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序章

 渡部敦はB5サイズの茶封筒を片手に、自宅マンションのエントランスでマフラーに顔をうずめたまましばし立ち尽くしていた。

 普段の彼なら、学校帰りに郵便受けを確認する習慣はない。中学生の妹か、仕事帰りの両親に任せてそれきりだ。

 

 なのにどうしてこの日に限って自ら郵便受けを開いたのか。

 後日、そのときの自分の心の動きを何度もトレースしてみたが判別しなかった。

 

 しかしどちらにしても、この時は自ら郵便受けを開けたのだった。そして中に入っていた自分宛の茶封筒を手に取った。

 宛名と住所は見覚えのない筆跡で殴り書きのように書かれていたが、切手は貼られていない。なので当然消印も押されていない、その奇妙な封筒を。


 誰かがわざわざ敦の住むマンションまで、自ら持ってきたということだろう。しかし、裏返しても差出人の名前は記入されていなかった。

 

 気味が悪い、と敦は思った。

 手に取ったときからぞわりと鳥肌が立っていた。差出人の正体も、意図もわからない。中身を確認するつもりなんてなかった。


 どうせ誰かのいた.ずらか、悪意の固まりだと敦は判断した。エントランスのゴミ箱に捨てて、さっさと上にあがろうと思った。


 大股にゴミ箱に近づいて封筒を落とし込みかけて、けれど――――止めた。

 嫌で嫌で仕方なかった、こんな薄気味の悪いものを受け取るのは。

 それなのに敦があえて開封した理由は。


 後で考えてみればこれ、が敦にとって生まれて初めての、虫の知らせというやつなのかもしれなかった。

 



「なーに書いてるの?」

 電車の窓枠に小さい皮張りのメモ帳を乗せて、ボールペンを走らせていた葉月文人は、対面の席でずっと雑誌を読んでいた多恵に声をかけられて顔をあげた。

 振動で書き込みにくいせいか、知らない間に眉間にしわが寄っていたことに気がついて表情をゆるめる。

 

 こちらを見ている大きな両目がいたずらっぽく輝いていた。傷一つない肌は夏の日焼けもすっかりさめて白い。

 帰宅ラッシュの時間をとっくにすぎた長距離電車の車内は、葉月たちをのぞけば疲れた顔の大人が数人いるばかりで閑散としていた。


「なんだろう」

 目を上げた葉月は、質問をごまかす意図ではなく真面目に首をかしげた。

「ぶ、なにそれ。自分で書いててわかんないの?」

「うーん。日記……でもないけど。おぼえ書きみたいなもんかな」

「ふうん?」

 多恵は薄手のピンクのカーディガンを羽織った上半身をひょいと寄せて前のめりの姿勢になり、葉月の手元をのぞきこんだ。

 メモ帳は一ページが一週間に区切られている体裁で、白いスペースにその日のスケジュールを書くようになっている。

 右上がりの蒼いインクの悪筆は、見せるのも恥ずかしいくらいこまごまとその日の断片を刻んでいた。


「あはは、なにこれ。おとといのとこ。ほぼ一日雨の気配なし、――――は、いいとして。十八時発、美玖天そば、寒いだって。絶対あとで見ても覚えてないよ」

 多恵がおかしそうに笑い声をあげる。葉月は肩をすくめた。

「自分にわかればいいからいいの、おぼえ書きだから。十八時に電車に乗って、駅のコンビニで美玖がカップめんの天そばを買ったけど食べてないからリザーブされてて、この日はちょっと肌寒かったんだよ」

「それ来月になって読み返したら自分でもわかんないから」

 葉月は説明したが、多恵はまだ笑っている。


「それはそれでいいんだよ」

「あはははは、意味ないよー。そんなに熱心に書いてるのに」

 多恵が笑い転げても、彼女の二の腕にもたれて眠っている美玖は全く起きる気配が無い。長い髪が綺麗に整えられ、静かな寝息すら電車が走る枕木の音にかき消されているおかげで、まるで良くできた高級な人形みたいにみえる。


「でもさ、葉月なんでそんなの書いてんの? その手帳二冊目だよね。ずっとそんな内容でまめに書き残してるの?」

「うん」

 葉月は素直に頷いた。

 元々几帳面なタチではない。学校へ通っていた頃は毎日継続して何かをすること自体苦手なほうだった。


「最初のはなくしちゃったんだ」

「へー。日記とか書くタイプじゃなかったのにどうしたの?」

 重ねて問われて、葉月は再び首をかしげた。

 夜の闇の中を滑る電車のモーター音を聞くように。そしてゆっくりと返答をする。間違いを相手に教えないように丁寧に。


「学校行ってた頃は毎日授業とか休みの日とかで、今日が何日の何曜日ってわかるけど今はわりとあいまいだろ。こうやって書き残してたら、自然と今日の日付を意識できるじゃないか」

「それはあるかもねー。終わらない夏休み的な。でも、べつに見たいテレビがあるわけでなし。欲しい本を発売日に手に入れなきゃ気がすまないってわけでもないし。あいまいになってしまっていたって、なんか困ることある?」

 多恵は座席に背中を預け季節外れのサンダルを履いた足をぶらつかせながら言った。。


「いや全然こまんない」

「でっしょー?」

「そうなんだけど」

 決めつけられて葉月は苦笑してメモ帳を閉じた。


 もうすぐ終着駅に着く。今日の移動はそろそろ打ち切って寝穴を探すほうが良いだろう。

 よく眠っているが美玖を起こしてやらなければ、と考えた葉月に感応したようにまぶたが一つ震えて開かれた。

 まだ寝ぼけたような深い色の瞳が、何度か瞬きを繰り返した後ゆっくりと葉月と多恵に視点をあわせてられる。


「あ、起きたね美玖ちゃん、おっはよー」

 時間と状況を全く考慮しない多恵の陽気な挨拶だが、美玖はまだ眠そうに目をこすりながらもこっくりとうなずいて返事をしている。

 二人の会話を聞くともなしに耳から流しつつ、葉月は生前の祖父から譲られた気に入りの懐中時計で正確な現在時刻をチェックした。

 二十二時三十五分。

 今日はちゃんと足を延ばして眠れるところがいいな、と葉月は内心で考える。

 

 懐中時計のフタを軽く閉じれば、パチンと小気味いい音がした。

 そして葉月は微笑して、網棚から自分のカバンを下している多恵を見上げた。

 それから、先ほどの会話に言葉を付けたす。

「でもさ、まだ自分が生きてるってことくらいは、ちゃんと毎日確認しておきたいじゃないか」

 


 敦は破るように開けた封筒の中から、青い皮の手帳を取り出してまじまじとながめた。入っていたのはこれ一冊のみで、他には走り書きのひとつもついていない。

 表紙を見ると今年版のものだとわかるが、それにしてはやけに使い込まれて表面はよれよれだし、中の紙も一度濡れて乾かしたのかごわごわしている。

 

 この手帳には全く見覚えが無い。自分のものであるはずはないし、誰か、友人や身近な知り合いが似たようなものを持っていたかどうかすら見当もつかなかった。

 ますます不審感は増してくるばかりで、敦はやはり捨ててしまおうかと迷った。


 エントランスの入り口は、外から冷たい風が吹き込まないように戸が閉じてあるのに底冷えがして寒い。いつまでもこんなところにいたくはなかった。

 吐きだされる自分の白い呼気を見つめながら、結局敦は手帳を開いた。

 開封してしまったからには、もう見るしかないのだった。


 その一番最初のページ。敦は何気なくページを繰って、そして瞠目する。

 

 いたずらでもなんでもなかった。それは確かに自分宛に届けられたものなのだと、すぐに確信したからだ。

 封筒の表書きとは違う筆跡。白い紙に滑る蒼いインクで書かれた右上がりの悪筆は、敦が良く知った人物の文字だとすぐにわかる。

 手帳を持つ指が震えてうまく次のページが繰れなかった。

 

 敦はとっさに、誰もいないエントランスを見回した。

 この封筒を届けた人物をいまさらながらに探したのか、それともいるはずもない監視を恐れたのかは自分でも判別しない。結果はわかっていたとおり、自分以外ここにいるものはいないという事実を確認できただけだ。

 

 一番最初のページに記されていたのは、いかにも落書きというように躍る文字。


「神、空にしろしめす。なべて世はこともなし」


 敦は、衝動的に外へと駆け出していた。



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