第34回 梁剛と韓浩の疑心
潁川に攻め込んだ袁術軍、対して籠城する夏候惇と荀彧。
第34回 梁剛と韓浩の疑心
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長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽 潁川(豫州) 下邳(徐州)
汝南(豫州) 寿春(揚州)
豫州・潁川郡 曹操領・・・
「袁術の野郎、やはり動いてきたか。まっ、動くだろうな。これだけの隙ができたのだから、のんびりしている奴が阿呆というものか」
隆々と鍛えた筋骨を重々しい甲冑で包みこんでいる無精髭の男がそうぼやいた。口調とは裏腹に動きには隙はない。一目でひとかどの武将とわかる。曹操軍の柱石を担う夏候惇・元譲であった。現在は潁川郡の太守を務めている。
太守夏候惇に向き合うのは荀彧・文若。潁川の名家、荀家の家督を継ぎ、現在は曹操の庇護の下、荒廃した潁川の再建に辣腕を振るっていた。
「袁将軍は潁川を侵すために兵を動かしているわけではありません」
「荀彧殿は確か、袁術に仕えていたことがあったとか」
「仕えたことはありません。協力したまでです」
「協力、ねえ・・・」
「袁将軍の国を思い、民を思うこころに私も動かされました」
「ほう。袁術が民を思う男だったとは驚きだ」
「群雄は割拠し、兵を養う諸侯は多くあれど、董卓の潁川侵略に立ち上がったのは袁将軍ただひとり」
「そうかもしれんが、大敗を喫して寿春に逃げていったんだろ。結局、潁川は董卓に蹂躙されたわけだ」
「結果よりも過程が肝要。今回の袁将軍の出兵も、長安に幽閉されている献帝の身をお救いするのが目的」
「通してやればこの城には脇目も振らず素通りすると?通しておいて背後を突く。袁術とて、そのことを考えぬ愚か者ではあるまい」
「私が袁将軍のもとへ赴き、説き伏せます」
「何と説く気だ。後背は突かぬと約定を交わすのか。馬鹿な。そんな口約束を誰が信用するというのだ。乱世において裏切りやだまし討ちは常。説いても無駄だ」
「さて、やってみなければわかりますまい。袁将軍とて、ここで曹操軍と戦い戦力を低下させることを懸念されているはず。できれば無傷で前に進みたいのです」
「わかってないねえ荀彧殿。俺たちは徐州でも袁術と戦っているんだ。もはや仇同士の間柄。それが今更なんと」
「和睦を結べばよろしい」
「和睦・・・そんなものを孟徳(曹操の字)の許可なしに結べるものか」
「曹操様ならば必ずそうします」
「仮にだ、仮に孟徳がそう望んでも、袁術は望むまい。この潁川は、陳留の張邈の離反によって、完全に孤立している。兵の大半も徐州攻略に回してしまって、籠城の兵は二万に過ぎない。城を落とし、潁川を奪うのにこれ以上の好機はあるまい」
「それはこちらの勝手な推測。袁将軍は潁川を戦場とすることに躊躇いがございます」
「それこそ荀彧殿の勝手な思い込みだろう。この潁川を獲るために、袁術は張邈に調略の手を伸ばしたのだ」
「いえ、長安に進むために調略に及んだのです」
「・・・なるほど。孟徳が荀彧殿は岩よりも堅いと云っていたが、確かにそのとおりじゃ」
夏候惇は呆れかえって荀彧を見た。
爛々と輝く両目が夏候惇を凝視していた。
「臣として、帝をお救いするために手を結ぶ。これ以上の大義はありません」
「わかった、わかった。好きにすればいい。行って首だけになっても知らんぞ」
「承知のうえ。志のために死ねるのならば、この文若、本望でございます」
「志ねえ・・・袁術にはそんなものはあるまい」
夏候惇がそう云うと、荀彧はすでに腰をあげており、
「さて、志は口にする者と、口にせず心の奥底に秘める者とに分かれますれば・・・」
「袁術が、大層な志を心の奥底に秘めてると?」
夏候惇が愉快そうに笑った。
袁術は単なるボンボンだ。名家である袁家が政の頂点に立つべきだと盲信しているだけの話である。国を憂う心など持ち合わせてはいないだろう。民のため?いや、自分のためにしか動かぬ男だ。政治も戦争も、己の欲望を満たすためだけに行っているに過ぎない。
志とは無縁の存在。対極の存在だ。
荀彧の志など理解できるわけがない。
荀彧が部屋を出ようとする前に、少しだけ振り返って夏候惇に礼をした。
荀彧の片目だけが瞑られていたことに夏候惇は気が付かなかった。
一方、潁川に寄せる袁術軍先陣・・・
「左将軍様(袁術)はこのまま潁川を通過せよと下知されたが、はたして本当に大丈夫だろうか」
不安気な表情でそう口を開いたのは、先陣の大将を務める梁剛である。
参軍として付き従う韓浩も同様に暗い面持ちで、
「城に籠る夏候惇に横腹を突かれれば、この先陣は壊滅です」
「だが、動かぬと見込んでの左将軍様の下知であろう。わしにはその根拠がわからぬのじゃ」
韓浩は首を横に振って、
「動かぬ道理などありますまい。むしろ動くことがわかっていての下知なのでは」
「なんと。韓浩よ、それはいったいどういう意味じゃ」
「城の兵に襲わせるのが前提なのかもしれませぬ。つまり、我らの軍は敵を城からおびき出す囮」
「囮じゃと・・・よもや左将軍様がそのような薄情な策を採るものか」
そう答えたものの、梁剛の表情はさらに深刻さを増していた。
「南陽のことをお忘れか」
韓浩はそう云って、さらに梁剛に詰め寄る。
「うむ・・・忘れはせぬが。しかしあれはやむを得ない選択と、お主も云っていたではないか」
南陽のこと、とは袁術が本拠地の南陽から潁川に出兵したときの話である。
南陽の城代には梁剛が就いた。補佐役として韓浩も残ることとなった。
潁川を荒らす董卓軍を撃退するために袁術は出撃したのだが、その間隙を縫って西より董卓の別隊が南陽を襲撃。城は落ちて、住民の大半が董卓軍に殺された。
事前に袁術からの指示を受けていた梁剛らは城から逃げ延びて一命を取りとめたが、そんなことを知らずに城を守ろうと最期まで戦った兵も多数いたのだ。
梁剛らは袁術の家族を保護し寿春へ連行するため、民と仲間を見殺しにしたのである。
この一件は深い心の傷を梁剛らに残した。
以来、特に韓浩は袁術に対し、疑心暗鬼に陥っている。
袁術はもちろんそんなことなど露知らず、今回の先陣を梁剛らに命じていた。
「もし、韓浩の思惑通りだとして、我らはどうすればよいのじゃ。城攻めは堅く禁じられておる。とにかく一刻も早く潁川をぬけ、南陽の張繍を攻めよとの下知じゃ。ここで敵を迎える陣を組んだのでは下知に背いたことになるではないか」
「私に良い策がございます。二万の兵をふたつに分け、一万を先行させ、一万をその後詰とします。私が後方の一万を率いますゆえ、梁剛様は先行し南陽を目指してくだされ」
「なるほどそれは良い。早速、兵を分けて進軍することにしよう」
袁術軍の先陣二万は、潁川の城下を通過する際に兵を分けた。
潁川からの和睦の使者である荀彧は、未だ袁術本陣に辿り着いてはいない。
梁剛の選択が、袁術軍の運命を大きく揺るがすこととなるとは、この時はまだ誰も知らぬことであった。
梁剛の決断が潁川の戦場に思わぬ波紋を広げることに・・・
次回こうご期待。




