第33回 陳宮の興味
陳宮が曹操を攻めるわけとは……
第33回 陳宮の興味
「いやはや、陳宮殿のご明察ぶりには驚かされるいっぽうですな」
腹にでっぷりとした脂肪をつけた巨漢が、満面の笑みを浮かべて労った。
清流派官僚の筆頭として「八俊」にまで数えられた張邈孟卓である。
兗州の最西端にあたる陳留郡の太守を務めており、兗州の牧である曹操孟徳とは朋友の間柄であった。
「わずか数日で兗州のほとんどの郡がこちら側についた。抵抗するものも幾つかの県ぐらいなもの。孟徳の驚愕し、落胆する姿が瞼に浮かぶようじゃ」
張邈はそう嘯いて笑いながら酒杯を手にした。
「太守や県令らが曹操から離反したのは、張邈様のご人望、ご名声の賜物にございます」
陳宮がそう応えると、上座に腰かけていた甲冑姿の男が露骨に舌打ちをした。
張邈の弟の張超である。
張超は徐州最南端の広陵の太守を務めており、郡の政は右腕として信頼している臧洪に任せ、自らは二万の軍勢を率いて張邈の援軍に赴いていた。
しかしこれまで、これといった武功をあげていない。
兗州全域を圧倒していったのは、陳宮の策と呂布の兵であった。
張超は苦々しげにこれを傍観しているだけであった。
それほどまでに陳宮の指示は的確で、策は恐ろしく当たっていたのだ。
城の弱点、どこに敵兵が潜んでいるのか、だれが寝返り、だれが最後まで曹操に忠誠を尽くすのか、すべてが陳宮の云う通りになった。
張邈に次ぐ地位にありながらも、これでは張超も迂闊に口を挟められない。挟んでしくじればすべての責任を取らされることになる。
「東郡も残すは東阿県と范県くらいなものか……どちらかに太守の夏侯淵が潜んでいよう。奴を討てば兗州のすべては我らのものとなる」
弟の不満を知ってか知らずか、張邈は何度も頷きながら酒を口にする。
「東阿へ送った軍勢からそろそろ落城の知らせがくるはずですな」
いち早く曹操を裏切った王楷の言である。自らが何もせずとも味方が増えていき、領土が広がっていく夢のような現状に酔っている様子だ。
「フフフフ……これであの腐れもの(曹操のこと)の帰ってくる場所はなくなりますな」
同じく張邈側についた許汜がほくそ笑む。
「太守様、東阿からの早馬からの知らせでございます」
伝令役が、酒宴のような軍議の場に現れた。これまで届けられる報告は吉報ばかり。
「よし、そこで申せ。城は落ちたか」
張邈が心を躍らせながら問うと、伝令役は青い顔をしながら、
「手はず通りに黄河より攻め込む予定でしたが、倉亭津の渡しを断たれました」
「渡しを切ったと?馬鹿な奴らだ。それでは袁紹からの援軍が来ても上陸できぬではないか。ファハハハハ、東阿の一城ごときが生き残ったとて孤立したのではどうしようもあるまいに」
張邈の言葉につられて王楷や許汜も笑った。
「あの老人の仕業だ」
陳宮は隣に座る呂布にだけ聞こえるように話した。
呂布はつまらなそうに酒を飲んでいたが、陳宮の表情が変わったのを見ると腰をあげた。
「誰のことだ」
「以前、倉亭津を探っていたとき会った。恐らくは夏侯淵の参謀、程立に違いない。東阿の城は津より攻めれば赤子の手をひねるが如くすぐに落ちる。程立はそれを知っていて津への渡しを断ったのだろう」
「津は押さえたのだから上陸は容易いだろう」
「いや、そういう構造にはなっていないのだ。渡しを断てば津と本土を両断できる作りになっている。橋を架けるには数ヶ月という時が必要だ」
「なるほど。曹操が戻ってくるまでの時を稼ぐ算段か……」
「これはこれは、さすがの陳宮殿の策もついに看破されましたか」
そう云って張超が初めて笑った。
「まあよいではないか。作戦通りにはいかなかったが、東阿は完全に孤立したのだ。我らが一番恐れていたのは、冀州の袁紹の援軍が倉亭津から上陸すること。もはやその心配は無用になったのじゃ」
「しかし、東阿の城を落とさねば兗州平定は成りません。曹操が舞い戻って来て城に入れば面倒なことになります」
「うむ……それはそうじゃ……」
張邈も弟に詰め寄られて歯切れが悪い。
「私が二万の兵を率いて陸路より東阿を攻めます。見事、夏侯淵の首も獲ってみせましょう」
「おお、さすがは我が弟よ。よし、任せたぞ」
「はい。お任せ下さい」
東郡の太守である夏侯淵を討てば一番手柄間違いない。
張超はここで大逆転を演じたかった。
でなければ、兗州平定後の立場が悪くなる。
しかも、陳宮があれほど禁じた東亜への陸路攻めである。成功させれば、今後陳宮に大きな顔をさせずに済む。
張超が陳宮の顔を一瞥し、颯爽と軍議の場を後にした。
陳宮は何も云わなかった。
自室に戻った呂布は、改めて陳宮を呼び、今後について話し合った。
「東阿の城に籠るのは三千の軍勢と聞いた。二万の軍勢であれば陸路からでも充分落とせるのではないか」
呂布が尋ねると、陳宮は首を横に振って、
「数の問題ではないのだ。山間の路は狭く、罠を仕掛けるのに格好な場所。しかも大軍の利をまったく生かせない」
「代わる代わる攻めれば敵も堪え切れないだろう」
「徐州から撤退した曹操の本陣が到着するまであと四日。三千の兵であれば楽に十日は耐えられる」
「ならば俺が出るか」
呂布を見つめながら陳宮はしばらく考えていたが、
「いや。ここは張超様にお任せしよう」
そう答えた。
さすがの曹操であってもここから挽回するのは至難の業である。
兗州の八割が敵方に回ったのだ。
仮に徐州の追撃から逃れて上手く撤退できたとて、何ができるというのか。
「じっとしているのは苦痛か」
今度は陳宮が尋ねた。
これまで呂布は一度も出陣していない。
呂布の旗下の将たちが陳宮の指示通りに動いてきただけである。
「戦が無いのならばそれで構わん」
「ほう。世間は奉先(呂布の字)のことを戦狂いだと思っているようだが」
「公台(陳宮の字)こそ、これまで戦場になど出たことはあるまい。それが今回は随分と乗り気だな。どういう風の吹き回しだ」
「あの男よ……」
「あの男……誰のことだ」
陳宮が目を瞑った。
「私は一度目にした人の顔は確実に記憶できる。顔だけではない。名前や特徴、話をしたことまで全て頭に残すことができ、いつでも引き出すことが可能だ」
呂布は周知の事実なので口を開かず頷くだけであった。
「しかし、あの男だけは……あの曹操という男だけはわからぬ」
「わからぬ?」
「曹操は若い頃に洛陽の北部尉を務めていた。やがて西園八校尉にも登りつめた。これまで百度は顔を合わせている。話もした。しかし、あの男の顔だけは何度見てもわからぬ」
「顔を、覚えられぬ、ということか」
「顔の区別はつく。誰が曹操なのかということはわかる。私が云いたいのは、いつ見てもあの男は違うのだ。同じ人間とは思えぬ表情をする。時には勇ましく、時には楽し気で、時には苦しんでいる。悲しげなときは天から涙が降り落ちてくるほどで、快活なときは大地が震わんばかり。そこには常に新しい曹操がいるのだ。百万を超える人間に出会ったが、あのような男は他にいない。俺は曹操を知りたい」
「曹操を知りたい……そのためにこんなことをしているのか」
「活動の動機を志だなんだと口にする輩が多いが、私は違う。志など己の欲望を正当化するための詭弁。私はただ、己の興味があることに全身全霊をかける生涯を望んでいる」
「ハハハハ……相変わらずだな公台。俺から見れば、曹操なんぞよりお前のほうがよっぽど変わっているぞ。まるで生涯を堅く誓い合った女の尻を追うような執拗さだな」
「なんとでも云うがいい。だが、曹操がいる限り、公路(袁術の字)の天下はこない」
「公路よりも曹操が上というわけか」
「ああ。公路もそろそろ気が付いているはずだ。曹操は千年に一度現れる英雄となる器を秘めていることに」
「曹操が天下を獲ると?」
「……それがわかるのならばここまで興味は持たぬ。天下を獲る器なれど、それを望んでいるのかはわからぬ。私はそれ以上を望んでいるように思えるのだ」
「それ以上・・・この国のすべてを統べる。それ以上のことがあるのか」
「あの男にしかわからぬ世界であろう」
「戦えばわかるのか」
「それもわからぬ」
ふたりの間に沈黙の時が流れた。
呂布はかつて仕えた董卓の言葉を思い出した。
「曹操を討たねばワシの天下は来ぬ」
そう云っていた。
その頃の曹操は反董卓連合の使い走りのような存在で、無理やり先陣をきらされ徐栄あたりに負けていた。
呂布にはなぜ董卓が曹操を恐れるのか理解できなかったが、董卓は曹操の成長、将来に脅威を感じていたのだろう。
「まあいい。お前には幾つも借りがある。お前の気が済むまで付き合ってやる」
呂布はそう云って笑った。
「今ならば豫州の潁川を突破し、公路の本陣と合流することができるぞ。娘のことはいいのか」
「公路の軍にいるのならばいずれは会えるだろう。曹操を倒してからでも遅くはあるまい」
「済まない。奉先よ、お主の友情に感謝する」
ふたりは手を握り合った。
二日後、東阿攻めに出陣した張超の軍が、背後から曹操の特騎「虎豹騎」二千に襲われて敗北したという報が入った。
曹操は神業とも呼ぶべき異常な速度で撤退していたのである。
こうして張邈、呂布の連合軍は東阿の城を落とせずに曹操本陣と激突することになる。
豫州では袁術の本陣が潁川の城に迫っていた。
籠るは夏候惇、荀彧ら二万。後詰は期待できない状態である。
兗州、豫州の二点同時決戦。
圧倒的な不利な状態で曹操は命運をかけた戦いを始める。
潁川攻め。
本陣を動かす袁術の葛藤とは。
次回乞うご期待。




