表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/130

第37回 張飛と戯志才

徐州はなぜ追撃の手を緩めたのか

使者・戯志才と徐州牧・張飛の邂逅

第37回  張飛と戯志才


  <地図> 

         鄴(冀州)

_黄河________________

長安  洛陽  陳留(兗州) 東郡(兗州)   


   南陽  潁川(豫州)    下邳(徐州)

  

        汝南(豫州)  寿春(揚州)


 戦争はあくまでも政治手段のひとつに過ぎない。

 自国の利益、国益を産むための選択肢として、武力による侵略は実に直接的なものである。

 対して外交交渉は、決定権を相手に委ねるために、間接的な政治手段と及び腰にとられがちであるが、やり方によっては戦争の数倍の効果をもたらすことがある。

 つまり、ひとりの外交官の活躍が、十万の兵力に匹敵することもあるのだ。


 194年(興平元年)8月 兗州えんしゅうの牧である曹操そうそうと兗州で反乱の旗上げをした呂布りょふ、互いの本陣が東郡とうぐんの地で激突した。


 話はその数日前にさかのぼる。


 徐州じょしゅうの州都、下邳かひ


 前任の州牧である陶謙とうけんから役職を引き継いだ張飛ちょうひあざな益徳えきとくの前に、男が立っていた。


 男の名は戯志才ぎしさいという。


 張飛は知らぬ名であったが、別駕として重用ちょうようしている麋竺びじくは、戯志才のことを知っているようであった。


 彼が名士であるがどうかは別として、問題は戯志才が曹操の代官として訪れていることだ。

 このとき徐州は曹操の侵略によって滅亡寸前であった。

 張飛の武断政治の強行の成果もあって、日和見だった豪族を引きこみ、徐州の正規軍は五万にまで回復していたが、曹操軍を迎撃できるほどの数ではない。兵の質でも相当に劣る。


 張飛は籠城の準備を進めながらも、粘り強く和平交渉を重ねてきた。

 麋竺の推薦を受けて陳羣ちんぐんが外交官として曹操のもとへ向かうのだが、ここまで十数度、門前払いに近い冷遇を受けてきた。

 それがここにきて陳羣の用向きを聞き入れ、代わってこの戯志才を使者として送ってきたのだ。


 秋の刈り入れも終わり、曹操軍の兵糧は潤沢である。下邳攻めはもう目前だった。

 曹操にとって今更交渉を進める必要性などないはずである。


 降伏勧告か……。


 最初、張飛はそう思った。


 広い謁見の間の中央で、戯志才は拝跪の形をとり、使者の口上を述べた。


 「私の役目は兗州牧様と徐州の新牧様の和睦にございます」


 単刀直入に結論から始まった話を聞いて、集った官吏たちがどよめいた。

 交渉の補佐役として呼ばれていた麋竺も唖然としている。

 当然のことである。こちらが一番強く望んでいる未来を敵側が提示してきたのだ。


 まさに青天の霹靂。


 戯志才のすぐ近くで立っていた陳羣などは、その言葉を聞いただけですでに頬を涙で濡らしていた。実現不可能と諦めかけていた臣が大多数な中で、陳羣だけは一筋の希望を信じて和平交渉を邁進してきたのだ。これは夢ではないかと、自らの濡れた頬をつねったりもしている。


 主の席に座り、虎髭をおもむろに撫でていた張飛の表情は変わらない。じっと虎の様なまなこを晴れ晴れとした顔つきの戯志才に注いでいた。


 「じ、条件をお聞かせいただきたい」

ややうわずりながら麋竺が返した。

 麋竺としても一県に匹敵するほどの財と領地、小作人を抱える徐州随一の財閥の当主である。今回の交渉にむけても百通りの筋書き、展開を構想してきていた。そしていかにすれば和睦に近づけることができるのか、勝機を見出したという感触をもって臨んでいたのだ。

 そんな自信と構想は、戯志才の冒頭の一言で脆くも崩れた。

 相手から和睦をきりだしてくるなどまったくの想定外であった。


 「条件とは?」

戯志才はそんな麋竺の慌てぶりを内心面白がりながらそう返した。

「和睦の条件です。徐州牧の座を曹操殿の配下の誰かに譲るとか、税収の五割を曹操殿に上納するとか……どのような無理難題を押し付けてくるおつもりかと尋ねているのです」

 麋竺自身としてはそれ以上の過酷な提案も想定内であった。


 戯志才は一時の間を置いて大きな声で笑い始めた。


 聴衆はさらに驚いて声を失った。

 戯志才は八方を見渡しながら、声高らかに

「ハハハハハ。私欲にとらわれ侵略のための出兵であればいざ知らず。今回の兗州牧様の徐州攻めは悪を懲らしめるための御出陣」

「悪を、懲らしめる……」

「いかにも。前任の牧、陶謙様は裏で賊徒と手を組み他国を侵し、己が勢力拡大を謀っておられた。兗州牧様はそれを懲らしめるために徐州に攻め入ったのです」

「鹿爪らしい大義名分を振りかざしおって。曹操の侵略によって、罪なき民がいかほど命を落としたのかご存じないわけがあるまい。それこそが悪ではないか」

麋竺が紅潮させながらそう叫んだ。


 実際に虐殺された徐州の民は二十万に及ぶ。


 しかし陶謙の指示を受けて兗州に侵入した黄巾賊は、それを遥かに超える被害を兗州の民にもたらせたのも事実である。


 戯志才は声を落として、

「宗襄の仁の例えをご存じか。君主として領民に情けをかけるのは名君の徳というものだが、敵国にかける情けは本末転倒。悪の根源を断つために涙を呑んでの所業でございます。しかるに陶謙殿は州牧の座から追われ、こうして新しい州牧様を迎えるに至った。こうなれば兗州牧様の願いは成就されたも同然。これ以上、いたずらに戦を長引かせる必要はありません」

「なんと。曹操殿の願いは成就したと」

「いかにも。故に和睦の条件はありません。これにて兗州牧様は軍を率いて引き返します」

「和睦の条件がない。まことか?」

「私がここに参ったのもその証。全軍が徐州から撤退するまで私は人質としてここに残ることになっております」

「おお。それは何よりの証。これはこちらとしても願ったり叶ったりですな、張飛様」

麋竺はそう云って躍り上がった。


 「全軍が撤退するまでしばらくお待ちいただきたい。今後は互いに国を思いやり、民が安らかに生活できる領土の運営をしていこうではありませんか」

戯志才が最後にそう叫ぶと、広間に集まった官吏たちはこぞって強く頷くのであった。


 こうなると和平交渉に否定的だったものたちもその気になっていくので面白い。

 憎き曹操を討つべしという題目を唱えていたものたちの中にも、孔子の言葉を引き合いに出して、

まつりごとを為すにいずくんぞ殺を用いん」

と云って、この対等の条件での和睦に賛同する始末であった。


 曹操に親族を殺された恨みとは別に、曹操軍の精鋭ぶりに脅威を感じていたものも多かったのだ。

 

 「全軍が兗州に引き揚げるのか。では、遠征で手に入れた彭城ほうじょうなどはどうするつもりだ」

重い腰をあげて張飛がついに口を開いた。


 笑みを浮かべていた戯志才の口元がわずかに歪んだ。

「無論、徐州に返還いたします」


 おー!という歓声に広間が包まれた。


 滅亡すら覚悟していた状況から一転、失った領地すら何もせずに取り戻せるのだ。

 

 こいつ、なにをたばかっていやがる。


 今の戯志才の返答で張飛のなかの疑心が確信に変わった。


 自国の利益を捨ててまで和睦を進めることなど前代未聞である。

 領地の拡大は国益の最たるもの。それを捨てるということは、それに匹敵する、いやそれ以上の何かが裏にあるということになる。


 「つきましては、徐州牧様にお願いの儀がございます」

「なんだ」

寿春じゅしゅん袁術えんじゅつの兵のことです。我らの撤退を妨害し、せっかくの和平交渉を白紙に戻しかねません。そうなれば兗州牧様とて次は許さぬと下邳に攻め寄せるのは明白。和睦は永久に不可能となります」

「俺に、袁術の動きを止めろということか」

「穏便にことを運ぶためには致し方ないこと」

「よかろう。孫乾そんけんよ、使者として袁術軍に赴き、撤退が完了するまで手出しするなと伝えよ。追撃するようならば、俺が相手になると云っておけ」

張飛がそう云い放つと、隅に立っていたあご鬚を蓄えた男が礼をし、

「それはさすがに云い過ぎですな。まあ、上手く引き紐をつけておきますよ。それよりも西に斥候を放たなくてもよろしいのですか」

孫乾が鋭い目つきでそう答えた。

 

 西……ほとんどの官吏が孫乾の話の真意に気が付いていない。


 その一言に敏感に反応したのは、張飛と戯志才である。


 張飛はそんな戯志才の顔を凝視した。


 戯志才の額から汗が一滴、地に落ちた。


 曹操側とすれば他国から手に入れた領地などに未練を感じているいとまは無い。自らを保っていられるかどうかすら危うい状態なのである。

 今、一番肝要なのは、徐州からいかに被害を少なくして退却できるかということだった。


 張飛側からすると下邳の城の防衛のことしか考えていなかったので、敵地である兗州まで斥候など出してはいない。よって兗州の反乱を敏感に感じ取ることができずにいた。


 いずれ兗州で張邈ちょうばくが乱を起したことは広まる。


 ここは時間との戦いであった。


 そこまでは張飛の軍と袁術の軍を徐州に釘付けにする。


 即、追撃を受ければ殿しんがり于禁うきん楽進がくしんの両将がいかに善戦しようと曹操軍の半数は命を落とすことになる。

 先のことを計算し、曹操は騎兵隊のすべてを先行させた。

 曹操自身は歩兵を率いて退却している。

 激しい追撃を受ければ曹操の命も危なくなるだろう。そして兗州の反乱を鎮める力を完全に失うことになる。

 この先、曹操が中原に覇を唱えていくためには、退却時の被害を最小限に抑えなければならない。残存の兵の数がそのまま今後の勝機に比例していくのだ。

 

 それが戯志才に課せられた最後の役目であった。


 「戯志才よ、俺からも最後にひとつ聞きたい」

張飛がそう口を開くと、戯志才に緊張が走った。

 「なんでしょうか」

「お主は潁川えいせんの生まれだそうだな」

「はい」

「俺は幽州ゆうしゅう涿たくの生まれだ。なかでも貧しい村で育った。赤ん坊も三人にひとり満足に育つかという、食うにも事欠くようなところよ。何日も何日も朝から晩まで働いたって、稼いだ分は全部、税で持っていかれちまう。幼き子が多かった我が家では、食い扶持減らしのため俺は捨てられた。野ざらしのところを拾ってくれたのが劉弘りゅうこう様というお方よ。劉弘様は村を、県を、涿郡を変えようとしていた。民の生活を、政治のあり方を、そして国を、変えようとしていた。だが、反発も多く、同輩らの反感を買い、逆賊の汚名を着せられ殺された」


 戯志才が眉をひそめた。


 張飛はなおも話を続けた。

「劉弘様は俺に志を説いてくれた。人が何のために生きるのかを教えてくれた。俺は今、そんな恩人の息子に仕えている。俺を兄弟と呼んでくれる。志をもった男だ。だから俺は命をかけて生きていける」


 張飛の口調は友に語り掛けるようであった。


 戯志才の目が開かれた。代わりに張飛の目が閉じる。


 「戯志才よ。俺は曹操を許せぬ。いや、曹操のやり方が許せぬのだ」


 「曹操様は国を変えます。あらゆる腐敗を取り除き、新しい世界を築こうとしているのです」


 「大勢の犠牲がでるぞ」


 「変えなければもっと大勢の犠牲が長きに渡り出ることになります」


 「お主、曹操に何をみる」


 「……人の世。万人が切磋琢磨し、活力に満ちた人の世です。綺麗ごとだけの世界でも、見せかけだけの楽園でもない……人の世」


 「どうやらお主も志のために命をかけられるおとこらしいな。よかろう。和睦の話のもう。追撃はせぬ。いかなる理由があろうともだ」


 「いかなる理由があろうとも……ありがとうございます」



 こうして曹操は徐州からの追撃を受けずに無事、兗州に帰還した。


 途中、兗州での反乱という真実が張飛のもとにも届けられたが、張飛は不問にした。


 張飛はこの件で戯志才を咎めるつもりはなかった。


 報が広がった翌日、戯志才は下邳の城の客人を迎える一室で自害していた。


 張飛はその遺体を徐州の地に丁重に葬った。


潁川では袁術本陣と夏候惇が激突!?

荀彧の思いとは

次回、乞うご期待

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ