第15回 趙雲、阿斗を救う
いよいよ袁術軍も動き出します
第15回 趙雲、阿斗を救う
二頭の馬が山間を駆けていく。
先頭を行く一頭は烏丸産であろう見事な白馬。やや遅れて黒毛の馬がその後を追っている。行き交う人々を驚かせたのは、馬を巧みに操っているのがどちらも女であったことだった。ぬかるんで足場が悪いことなど意にも介せず疾駆していくその姿は、歴戦の勇を誇る武将顔負けである。
それも当然の話で、先頭の白馬に跨っているのは北平で河北の雄を争う公孫瓚旗下、趙雲子龍だった。槍を持たせれば北方随一と恐れられ、戦場において白馬義従を率いて数々の武功をあげている。現在は訳あって公孫瓚のもとを離れ、浪人の身の上。武芸の稽古兼がね揚州を目指し南下していた。
後方に付き従うのは、つい先日野盗に襲われているところを趙雲に救われた女子であった。趙雲も十七歳と若さ漲る乙女であったが、こちらはさらに歳若で十三歳。子どもと呼ぶに相応しい年齢ではあるが、それがどうして馬の扱いは趙雲に引けをとらず、武器を持たせればその辺りの盗賊の類は簡単に斬り伏せる腕前である。
(この娘はただ者ではない。武家の娘ということは間違いないが・・・果たして何者だろう)
趙雲は愛馬、白竜の手綱を握りながら思案していた。手加減して駆けてはいるものの、男でもこの速度についてこられる者は少ない。時折背後を振り返って見ると娘の表情に必死さは無い。深刻な顔つきではあるが、馬の操縦にはまだまだ余裕がある。
野盗の群れに襲われているところを救ったが、趙雲が駆けつけたときには二十の遺骸が転がっていた。すべて一刀のもとに斬り伏せられていた。この娘ひとりの仕業とは到底思えないが、立ち向かっていたのは確かに娘ひとりだった。救い出してはみたものの感謝の言葉どころか名前さえ名乗らない。野盗の馬を乗りこなし、ただひたすら趙雲の後を追ってくる。
(目的地が同じなのだろうか・・・)
趙雲は揚州の州都である寿春を目指していた。こちらを治めているのは、趙雲の父と朋友の契りを結んでいた袁術である。
袁術は董卓旗下の李傕に破れて南陽を捨て寿春に逃げ延びたのだが、その仇敵である李傕が董卓亡き後の実権を握り、献帝に働きかけて袁術を左将軍に任じている。李傕としては自陣をまとめ上げることが優先であり、当面の大敵である袁術と和睦を結びたいという目論見であった。
袁術は左将軍を素直に受けた。しかしその行為を額面通りに受け止めることは早合点と言える。和睦を結びながらも袁術は献帝の奪還を企んでいる。寿春から都である長安まではかなりの距離があるものの、袁術は絶えずその機会を窺っていた。
政の中心にあり国や帝を支えることが袁家嫡男の使命であると腹を決めている証拠であろう。
趙雲はその手助けをしたかった。亡き父の願いでもあったからである。
しかし、寿春を取り巻く環境はそう易々と袁術の思惑通りにはいかない苦しいものであった。趙雲はそれを直にこの目で見て回ろうと旅をしたのだ。
まず寿春の南、長江を隔てた先には正当な揚州の刺史である劉繇が大軍を率いて州都奪還を画策している。劉繇は斉の孝王の末裔であり、呉郡に新しい州府を開いたが評判はすこぶる良かった。
西は荊州であり、袁術とは相性の悪い劉表が全域を影響下においている。特に好戦的な江夏郡の太守、黄祖は袁術と盟を結んでいた孫堅を討ち取った将として名を轟かせている。
北の豫洲は混沌としているものの潁川郡や汝南郡は李傕の支配地であり、四将軍として名高い張済が君臨していた。
唯一楽観視できるのは東であり、こちらは徐州の刺史から牧に昇進した陶謙の勢力下である。北方の公孫瓚、徐州の陶謙、寿春の袁術は名目上は同盟国となる。
これが寿春の四方の情勢ではあるが、趙雲が懸念しているのはそれ以外の勢力であった。
それは徐州や豫州と接する兗州のことで、この初平三年(192年)はまさに修羅の如き有様だった。
青州から端を発した黄巾の残党が兗州に攻め込んだのだ。黄河を渡河して冀州に攻め込んだものたちもいたが、こちらは公孫瓚の白馬義従に殲滅されている。兗州に攻め込んだものは冀州への比ではなく、武器を取る信者三十万、戦いに参加しない信者百万という未曽有の進軍であった。
兗州の刺史である劉岱は各郡の太守の援助を得、必死に抵抗した。だが集まる兵は十万にも欠けるほどで劉岱はあえなく戦死。後を継いだ鮑信も黄巾の勢いを止めることができずに討たれた。それでも尚、兗州を守り抜こうと抵抗したのが東郡の太守である曹操である。かつて趙雲の直属の上司であった公孫越を暗殺した張本人でもある。曹操は陳留郡の太守である張邈の助力を頼みに果敢に立ち向かい百万を超える進軍を食い止めた。
曹操軍はわずか五万だったという。
逃げても誰も文句を言えない状況だった。それでも曹操は踏みとどまり、そして勝った。
趙雲は旅の途中でその壮絶な死闘の跡を目の当たりにしてきた。補給の効かない黄巾の徒は餓死者が続出し、あらゆる生き物、あらゆる植物を食い尽くし、やがて人間すら食うようになっていた。万を超える白骨化した遺体が旅路には転がっていた。
曹操と黄巾の戦いは互いに極限に達したものだったといえる。曹操は砦や城に押し寄せる雲霞の如き黄巾の徒を巧みに誘導し各個撃破していった。敵の襲撃は朝晩も止むことはなく、それが数ヶ月続いた。兵の士気をそこまで保ったことだけでも凡将には真似出来ない芸当だ。さらに用兵の妙は天才的なものに違いない。
恐ろしい数の戦死者と餓死者を出した末に黄巾の徒は和睦を選択した。それは負けを意味する選択である。曹操は黄巾の精鋭を自陣に組み込み、それ以外の徒に土地を分け与えた。
このことで曹操の軍は二十万を超え、張邈の勧めもあって曹操は兗州の牧となる。密かに豫州刺史の座も得ていた曹操はこれで冀州の牧である袁紹に匹敵する勢力となったのだ。
曹操は強い。誰よりも手強いだろう。
趙雲はそう見ている。
曹操の野望が果たしていかなるものなのか趙雲にはわからないが、袁術が天下の政を制しようとすることを邪魔立てしてくることは確かである。
袁術の軍は弱い。同数の戦いであればどの勢力を相手にしても勝ち目は無い。だが数はいる。漢帝の支配にいい加減嫌気がさした民衆や軍閥が挙って寿春に押し寄せ、袁術を後押ししているからである。兵力も十万を超えているし、袁術がその気になればその三倍は集められるだろう。名声を得る働きを袁術はここまでしてきたからだ。
三十万で曹操の二十万に勝てるだろうか。
いや勝てない。
五十万いても勝てない。
問題は兵を率いる将の質だった。黄巾との戦いで曹操の将兵は限界を超える死線をくぐり抜けた。この経験で曹操軍はさらに精鋭となった。将器も磨かれた。残念ながらこれに対抗できる将が袁術軍にはいない。
自分ならばやれる。
趙雲にはその自信があった。無論、実績もある。公孫越の仇を討つにも絶好の機会と言えた。
趙雲が袁術軍の援軍として武功をあげたのは一度だけでは無い。袁術本人のいのちを救う働きもしたし、孫策軍を救う戦いもした。このまま寿春に向かってもよもや邪険に扱われることはないだろう。
それでも趙雲は土産を持参したかった。
それはこの周辺の腕に覚えがあるものたちを結集させ、一勢力として寿春に入城することであった。周辺の草刈にもなり、且つ味方を増やす一石二鳥の策である。
趙雲は豫州の沛郡から揚州の州境に入るとすぐに人集めを始めた。村々の腕自慢たちを説き伏せ、たまに武芸で打ち負かすこともあったが、袁術に味方する盟約を交わしていった。
やがて寿春に近づいた頃、同じような目的で周辺のならず者たちを束ねようとしている男に出会った。
それは三度目の再会でもあった。
男の名は孫策といった。
趙雲VS孫策
次回乞うご期待。




