度し難いと思いつつ、教師やうるさいクラスメートにみつからないようカバンを持ち出すとさっさと電車で地元の駅まで戻った。
多恵は電車を待つ間と、着いた後ホームから改札へあがるちょっとの時間をみつくろってまた葉月に電話をかけていたがやはり誰も出ないらしい。
「出かけてるだけなら俺ら行っても空振りだよな」
自動改札を抜けながら思いつきを口にすると多恵は少し敦をバカにする表情を浮かべた。
「それならそれでいないから電話に出られなくて学校にこれなかったんだなってひとつ安心するでしょ」
「そうかもしれないけどさー」
一つ心配をつぶせば、どうして突然でかけることになったのか他の心配が増えるだけではないのだろうか。
「敦って心配性ー」
くすりと多恵が笑う。
「おまえに言われたくないんだよ」
「なんにせよここまで来たんだからガタガタ言わないっ」
「ガタガタ」
「あー、もうほんっとうざい。置いてくよっ」
多恵が足早に歩くのを追いかけながら、敦自身も葉月を心配していないわけではない。
けれどのんきな性格のせいか、多恵がここまで心配している理由がぴんと来ていなかった。
一緒についてきたのは、敦の不安よりなにより多恵の杞憂を笑ってやるつもりなのが大きかったのだった。
葉月の家のそばまで来ると、昨日しめられたままカーテンは閉ざされていた。中に誰かいるのかいないのか一見しただけではわからない。門もいつもどおりきちんと閉められている。
多恵が鉄門に手をかけた。そのタイミングで、ドアが内側から開かれた。
「お早いおつきだね、二人とも」
「葉月!」
当たり前といえば当たり前ながらドアを開けたのは葉月文人本人である。紺色に白い細線が入った長袖のシャツを着て特に顔色が悪いわけでもなく変わった様子はなかった。
思わず敦と多恵が大声で仲良く名を呼べば、葉月は苦笑する。それもいつもどおりだ。
「とりあえず早く入って」
言いながら葉月はちょっと首をのばし外を確認するようなしぐさをした。それだけが普段どおりではなかった。
多恵は猫の子のようにするりと中に入り、敦も続いた。
「もう心配したよ葉月ってば」
「ん?」
葉月は首をかしげている。
「休むの珍しいし、家に電話しても全然でないし!」
「えーっと」
二人を招き入れた後葉月はカギをかけなおしチェーンをしっかりと閉じた後内カギもしめた。
「うちの担任には一応連絡してあったんだけどな。家の事情で休むって」
「え」
葉月の返答に多恵がぽかんとする。
「まさかおまえ……」
間の抜けた顔をねめつけながら、敦は溜息をついた。
「そういえば先生とは全然話さなかったなー。あははは、盲点だった!」
「そりゃ赤点とるはずだよ」
「それでうまいこと言ったつもり?」
「べっつにー」
睨まれた敦はそ知らぬ顔で肩をすくめ奥の部屋へ入る。美玖がいるものと思っていたのに誰もいない。二人が来たので隠れたというより元々ここにはいなかったようだ。
「俺も携帯もとうかな。こういうとき不便なもんだね」
「え」
今度は敦がぽかんとする番だった。葉月の台詞がそれだけ晴天のへきれきだったのである。これまでどれだけすすめても、必要ないからの一言で終わらせていた葉月が自分から携帯の利便性に気づいて、なおかつ所持しようかと言い出したのである。
「今からもてば、番号俺が教えた人からしかかかってこないもんね」
「まあそうだけど。急にどしたの?」
多恵が首をかしげながら、ソファにとすんと腰をおろす。敦もテーブルの脇に座った。
「んー」
葉月はあいまいにうなりながら、台所へ一度消えた。敦がなにげなくリビングの電話に視線を向けるとコードが抜かれてまきつけてあった。
「なんかあったの?」
戻ってきた葉月は手に二つマグカップを持っている。ポットのコーヒーをいれてきてくれたらしい。白い無地のマグカップを受け取りながら多恵がたずねた。
「まあ、ちょっと」
「イタ電とかか?」
敦も言葉をにごそうとする葉月から白いマグカップを受け取りながら重ねて質問をした。
「そんなとこかな」
表情の読み取りにくい笑みを葉月は浮かべている。
「でも無理か。未成年じゃ多分契約できないよね」
葉月は少しくたびれたように息を吐くと、やわらかそうな髪を軽くかきまぜる。そしてソファの手すりにもたれるように座った。
「未成年はつらいな。あと三年ちょい、か」
「あははは、葉月かなり弱ってる」
隣の多恵が遠慮なく笑ったが、葉月はただ笑っているだけだった。
「そういえば美玖ちゃんは?」
「上にいる」
「ありゃ寝てた?」
あわてて多恵が口をおさえながら声をひそめたが、いまさらという気もする。しかし葉月は首を横に振った。
「いや、そういうわけじゃなくて。服、着れるものないか探してたら二人が来たから」
「へえー。てか買いにいったほうが早くない? 敦は買い物いってて電話でないんじゃないかって予想してたんだよね」
「うーん」
多恵の提案に葉月は気乗りしなさそうな声であやふやに笑う。
「女の子の服買いに行きづらいならあたしが美玖ちゃん連れていってあげようか?」
「多恵と美玖とで? うーん、どうかなあ」
「なによ、かっわいいの選ぶよ?」
「いやいや、そういう問題じゃなくて。あんまり出かけさせたくないかな。今は、まだ」
やんわりと断る葉月の顔を見ていると、敦の胸中に昨日から気にかかっている萌芽がむくむくと根を張って育っていく。
「なんか昨日誰かさんのおかげで話がとちゅうでぐだぐだになっちゃった感じだけどさ」
敦はそんな二人を見ながら切り出したがすぐに不満そうな多恵が唇をとがらせて身を乗り出す。
「誰かさんって誰よー」
「自分じゃないと思うならとりあえず黙ってろって。また話が骨折するだろ」
「ぶー」
不満そうに多恵はうなったがそれでも一応口をつぐんでソファに背中を預けて座りなおす。
「そのとき、おまえイトコ追われてるみたいなこと言ってたけど、もしかしてマジなわけ?」
ズバリと訊ねると当の葉月より多恵が物言いたげに表情を動かしたが、さすがにコシを折らないようにする配慮はあったらしい。
「うん、まあ、そうなのかな。まだ誰か直接家に来たりとかはないんだけどね……」
葉月は言葉を選びながら慎重に口を開いて、ただ、と付け足した。
「叔父さんがまだ来ないのが……」
敦と多恵が合計三つの目をみあわせる。そして敦が口を開いた。
「どういうこと? そんなスペシャルな宗教なわけ?」
その昔大々的にニュースで報道された宗教がらみの事件以外にも、ひっそりと拉致だの監禁だのそういうきなくさい話を敦も聞いたことがないわけではない。
「あ、でも、葉月んち資産家だもんね」
多恵が思いついたように指を打ち鳴らす。確かに両親がいない葉月はもちろんのことその後見人たる施設に住み込んでいるという叔父も働いてる様子はないが、金銭に苦労している気配はなかった。
「なるほど」
珍しく多恵にしては良い意見を述べたように思われて敦は思わずうなずいたがすぐに首をひねった。
「あれ、んなら別にイトコは関係なくないか?」
人の家の資産運用なんて知るはずもないが、未成年の葉月は自家の財産といえど自由にすることはまだできず名目上とはいえ後見人の叔父を置いて自宅にいる。
美玖にも財産があったところで葉月以上の年少者だ。父親さえ押さえておけばその資産もどうにでもできるというものではないだろうか。それとも美玖の場合は母親が管理しているのだろうか?
「関係なくはないよ。というかお金なんかじゃなくて、いちばんは美玖自身を必要なんだと思うんだよね」
「どういう意味?」
多恵が怪訝そうに眉をしかめる。
「美玖は未来のことが少しだけどわかる。ほんとにささいなことだけどね。来客をあてたりとか、急に崩れる天気がわかったりくらいの。多分評判の占い師のほうがバンバンいろんなことを手に取るように当てれるんじゃないかな。その程度なんだけどさ」
説明してくれる葉月が少し疲れてみえるのは、電話の線を抜かなければならなかったというイタ電のせいなのか、やって来ない叔父への心配なのか、はたまたこの説明に倦んでいるのか。敦には判断がつかない。
「ああ、なるほどねー」
それでも多恵は納得したように大きくうなずいた。確かに敦にも心当たりがあった。
「さっきもだけど、昨日も葉月はデリバリーが呼び鈴を鳴らす前にわかってたもんね」
「それだけじゃないだろ」
敦は葉月を見る。葉月はにっこりした。
「へえ、敦記憶力いいね」
「バカにしてんのか」
「褒めたんだよ」
「え、どういうこと?」
コンビニに寄り道してたために、ひとり話の流れをつかめない多恵がきょとんと葉月と敦を見比べる。
「家に来たとき、イトコは手にタバスコを持ってた。それはオレらがピザ頼むのをわかってたからだ。だからおまえはわかったんだ。イトコが来るべきして来たってことが」
そして、と敦は付け加える。
「わかるだけじゃなくて、取り出せんじゃないの?必要なものが」
「すごいね、敦」
やわらかな笑顔で葉月は敦の半信半疑の推理を肯定した。
美玖はその後敦にピザのチラシを手渡したのだ。テーブルのそばに座ったまま、いつのまにか。
「うわー、すごい。超能力だ」
多恵はぱちぱちと手を叩いている。
「小テストの解答とりだして欲しかったなあ」
どこまで本気なのかはわからないが、多恵はそういうのはできないのかと葉月にたずねている。
「さあ、本人がどこまで自覚的にやれてることなのか俺にはさっぱり」
「ふうん、便利なのかそうじゃないのか微妙なとこなのかなあ」
肩をすくめる葉月に多恵は真面目な顔つきで首をかしげた。
敦も先ほどの、美玖自身を必要としているだろうという言葉にようやく納得した。
どのくらいの規模の団体なのかは知らないが、美玖が自分の意思で持てる力を操れるのならば、そうでないにしても使い方によっては葉月家から引き出せる金額よりはるかに多くのお金をしぼりとることができるのだ。
「でもさ、葉月だいじょぶなの?」
不意に声を落として、多恵が心配そうに眉間をよせる。
「イタ電もそっからかかってきてる予想なんでしょ? そうでなくても、昨日からものすごい警戒してるしさ」
「いやいや」
葉月は口元をゆるめて、微笑に似た表情を浮かべた。
「俺が慎重なのは前からでしょ。家もひとり暮らしになってからすぐセキュリティサービスに加入済みだし。イタ電は……まあ、以前からないわけじゃないし」
ただ、と葉月は呟く。
「俺より叔父さんが心配かな。美玖だけ出してなんでおじさんだけ一人残ったのか……。連絡もないし」
「そりゃコード抜いてるからじゃ?」
何を言ってるのかと突っ込むと、葉月は苦笑した。
「電話なんてしてこないと思うよ、おじさんなら」
電話をしてこない理由は説明せず、葉月は短く答える。
「ふうん、美玖ちゃんは?」
「特になにも聞いてないみたいだ」
「そういうのはわかったりしないの?」
「うん。……あんまり身近な身内のことみたいなのは見えないみたいなんだ昔から。見ないようにしてるのかもしれないけど」
見えて楽しいことはひとつもなかっただろうし、と葉月は物憂そうに付け加えた。
「いろいろあるんだねえ」
複雑な話しすぎてイマイチ見えてきづらい内容を、多恵が一言で総括する。ちゃんとわかってんのかこいつはと横目で睨むと、多恵はすまして首をすくめた。
「とりあえずさ、葉月たちはもうご飯とか食べた? あたしお昼食べてないんだよねー。なんかお腹すいちゃってんだけど」
「ああ、そうだね。俺らもなんか食べておこう。なんか頼むかな。……いや、二人がいるうちに買出ししといたほうがいいのかな」
珍しく葉月が迷う目を見せる。結局その日は多恵の希望でファミレスのデリバリーで食事をとった。
葉月のお古のシャツとハーフパンツ姿の美玖も上から降りて来て、それなりに楽しくすごした。
当事者ではない敦にも、気がかりなことはたくさんあった。
葉月の今後のこと。
それに伴って自分や、多恵とのこの先のこと。
けれどそれでも彼らと笑って過ごせた。
最後の日だった。