第19回 孫策 始動
孫策軍いよいよ進軍。
第19回 孫策 始動
青空が澄み切っていた。
清々(すがすが)しい空気が胸を満たす。
踏みしめた大地からは逞しさを感じた。
草花からは生きようとする生命力を感じる。
同じ風景がいつもとはまるで違うように見えた。
待ちかねていた時を迎え、己の内側からはどんどんと力が湧き出してくる。
やりたかったことができる。
やりたいようにやって生き、やりたいようにやって死ぬことができる。
自由、解放感、目標に向かう強い使命感、責任感、そして期待感。
何もかもが孫策の内でぐちゃぐちゃに混じり合っていた。
「伯符、袁術様から何と云われてきたのだ」
周瑜、字は公謹が愁眉を開いて駆け寄ってきた。
孫策とは義兄弟の契りを交わしており、互いに伯符(孫策の字)、公謹、と呼び合う間柄である。
周瑜も当然ながら袁術が孫策のことを煙たがっていることに気が付いていた。袁術は孫家再興を孫策の弟である孫権に託したがっているのだ。孫権はまだ十歳ではあるが、袁術の娘を娶っていた。袁術にとっては娘婿。
孫家の武力を吸収したがっている袁術にとって孫策は邪魔でしかない存在だった。暗殺すら警戒しているほどである。その袁術に突然呼び出しを受けたのだから心配するのも無理からぬ話であった。
「俺は独立の機会を手に入れたぞ公謹」
「独立・・・。孫家当主の座を継承することを許されたのか」
「いや。それはまだだ。袁術は俺に兵を率いて南を攻めるように命じてきた」
「南・・・呉の劉繇のことか。やはりそうきたか。兵はいくらだ伯符。二万か、それとも三万か」
周瑜は矢継ぎ早にそう尋ねた。その表情も興奮を隠しきれずに紅潮している。それもそのはず、周瑜も劉繇攻めだけが孫策延命の機会と狙っていたのだ。
この揚州の中心地である寿春の近隣諸国の動きを見るに、誰かが呉の劉繇に当たらねば袁術は動きがとれなくなる。
しかし袁術軍の主力は徐州に侵入した曹操軍と対峙しなければならない。長安にいる李傕とは和睦を結んでいるとはいえ、豫州の張済は袁術軍に隙があればいつでも攻め込む気配があった。こちらへの備えにも主力が必要なのだ。
南に割くことができ、且つ成果を期待できる将は袁術軍には少ない。
そうなれば孫策に白羽の矢が立つことが予想できた。
そしてこの日のために孫策と周瑜は用意周到に準備を進めてきたのだった。
「千だ」
孫策がニヤリと笑ってそう周瑜に伝えた。周家の麒麟児と呼ばれた周瑜もその返答を理解できずにしばらく呆気にとられていた。
「千・・・何の話だ伯符」
「劉繇を攻める兵の数だ」
「呉郡には五万を超える兵がいるのだぞ。本陣の曲阿だけでも三万は駐屯している。それを千で攻めよと云うのか」
「そうだ。袁術め、俺が密かに周辺の村々の若者たちに話をつけていることに気が付いているようだ」
孫策に密偵をつけていることは充分に考えられることである。
この数ヶ月、かなり精力的に揚州北部の各地を巡ってきていたので警戒されても無理はない。しかし千という数はさすがにやり過ぎである。
「声をかけてきた者たちが集まっても五千には届かぬ。合わせても六千。これで劉繇を攻めても犬死する道しかないぞ伯符」
「いきなり劉繇を攻めるわけではない。まずは陸康を攻めよとのお達しだ」
「盧江を攻めるのか。陸康殿は袁術様寄りのはず。寿春で旗上げする際もかなり尽力していただいた。正式な揚州の刺史が劉繇であっても今更向こう側につくはずがあるまい」
「さあな。理由などどうでもいい。欲しいのは機会だ。盧江を落として兵力を増強し、兵糧を供給できれば劉繇攻めは容易くなる」
「盧江を落とせば伯符を太守に任じてくれるのか」
「そう云っていたな」
「詭弁だぞ。盧江は長安を目指す袁術様にとってまさに後背の要地。そこを伯符に任せるはずがない」
「わかっている。俺もこの寿春に近い地では何かとやりにくい。俺が欲しいのは長江の南よ」
二人はしばらく無言で見つめ合った後、笑い始めた。
「よし、手はず道理に進めよう。人生には必ず飛躍の秋があると聞く。ここがその秋であるのならば死中に生を見出すより他にない。俺もとことん付き合おう」
「公謹よ悲観する必要はないぞ。あの曹操も数万の兵で百万の黄巾の賊徒を破ったのだ。俺たちにできないはずがない。必ずこの秋を掴んで何が何でも這い上がるぞ」
「ああ。長江以南に国を創ることは孫堅様の悲願でもあったこと。俺の夢でもある」
「よし。早速、兵を集め出陣する」
澄み切った青空の下、二人の若者は覚悟を決めて微笑み合うのであった。
袁術から与えられた千の兵のなかに孫家代々に仕えてきた古参の将の姿はなかった。
孫策の父である孫堅の側近である、黄蓋や程普、韓当や朱治のことである。
替わりに千の兵を率いてきた男は、袁術軍の先鋒を務める紀霊の副将、凌操だった。孫策の監視を兼ねていることは明白である。
盧江の太守、陸康が率いる兵は八千。籠城されればこの千の兵では包囲することすらままならない。
寿春を南下し盧江を目指し進軍している間に味方するものたちが増えてきた。
まずは騎馬隊千を率いる呂蒙。
流民千人を率いて参陣してきた陳武。
二千の野盗の群れを率いる周泰、蒋欽の義兄弟。
周瑜の本家からも千の援軍が到着した。率いるのは周瑜の右腕である董襲。
しかしその中で最も孫策を勇気づけたのは白馬の将の帰参であった。
「おお、趙雲殿来てくれたのか」
周瑜が満面の笑みで出迎えた。
兜を脱いだ趙雲の美貌に周囲の男たちはどよめきたつが、誰ひとり手を出そうとするものはいない。趙雲の武芸の腕前が近隣に鳴り響いていたからだ。
「孫策様、周瑜様の初陣となれば駆けつけぬわけにはいきません」
「いや・・初陣というわけでは・・・」
「孫家当主としての初陣でしょ」
趙雲がそう云って微笑むと、黙って見ていた孫策も
「ああ。これが俺の本当の初陣だ。ここから孫策の快進撃は始まる。天下に通じる道のりの始まりだ」
「天下。そうですか。孫策様は天下をお望みか」
「男に生まれたからには天下を望まずして何の人生だ」
「袁術様の治世を邪魔するのであれば、この子龍黙ってはいませんよ」
「ほう。面白い。いつぞやの続きをここでするか」
「孫策様がその気ならば受けて立ちますが」
そう云って二人が向き合う。互いの視線に殺気が籠った。
周瑜が慌てて間に立ち、
「お二人ともいい加減にされよ。あの立ち合いは引き分けで幕を閉じたはず。蒸し返されるな。今は盧江攻略に集中すべきとき」
それを聞いて趙雲が構えを解いた。
「そうですね。周瑜様のおっしゃる通り。それでは私とこの者もしばらくは随身させていただきます」
趙雲の背後から黒馬を進めてきた女将を紹介した。まだ子どもだ。
「この者は斗と云います。きっと役に立つ仕事をします」
「よろしくお願い致します。」
斗は馬上から軽やかに下りると深々と頭を下げた。
「励め」
孫策はそう一言云い残して先頭集団に戻っていった。
他にも加わる者が続々集まり、盧江到着時には当初の予想を大幅に上回る七千の兵となっていた。
城を出て迎撃しようとしていた陸康もその数を見て城に逃げ帰った。
「伯符よ、どうやら兵が集まり過ぎたことが逆に仇となったな。攻城戦になれば時間を要する。容易くはいかんぞ」
「構わんさ。この兵では陸康を倒せても、どうせ修羅場をくぐり抜けてきた群雄たちの精鋭には太刀打ちできん。俺は城を落とすことよりも城を囲みながら兵を鍛錬することに没頭することにする。そして孫家の主力に似つかわしい軍に育ててから呉を攻める」
「それがいい。俺は呉に斥候を放ち様子を探る。こちらに籠絡できそうな軍閥があれば引き込むつもりだ」
「調略はすべて公謹に任せる。詳細の報告も求めぬ。お前のやりたいようにやれ」
「任せておけ。しかし、この城を落とすのにどれほどの年月をかけるつもりだ伯符」
孫策は城壁を眺めながら、
「一年」
と答えた。
こうして孫策軍の旗上げは成った。
曹操軍、破竹の勢いで徐州を攻めます。
いよいよあの英雄の本格的な登場です。




