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第14回 呂布の旅立ち

呂布がいよいよ中原に放たれます。

第14回 呂布の旅立ち


 天下とは何であろうか。

 呂布りょふ奉先ほうせんは天下の権勢を欲しいままにした太師・董卓とうたくの最期を振り返るとそんな疑問を強く感じざるを得なかった。

 董卓は帝位禅譲の寸前まで事を進めていたが病により死んだ。暗殺者を恐れ、反逆を恐れ、堅固を誇る郿城びじょうの奥深くで独りひっそりと死んでいったのだ。精巧な影武者がその死すら隠し通し、反乱軍に発見されたときには遺体の腐敗が極限まで進んでいたという。影武者は董卓の死と時代の変革を伝える役目を負うべく長安ちょうあんの都の市中にその遺骸を晒された。臍に刺された灯心の灯火はその脂肪を燃焼し十日間も消えなかったという。

 影武者のたるみきった身体とあぶらはひとの欲の権現であろうが、真の董卓には残念ながら市井しせいの失笑をかうような油断や増長は無かった。呂布の目に映る董卓は存外に国を憂い、頑なにその改革に努めた功労者であったのだ。董卓無くしてこの国を救うすべは無かったと言っても過言では無い。後世に残るであろう悪名、悪逆など気にも留めず断固とした療治の舵を執ったのだ。まつりごとの髄に潜む獅子身中の虫はこうしてようやく退治されたのである。

 しかし、天下を思い、天下のために生きたおとこはその功績を省みることなく無惨な最期を遂げた。董卓の死に殉じたのは尚書令の蔡邕さいようだけであった。董卓の横暴ぶりに恐怖を抱いてはいたものの、彼だけは董卓の偉業を高く理解していたといえる。蔡邕の殉死の事実があっても尚、董卓は私欲にかられた逆賊として名を貶めて葬られた。


 天下とは何であろうか。

 呂布の問いは父と慕った司徒・王允おういんにも向けられた。漢皇室の再興のために策謀の限りを尽くし、最後は孫娘の貂蝉ちょうせんを目の前で犯され、切り刻まれ、董卓の病を治すために肝を採られて果てていく様を見せられた後に獄死した。介錯をしたのは呂布自身である。牢のなかで王允は狂ったのだ。いや、権威を奪い合う遍歴の中で発狂したのかもしれない。王允は遥か昔にひとの心など捨てていた。あらゆる事象や人間は彼の崇高な志を全うするための駒に過ぎなかったのである。

 真っ向からそれを見せつけられて呂布の心に芽生えたものは憎しみであった。

 王允は夢の途中で死んだ。あらゆる人間を犠牲にしても叶わぬ夢を王允は見ていた。

 引導を渡すのは呂布の務めだ。

 憎しみ半分。恩義に報いる心が半分。

 呂布は王允を一刀両断した。


 郿城を征服した反乱軍も長安を占拠した反乱軍も未だに司徒・王允を旗印に掲げている。王允の名と勅の下に大勢が集っていた。しかし実際は随分と前に王允は死んでいたわけだ。その事を知っているのは反乱軍を率いる一握りの人間たちである。落ち着くまではこの報が広まることはないだろう。

 王允の漢皇室への忠義の厚さは誰もが知っている。王允が存命な限り反乱軍は一枚岩でいられる。根っからの軍人である皇甫嵩こうほすうや東国に強い人脈を持つ楊彪ようひょうが統率しようとすれば軋轢が生じる。寝返る者も出てくるはずだった。王允でなければならないのだ。

 官軍を自称するこの反乱軍がしっかりとした勢力を築くためには名ばかりでも王允は必要であった。王允がいないことを知れば反乱軍は崩壊し、李傕りかくなどの董卓軍の残党は勢いを盛り返す。


 天下が静粛に治まるか、さらに混迷を深めるかは微妙な段階だと言える。


 天下とは何であろうか。

 呂布はその答えを探すつもりもなかった。無論、この長安に残るつもりもない。

 董卓の生き様に憧れる気持ちも、王允の志を受け継ぐ気持ちもない。


 呂布はわずかな数の部下と共に長安を出た。

 

 王允と共に捕らえられ地下牢に幽閉されているはずの娘のは、呂布が救出に訪れたときにはすでに連れ去られていた。袁術えんじゅつの息子である王耀おうようの姿も同様にない。

 調べると斗は李粛りしゅくの軍に人質として連行され、洛陽らくように陣取る呂布の軍を目指したとのことであった。李粛は董卓を裏切り反乱軍にくみする予定だったので、おそらくどこかに匿われているはずだった。

 一方で王耀の行方を知る者は誰もいなかった。


 長安を出た呂布は東へ向かった。


 途中、進軍してくる李傕の軍をやり過ごした。見たところ士気が高い。王允の死の事実が漏れているのは間違いない。

 洛陽の呂布の陣を李儒りじゅと合同で破ったことで、李傕はしばらく足かせされることになったはずであった。闇に味方を葬ることの多かった李傕であったが、董卓の娘婿まで手をかけることはできない。できないことが足かせとなるはずだったのだ。それを決断させた者が李傕の陣容にいるようだ。李傕が長安を目指して動いたということは、おそらく李儒はもうこの世にはいないだろう。

 進軍の中には派閥抗争で敵対していた郭汜かくしの姿もあった。長安の奪還に向けて手を握ったのであろう。こうなると董卓軍の中でも精鋭の騎馬隊である。野戦では数で勝っても長安の反乱軍に勝ち目は無い。しかし、城に籠り騎馬隊の有を消すことに没頭すれば補給の苦しい李傕の軍は撤退せざるを得なくなる。

 籠城に必要なのは武ではなく、まとまりである。気持ちがひとつになることが最も肝要なのだ。その意識が薄ければ内から崩れることになるだろう。


 洛陽の西、弘農こうのうに着いたときには、長安は李傕の軍に落とされていた。


 反乱軍側についた董卓の武将たちが離反して李傕側に回った。城門を開いて李傕の騎馬隊を招き入れたのである。もともと強力な指導者や統率者を持たない反乱軍はバラバラとなり瞬く間に壊滅した。献帝けんていは李傕の手に奪還されることになり、董卓討伐の勅令は王允の詐称として片づけられた。

 李傕は即日、車騎将軍に任じられている。勝てば官軍。まさにその通りに事が運んだわけである。郭汜は後将軍、樊調はんちゅうは右将軍、張済ちょうさいは驃騎将軍と董卓子飼いの四将軍はこぞって要職に就くこととなった。


 弘農には李傕軍に撃ち破られた呂布の騎馬隊が手はず通り集結していた。数は半数の五千にも満たなかったが、腹心の張遼ちょうりょう高順こうじゅん共に健在である。

 ただ、斗を連行した李粛の所在は不明であった。長安に舞い戻ったという声もあれば、さらに東に向かったという話も聞かれた。


 長安には魯粛ろしゅくがいる。

 探索においてこの男の右に出る者はいないだろう。魯粛に任せておけば長安の動向は把握できる。長安に斗が捕らえられているという報を聞けばすぐに戻ればいい話だった。一度潜れた城にまた潜ることは容易なことである。

 問題は洛陽より東に連れ去られている場合だった。

 伝手つてが無い。東にはかつて汜水関の戦いで血を流しあった仇敵がひしめき合っているのだ。呂布の手助けをするどころか殲滅するための兵を向かわせてくるに違いない。


 頼れるのは揚州ようしゅうの州都を拠点とする袁術えんじゅつしかいない。


 袁術とは洛陽に都があった頃に朋友の契りを結んでいたほどの仲である。董卓を

討ち、王允がいない今、呂布と袁術の間には障害など無い。

 呂布はこの際、袁術の部下となり先鋒を務めても良いと考えていた。五千の騎馬隊は天下最強の兵である。例え五万の敵が立ち塞がろうとも瞬時に撃破する力を持っている。

 寿春じゅしゅんには十万を超える兵が集まっているという噂であった。これに呂布の軍が加われば鬼に金棒である。近隣に逆らえる者はいないだろう。

 袁家の家督を未だに袁紹えんしょうと争っているようだが、呂布が加われば袁紹も黙って従うより他にない。そうなれば袁術の勢力は五十万を超え、長安を占拠し、天下に号令する力を有するようになるのだ。


 無論、袁術にその気があればの話だが。




 天下とは何であろうか。




 将来さきを見ても呂布の胸裏には空しい風が吹くだけであった。




 娘を探し出す。


 今の呂布にはそのことだけが生きる目標であった。


袁術と呂布の再会は。

阿斗は一体どこに連れ去られたのか。

いよいよお話は中原に割拠する群雄たちの壮絶な戦いへ。

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