第32回 徐州撤退
策士、策に溺れる。
曹操は挟撃の危機に晒されます。
第32回 徐州撤退
「殿、下邳からの使者、陳羣がまた来ておりますが、いかがいたしましょうか」
目つきが鋭く頑健な男が軍議の部屋に入りそう伝えた。浅黒い肌を重装な漆黒の甲冑で包み込んでいる。
「于禁よ、報告ご苦労だが、あいにくお前さんの大将はここにはおらぬぞ」
部屋の奥の椅子に深々と腰かけている偉丈夫が答える。口調には幾分の嘲笑の色があった。
漆黒の武将、于禁は拳を添えて礼を尽し、
「これは曹仁様。曹操様はどちらにおいででしょうか」
「さあな。今朝から姿が見えぬ。気分屋な男だからな……今頃は豫州の潁川の城かもしれんぞ」
「お戯れを。秋の収穫も完了し、いよいよ下邳攻め目前ではありませんか」
「そうだな、だから俺たちもここで朝からあいつの登場を待っているんだが」
「曹洪様のお姿も見えませんが」
「そう云われててみればそうだ。子廉(曹洪の字)の奴も朝から見かけんな。楽進、お主は見たか」
曹仁に問われて、対面に坐していた青白い顔つきの男がおもむろに口を開き、
「いえ。拙者は……しかし、馬蹄はいくつも耳にしました。数にして二千はあったかと」
「馬蹄?子廉の奴が抜け駆けでもしたと言うのか」
「駆けていく方角は西でしたが」
「西?下邳の反対の方角ではないか」
于禁を含めた三将が眉をひそめて談義している中に、火の玉のように飛び込んできた男がいた。
その男は、赤紫の明るく洒落た裲襠の装束で颯爽と現れるやいなや室内に響き渡るような快活な口調で、
「遅い!兵は神速を尊ぶぞ」
と云い放った。
曹操孟徳、そのひとである。
雷のような怒号に身体を震わせながら三将は急ぎ立ち上がった。
「孟徳(曹操の字)、いったいどこにおったのじゃ」
曹仁が大柄な体格に似あわず狼狽えて返答すると、対称的に小柄な曹操はカッと目を見開いて
「下邳の使者、陳羣は来ているか」
「お、おう、飽きもせずに来ておるわ。もう十度目じゃ。下邳攻めの準備もできた故、首でも斬り落として送り返すか」
「馬鹿なことを。戯志才を呼べ。いいか、出立の準備をせよ」
「なに、これから下邳を攻めるのか。彭城への兵糧の運び込みが途中だぞ」
「子廉を先行させた。子孝(曹仁の字)も残りの騎兵を率いてすぐにここを発て」
「よ、よし、わかった。下邳の城なんぞ獲るに足らぬ。本陣の到着を待たずに落としてくれる」
「馬鹿も休み休みにしろ。誰が下邳を攻めると云ったのだ」
「下邳を攻めるのではないのか」
「方角が逆だ」
「逆?」
「子廉には俺の虎豹騎二千を付けて西に向かわせている。お前もそれに続くんだ」
「虎豹騎だと……」
虎豹騎とは曹操軍の兵の中でも最も精鋭と言われる騎兵の特殊部隊である。曹操直参の部隊で旗本に近い存在だった。よほど重要な場面でない限り曹操はこの虎豹騎を動かさない。
「牧様、お呼びによりまかりこしました。戯志才でございます」
新たに軽装の男が現れた。
曹操は疾風の如き速度で次々と命令を下しており、戯志才の姿を見るとすぐに、
「陳羣に会え。用向きは和睦だ」
「和睦だと」
驚愕の声をあげたのは曹仁である。楽進や于禁も声には出さないが驚きを隠せずにいる。
無理もない話だ。この徐州平定のためこの一年必死に準備を進めてきたのである。そして、州都である下邳城落城は目前。新しい州牧、張飛を降すのも時間の問題なのだ。
ここで退く必要がない。
「戯志才、お主の耳には届いているのだろ」
曹操に問われて、戯志才は僅かに微笑んで頷いた。
「ならば話は早い。お主の耳に入っている情報ならば、すぐに敵にも届くだろう。今は時が必要なのだ」
「御意。この戯志才、陳羣を説き伏せ下邳へ参りましょう」
「……そうか、やってくれるか」
曹操はじっと戯志才の顔を見つめてそう云った。
「孟徳、話がわからぬが、なぜ今退くのだ。敵を油断させて、迂回して下邳を落とす気か」
「いいか子孝、とにかく西を目指せ。仔細は追って知らせる。二百里(100㎞)直進し本陣を待て。邪魔立てする者は誰であろうが容赦するな。打ち果せ」
「西に二百里だと……それじゃあ兗州に戻ってしまうぞ」
「いけ!」
「お、おう……」
曹仁は渋々部屋を出ていった。
敵勢力を把握せずに出陣することは命を捨てるに等しい話であるが、この場合は仕方がなかった。曹操ですらまともに現状を把握できずにいたのだ。
下手な先入観で進むと足元をすくわれる恐れがあった。
とにかく目の前に立ち塞がるものは敵であろうが味方であろうが打ち果す。それさえ念頭に置いておけば臨機応変な動きがとれるはずである。
今後は斥候が次々と正確な情報を持ち帰ってくる。くわしい戦術はそれを押さえてからになる。
「我が軍は兗州に撤退する。于禁、楽進」
「はい」
「殿を託す。撤退を知れば敵は必ず追撃してくる。防げ」
「は、はい」
二人とも何が何だがわからないが、そう返事をした。どうやら戦況が大きく傾いている。それだけは伝わっている。
「牧様、いえ、曹操様、最後にお願いの儀がございます」
戯志才だけが正確に現状を把握しているようで、冷静に口を開いた。
「うむ。申せ」
「潁川の再建。よろしくお頼み申す」
「任せておけ」
「つきましては後任を推薦したいと存じます」
「うむ」
「詳しくは荀彧にお聞きください。郭嘉、字を奉孝と申す男です。私や荀彧と同じく潁川の生まれで、生来の天邪鬼でございますが、知略は天地に通ずる神算ぶり。必ず曹操様の御役に立ちます」
「郭嘉……そうか、わかった」
曹操は一度の瞬きもせず、じっと戯志才を見つめて答えた。
戯志才はこの撤退に命を捨てるつもりだ。
曹操にはしっかりとその覚悟が伝わっていた。
この時、曹操の拠点である兗州は、味方である張邈の裏切りにより火の海に包まれていた。
張邈は曹操にとって唯一の友と呼べる存在だった。
それ故に曹操は自らに何かあったときは必ず張邈を頼るよう家族に申し付けていた。
それほど信頼していた男の離反。
どこまで計画されていたものかはわからないが、兗州は張邈の勢力によって、物凄い速度で侵されている。曹操のもとに届けられる早馬の知らせは、曹操陣営の落城のものばかりであった。
裏で糸を引いているものがいる。
間違いなかった。
張邈は人望はあっても戦下手なので有名なのだ。とてもこのような器用な真似はできない。
袁紹か。
最初は曹操もそう思った。
しかし袁紹は、自領に巣食う黒山党と和睦し、北の幽州公孫瓚と雌雄を決するべく本陣を動かしている最中である。だから曹操も遠慮せずに徐州攻めに軍勢を割くことができたのだ。袁紹は後背を突かれることを極端に嫌がる男だった。今、曹操の陣営が揺れ動いて背後に不安を感じるような真似はしない。
となれば、袁術か。
徐州と豫州。曹操は左将軍である袁術の勢力と二局面で向き合っている。
これまでは曹操の仕込んだ埋伏が功を奏してきたが、同じ策謀を袁術も施していたのかもしれない。
張邈だけは離反しないと頑なにその友情を信じていた曹操にとって、実に致命的な損害だった。
この機を逃さずに袁術は打って出てくる。
それもこの徐州の追撃だけでなく、豫州の潁川も同時期にだ。
さすがの曹操もこの徐州の敵地で迎え撃てる余裕はもうない。
もたもたしていると兗州全土が張邈の支配下になってしまうのだ。
急ぎ戻って張邈を討ち、態勢を立て直す必要があった。それを為さねば豫州潁川の軍とは両断されたままになる。
曹洪と曹仁の騎兵を先行させたのは、敵の備えが出来上がる前に攻め込みたかったからだ。
退却の導線も確保しておきたかった。曹操軍敗北の報はすぐに広まるだろう。そうなれば通過する領民たちが腹を空かせた狼のように襲い掛かってくる。騎兵であれば迎撃は簡単だ。その後を曹操率いる本陣が通過する。
問題は徐州からの追撃だった。
苛烈な追撃が予想された。
生きてこの徐州を抜けることは難しいだろう。殿には全滅を覚悟してもらわなければならない。
殿役の于禁と楽進には参謀として戯志才を付けるつもりでいた。兵法の知識、用兵の呼吸は曹操に匹敵するものを持っている。
だが戯志才の覚悟は曹操の予想を上回っており、徐州の使者に会い自ら下邳城に赴いて退却の時を稼ぐつもりだった。
それが成功すれば戯志才の命と引き換えに、殿の損害は最小限のものになる。
曹操は決断も速いが、決断してから動くのも速い。
徐州平定の未練を捨て、あっという間に全軍を動かしていた。
兗州の地に呂布が待ち受けていることも、軍師として兗州のすべてを知り抜いている陳宮が付き従っていることも、曹操はまだ知らなかった。
兗州の地で必死に抵抗を続ける曹操の旗下たち。
夏侯淵、程立。
呂布の進撃を止められるのか。こうご期待。
そして袁術がついに動く!?




