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するすると細い雨が落ちて来て湿ったコンクリートを再び濡らしはじめると、地上では色とりどりの傘の花が咲く。
窓わくに座って地上を見下ろしていた多恵が、また降りだしたよと葉月に声をかけた。ベッドに座って本を読んでいた葉月は顔をあげたが気のない返事をしただけだった。
「うー、つまんない。退屈」
「じゃあなんか夕飯買って来て」
「それただのパシリでーす」
ふう、と溜息をついて多恵は葉月の隣のベッドへと移動した。こちらでは美玖が赤いギンガムチェックのミニスカートから白い足を伸ばして天井を見上げるようにぼんやりと寝転がっている。
窓を開けることもできない狭い室内に三人が顔を並べているせいか、妙に閉塞的で息苦しく感じられていつまでも続く梅雨のせいだけでなく多恵はくさくさしていた。
多恵にとってじっとりと動かないように感じられる時間をつぶすのが苦にならないこの従兄妹たちと自分は全く違うように思われた。
「まあどうせ、おなかすいてきたから出て来てもいいけどー。美玖ちゃん何食べたい?」
多恵は気を取り直すように大きく息を吐き出すと、わざと大きめの声を出した。 声をかけた美玖は視線を多恵へと動かし、目だけで微笑んだがけれどやっぱり無言だった。わかっている。
長いとはいえない付き合いだが、これだけずっと二十四時間べったり一緒にいるのだから美玖は食べ物の好みを云々することはないことくらいとっくにわかっていた。
それでもあえて美玖にたずねたのは、会話をしたかったからだ。返事を音声にすることがめったにないことも知っていたけれど。
「ちょびっと肌寒いからあったかいものがいいよね」
「あれ、寒かったんならエアコン入れたらよかったのに」
多恵のひとりごとに意外にも葉月が反応して目をあげた。
「エアコンの風キライ。だいいち雨だってのにただでさえなんでか部屋ん中乾燥してるし」
「フロントで加湿器借りれば? 確かここのオプションにあった気が」
「もういい、行って来るからお金ちょうだい」
「ん」
ベッドサイドに置かれたホテルガイドを開きかけた葉月を軽く手で制して、そのまま多恵は掌を差し出した。葉月はとんちゃくなく財布から紙幣を数枚抜くと多恵に渡した。
「葉月は? なんか食べたいものないの?」
「俺はそうだなあ、別になんでもいいけどコンビニいくなら味噌汁も買ってきて。カップのやつ。お湯沸かしておくからさ」
「りょーかい。具もなんでもいいの?」
「うん」
紫地に小さな花を散らしたワンピースの上にコットンのジャケットを着込んだ多恵は足元の小さな冷蔵庫を開けた。
そなえつけのティーパックのお茶だけでは足りないだろうとチェックインの前に麦茶やヨーグルトなどを買ってきていたのだがそれも全部切れている。
「あとはお茶とー、そうだな今日の食後のデザートはプリンにしようかな」
どうせヨーグルトだろうがプリンだろうが食べるのは多恵だけなのだが、あえて音声にして呟く。
「明日にはそろそろまた移動するつもりだよ。だから買う時は残らない量、または残った時持ち運びしにくいものはなるべく避けて……って聞いてる、多恵?」
「聞いてない! やったね!」
ここに滞在していのはまだたったの三日だが、多恵はすっかり飽き飽きしていたのではしゃいで両手をあげた。
しとしとと雨が続くせいか気分もうっそうと薄暗く晴れないでいたのだった。
「多恵、そんなにここやだったんだ」
「うん!」
「そっか、そうだよね。やっぱ俺も一日ならともかくこうも毎晩灰色の男が窓際に立ってこっちをのぞいてると、寝起きには気になるというか気が散るというか……」
「ちょ、なによそれ!」
うんうんとうなずく葉月の肩をつかんで多恵は仰天して叫んだ。
「え?」
葉月はきょとんとして多恵を見る。
「あれ、そのことじゃないの?」
真顔でたずねられて、多恵はいっそう逆上した。
「ど、どどどどどいういういうことよ!」
「日本語で頼む」
「やだやだやだやだ、なんの話よー!」
「多恵、大きな声出すと廊下に響くよ……」
「誰のせいよー! いま出よう。すぐ出よう。早く移動しよう!」
「いやいや、今からじゃ次泊まるとこ探すの面倒だよ? 今日分はもうここに払わないといけないわけだし」
「ネカフェとかでもいいじゃない!」
「そりゃあ、そうだけどさあ……。言われなきゃ気づかなかったんならここにいたって変わらないじゃない?」
おっとりと葉月が言った。美玖が寝転がった体の向きを変えてくすくすと笑っている。
「美玖ちゃんも知ってたの?」
美玖は無邪気な笑顔のままこっくりとうなずいた。
「うらぎりものー!」
「だいじょうぶ」
やわらかく美玖が言い、白い指をのばしてきた。ひんやりとやわらかい手が多恵の手に触れ優しく握る。
「そうそう、大丈夫。なんか変な悪いモノならもっと先に美玖が言ってるから」
葉月が請け負うが多恵は納得いかず二人をじろりとにらんだ。
「わかった。じゃ、これからみんなでご飯を食べに行こう。外でなんかあったかくておいしいもの食べてプリンとお茶を買って帰ろう。ね」
なにをわかったのか知らないが、葉月がひとり頷いて立ち上がる。
「ほら美玖も準備して」
葉月にうながされると、美玖も逆らわずベッドから身を起こした。
「うううー」
「泣かない泣かない」
多恵の肩をぽんぽんと叩くと、葉月は部屋のキーを壁の差込口からキーをつまみあげる。パッと部屋の室内の明かりが落ちた。
「さ、行こう。どうせだから名物的なもの食べてみる? 餃子とか」
「あたし餃子キライ……」
「うーん、じゃあウナギ?」
「もっとキライ!」
「えー」
廊下で葉月の提案にダダをこねる多恵に美玖が小さく微笑しながら戸を閉めた。
普段走るということを学校の体育の授業で強制される以外でしない敦が葉月文人の家にたどり着いた時には、息はとっくにあがり喉は切れて血を吐きそうなほど痛み心臓は耳の中で爆発を起こしてるようにヒートアップしていた。
首に巻いていたマフラーはとっくの昔にはぎとっているのに、紅潮した皮膚の下の毛細血管のすみずみまで熱い血があふれていると錯覚するほど全身汗だくだった。
よろめきながら葉月家のきっちりと閉ざされた鉄門に手をかける。内側からぐるりと鎖で巻かれて簡単に開けることができないようにされている。
あの日、葉月文人が自宅から出かける時にしていったまま、風雨にさらされてサビついて一ミリたりと動いた気配がない。
気軽なしぐさと、普段どおりの笑顔で敦にじゃあまたねといつもと別れる場面となんら変わりなく同じように出かけていった日。
封印だ、と冗談のように言いながら。
郵便受けには無造作に突っ込まれた郵便物やチラシでいっぱいになっている。誰も片付ける人間がいないのだ。
敦は全身の疲労を突然に感じて思わず深い息を吐きながら鉄門にもたれた。
わかっていたはずなのに、失望を感じている。
葉月文人が戻ってきていないことに、まだ戻れる状況ではないらしいこと。忘れていたかったことまで思い出さされてあらためて失意で立ち尽くした。
寒風が敦の体をコートの上から叩いて、急速に熱を奪っていく。疲れ果てた敦はしばらく動くことができなかった。
それでも敦がのろのろと動き始めることができたのは、十五分近くも失望と納得と孤独を苦く味わったあとのことだ。
あまりこの場所にじっとしていると、敦自身が通報されてしまう恐れがある。近所の人目もあるし、葉月は家のセキュリティを解除してないはずだ。
来た時と違って、スニーカーの足を一歩前に踏み出すことすら重く感じられてなかなか家に帰りつかなかった。
自宅マンションに戻ったのはとっぷりと日も暮れきった後だ。両親も妹も全員そろっていたがただいまの挨拶をするのも億劫で、夕飯も断ってベッドに倒れこんだ。
コートはなんとか脱いで床に投げたが、制服はネクタイをゆるめるのが精一杯だった。
敦は寝転がったままカバンから携帯を取り出す。着信はメールが二件。どちらもクラスメイトからだった。
多恵の携帯はとっくの昔に解約されて繋がらなくなっている。それはおそらく多恵の家族が娘がいなくなった後携帯料金を払い続けるつもりがなかったからだろう。
くしゃくしゃの封筒と青い皮の手帳をおそるおそる取り出した。封筒にはエントランスで確認した以上の情報はない。
書かれた宛名の文字も敦には見覚えがなかった。
そして中身。これも今まで誰かが手にしているのを見たことない掌サイズの手帳。
神、そらにしろしめす。
右上がりの悪筆。まだそれほどの時間がたってはいないはずなのになつかしい、と思ってしまう葉月文人の字だった。
はりついて乾いている紙を破らないようそっとめくれば、最初の日付が確認できる書き込みは五月二十八日からはじまっている。
葉月が家を出たのは十六日なので、最初の十二日分が空白のようだった。
敦が関知する限りで、葉月に日記を書く習性はなかった。先の予定やその日あったことを書き残すことはしてなかったように思われる。
もし、葉月が普段からメモを取るのならばこの手帳も元旦から埋まっていたはずだろう。
もっとも、二十七日でそれまで使っていた手帳を失くして新しく買った可能性も捨てきれないが。
ともかく書いてある断片的な内容を数日分読み取ると、どうやら家を出てすぐは葉月の亡くなった両親が懇意にしていた縁戚だか知人だかがいる伊豆のあたりにいたようだ。
別れる時葉月は何も言わなかったが、あてもなく家を出たわけではなくこの人物を頼って彼らは旅立ったのだろう。けれどそれも半月ばかりだ。
なにがあってその地を離れることになったのかは記されてなく匂わされてもいないのでわからない。
追っ手が近づいたような緊迫感もない。それ以前ものんべんだらりと毎日の天気と、海の色、遊びに行った先、たわわに実りつつある白っぽい紫陽花についてが簡単に書かれているだけだった。
六月一日、葉月たちは伊豆急下田の駅で電車を降りそこからバスに乗っている。敦は伊豆半島に行ったこともないし地形にも明るくない。
地図帳があったはずだとベッドから身を起こそうとしたが制服が大リーグ養成ギプスに変わったのかと思うほど重く、そして敦の体の動きのひとつひとつをはばもうとする。
敦は舌打ちをして、ほどいたネクタイを乱暴にそのまま床に放り投げる。そのまま勢いで無理矢理立ち上がりジャケットを脱ぎ捨てると、机から地図をつかんでそのままベッドに再び倒れこんだ。
三人はのんきに、かどうかは知らないが寝姿山の観光を楽しんだらしい。いい気なものだ。
その頃の敦は体育祭の後片付けと、葉月や多恵の担任に毎日のように呼び出されて二人の行方をたずねられて矛先をかわすのにてんやわんやだったというのに。
敦は冷えきっていた身体がまたじんわりと温かみをもちはじめるのを感じる。
翌、二日は寝姿山の展望台から見えた大島へ足を運んでみることにしたらしく港へ行っている。けれど結局船酔いするヤツでもいたのか乗らなかったようだ。
そこから四日、雨もあり足取りが止まっている。彼らはほとんどずっとホテルですごしたようで、温泉がひかれた大浴場を満喫し、しかし残念ながら食事はそなえつけのポットのお湯で作れるインスタント食品か近くにあると思しきファーストフード店のメニューばかり口にしている。
そして六日、ようやく熱海から東海道本線で三島へ移動。熱海三島間は新幹線で一駅だが、急ぐ旅でもないからだろう。それは伊豆から熱海経由で三島へ向かっていることからもはっきりしていた。
敦は少ない言葉から必死になって彼らの足取りをたどる。吐き出す呼気が熱い。
三島ではまず駅で桜えびのおにぎりを買ってから三嶋大社へお参りにいったようだった。
こいつらがどのツラをさげて神頼みなんかしたのかと思えば笑いたくなる。そして当日は三島へ一泊して朝早く再び熱海へ戻ってさらに小田原へ移動している。
効率の悪い旅程だが、目的も期間も関係ないのだからこんなものかもしれなかった。
あたりまえかもしれないが、葉月はこまごまと小汚い字でその日あった出来事については書き付けているがそこに彼らの感想はほとんど記されてない。すくなくとも葉月は日記のつもりではなかったようだ。
彼らが何を感じて何を思い、そして今どうしているのかが知りたい敦にはもどかしく思われてベッドの上でぱらぱらとページを繰る。
七月まで飛ばしてみたが、どれも特別変わったことはない。気温が高くなって夏服を購入しているくらいだ。
そして暑さを避けたのか夜行バスで日本有数の避暑地である信濃へ行っている。本当に行き当たりばったりにもほどがある。
バカなんじゃないの? と言ってやりたいのに、けれど彼らの記録に敦の声は届かない。――そもそもまだ彼らは旅を続けているのか?
敦はぞくぞくと全身に悪寒をおぼえて頭をひとつ振る。その重みに耐えかねた腕が体を支えきれず枕に顔をうずめる羽目になった。
じんわりと目のふちがにじんで視界がゆがむ。走った後汗だくになったままバスに乗り込んだのがきいたのか身体が体温を盛り返して発熱しているようだった。
部屋のドアがノックされたが、敦は答える声を失っていた。何度かノックが繰り返されて不審そうな声が部屋の内側でした。
なんで電気つけたまま寝てるの、と水の中で何かを聞くように遠く響いたのはおそらく妹の声なのだろう。
うるさいよ、と言い返したいのに声が出ない。そうだ、夢を見ているときみたいだ。不条理で納得できない受け入れがたいことが目の前で展開されていくのに、敦は為す術もないうちにどんどんと取り返しがつかない事態になっていく。
いつもいつもやめてくれ、と、いいかげんにしてくれ、とどれほど声を張り上げても誰の耳にも届かないのだ。
早く目を覚まさなければいけない。
これは悪い夢なのだ。
葉月文人の家に、美玖がやってきたあの日からずっと続いて敦を離さない悪夢だ。
早く、早くはやく。気がせくのに指先ひとつ動かない。まぶたを開けることすらできない。
早くしなければ、すぐに取り返さなくては。
失われてしまう。友達が。日常が。
――多恵が。