第11回 地下牢
ついに遭遇・・・
第11回 地下牢
黴と糞尿の匂いがたち込める地下牢。地下三階の一角、蝋燭のわずかな光だけがじっとりとした闇を照らしている。
男は微動だにせず中央に胡坐をかいて座っていた。約一年に及ぶ牢獄生活で髭や髪は伸び乱れ、皮膚は汗と黴でどす黒く汚れている。飢えて死ぬことのないよう食事は日に二度与えられていたが、野草をそのまま食すに等しい。身体はガリガリに痩せて骨だけがくっきりと浮かび上がっていた。それでも瞳に宿る命の火は滔々(とうとう)と灯し続けられている。
男の名は攸と言う。時の大将軍、何進に招かれ黄門侍郎を務めていたが自ら職を辞した。宮廷の混乱に乗じて西方の雄である董卓が洛陽の都を占拠し新帝を掲げて権勢をほしいままにするようになったからだ。
彼は帝への忠義において他に類を見ないというほど苛烈な荀家の一族である。政界の去り方も尋常では無い。饗宴の場で太師である董卓に斬りかかり捕らえられ、血を吐くように諫言を叫んだ。このことで荀攸は官位を剥奪され牢に入れられると同時にその名声を高めた。
処刑の前日に重臣子息らによる董卓暗殺計画が実行され失敗に終わったものの郿城に混乱が生じ、この荀攸への刑の執行は延期されていた。
今日が死刑執行の日かもしれない。
捕らえられている多くの同志がそんな恐怖に日々苛まれ自害するものが絶えない。死への恐怖を打ち消そうと喚き散らす者が大半の中で、荀攸は岩のように押し黙っている。動くことも無くほとんど喋ることも無い。やがて牢の中にいたものたちは次々と獄死して牢から遺体となって出ていったが、この荀攸だけはしぶとく生き残り今日に至る
希望など何もないはずなのになぜ荀攸は生き続けるのか。
他の牢に住む受刑者たちはそんな荀攸に奇異の目を向けている
誰かが獄卒が寝静まったのを見計らって通路越しに荀攸に話しかけたことがあった。
「公達(荀攸の字)は何を待っているのだ。」と。
荀攸は齢三十六と帝の側近のなかでは歳若であったから皆に字で呼ばれることが多かった。
荀攸は他人に対するとき目を開くことが滅多に無く、このときも両目を伏せたまま
「帝に奉公し国の発展にこの身を捧げた以上は最期のひと時までこの命を無駄にはできない。」
と答えたという。
さすがは荀家と一同は賞賛した。
賞賛した同志たちもやがて皆この世を去った。心も体も衰弱し董卓への怨念を唱えながら死んでいったのだ。
専権の董卓に恨みを持つ者や勤皇の志から董卓暗殺を企てる者が後を絶たず、日替わりでたくさんの人間が入獄してきた。
どういう指示がされているのか、荀攸の牢だけは獄徒が補充されることはない。
七人は使用できるという広い牢の中央で荀攸は瞑想した。他人とは真逆で自らと対するときだけ荀攸は両目を開いた。
一説によるとこの時荀攸は百年先の世の中まで見通したという。長い時間をかけて想像の中であらゆる情報と可能性を建設的に組み上げ中華の歴史を創り上げていったのだ。荀攸の親友である同郷の鍾繇だけは荀攸の思い描く世界を聞いて知っており、確かにその通りに時代が動いていくことに驚愕したと言われている。
「荀攸様、ついに勅が、勅が下されました。」
牢屋越しに話しかける者がいた。郿城を守る衛兵の身でありながら、荀攸が独り言のように毎晩説く志にほだされて親身に世話をしている杜畿という男である。獄卒の長を務めていた。
「伯候(杜畿の字)よ、その勅を受けたものは誰ぞ。」
両目を閉じたまま荀攸は尋ねた。頑健な身体つきを震わせながら杜畿は答える。
「呂布でございます。」
「呂布・・・。そうか、討伐の軍兵を欺き郿城に潜っていたか。」
「そのようです。」
「伯候は不服のようだな。呂布殿と何か因縁でもあるのか。」
杜畿は掘りの深い顔を歪ませながら、
「同郷の私の友がふたり、呂布に首を刎ねられました。」
雍州の京兆が杜畿の生まれである。この長安周辺は杜畿の庭のようなものであった。
「経緯は。」
「詳しくはわかりません。将軍である張済様の下で働いておりました。逆賊を捕らえそこなった罪と言われています。逆賊は呂布に斬られ、その後に友も呂布の独断で殺されました。」
逆賊とは董卓に逆らった清流派の官徒のことであろう。王允と親しくしていた者に違いない。失敗したため呂布が口封じに斬ったのだろう。秘密を漏れ聞いた可能性のある杜畿の友もまた呂布に邪魔者として消された。推理と想像を基に荀攸は瞬く間に物語を組み上げた。
「恨んでいるのか。」
「いえ。ですが信用のできない男です。平気で主君を裏切ります。己の欲望を満たすため常に二心を抱いて働いているのです。忠も義も呂布の心の内にはありません。」
杜畿の口ぶりからは、そんな軽薄な男に帝の勅が下されたことが不満の様子であった。しかし荀攸の見立てとは大きくかけ離れている。これまでの行動を見る限り呂布ほど己の信念に率直に従っている者はいないと言えた。しかもそれは立身出世のような私欲とは違い、儒家の価値観に近い。呂布は忠も義も持ち合わせてはいないが、孝の心は人一倍強いように思えた。王允との交わりは権力や権勢とは異質なものであり、むしろ親子の情に近い。故にその結びつきは深くて強い。つまり正論や志など呂布の前には無力なのだ。親子の情とも言うべき縛りがある限り呂布は盲目だと言っても過言では無い。しかし迷いはない。純粋な赤子のように駆けたいときに駆け、斬りたいときに斬る。帝が起死回生の一手を打つ際に呂布を選んだのも荀攸には頷けた。自分がその立場にあったら間違いなく呂布を選んでいるだろう。王允のためなら呂布は平気で董卓を斬る。
「呂布では長安はまとめられません。逆に帝のお命が危険に晒されることになると私は思います。」
杜畿ははっきりと自分の意見を話す。どんなときであってもだ。裏表がない。そんな印象を相手に強く与えた。荀攸もそんな杜畿の性格を愛していた。
「一時の革命は成功すると伯候は考えているのか。」
「はい。太師様(董卓)の腹心のほとんどがこの都を離れています。残った者のほとんどが勅に従うことでしょう。これを支えきれる武勇の持ち主も知略の者も長安にはいないのです。転覆を謀るにはまたとない好機。」
「しかし呂布殿の精鋭一万は洛陽にて討伐軍に破れたと聞く。洛陽に殺到していた李傕や郭汜の兵がすぐにでも長安に戻ってこよう。」
「それがそうはいかないようです。敵を向かえれば一枚岩でも、その目標を失えばたちまち瓦解する恐れが今の太師様の軍にはあります。特に李傕様と李儒様の確執は仇同士の間柄と言っても言い過ぎではありません。ましてや今は太師様の抑えが効かぬ有様です。後継者を目論む両者にとっては相手を潰しておくこのうえない好機。」
これを聞いて荀攸は大いに頷いた。そしてこの杜畿を獄徒相手に仕事をさせるには惜しい人材であると改めて思うのであった。視野が広く思慮深い。一郡を治める器である。
「伯候の口ぶりでは董卓が殺されぬ限り李傕らは戻って来ないと聞こえてくるな。いや、むしろそれを李傕らが待っているとでも言うべきか。」
口に出してみて荀攸もハッとした。神算とも呼ぶべき智謀の一端を垣間見た気がしたのである。果たして誰が謀ったのか、それは自分を凌駕する知恵者の存在の発見でもあった。
「荀攸様、私はいかがすればよろしいでしょうか。」
苦悩の表情で杜畿は尋ねた。己の信念である忠と義の板挟みにあって苛まれているようだった。董卓は杜畿を引き立ててくれた恩義のある主君なのだ。勅が下って大義が示されたからといって猫の目のようには立場を変えられないのであろう。
「いかなる時も己の使命をまっとうすべきだ。」
即座に荀攸はそう答えた。ひとたび董卓に忠誠を誓った以上は最期までそれを貫くのが臣下の道である。
「わかりました。名に恥じない働きをいたします。この地下牢を死に場所と心得ました。」
やや落胆した面持ちで杜畿が答えると、荀攸はついに両目を開き
「伯候よ、お主の死に場所はここではない。儒において最も大切な徳目は忠でも孝でも義でもなく、仁。仁とは相手を思いやる気持ち。そこから湧き出る行動こそが他を凌ぐのだ。お主は仁の心に溢れている。お主の使命はこの仁の心でこの長安を守ること。長安に住む人々を救うことだ。立て、伯候よ。今こそ己の使命をまっとうするのだ。」
それを聞いて杜畿は涙を流して喜んだ。そしてどんなに混乱しようとも必ず荀攸の身を護ることを約束し、牢を後にした。
一方、郿城の本丸の占拠、太師董卓誅殺を目指す呂布たちは正門から堂々と入城していた。郿城警護の者たちの中でも涼州の地で旗下に加わったのではなく、杜畿のようにこの長安周辺で旗下に加えられた者たちは挙って勅に従っていた。
その者たちが門を開いたのである。
腹心の四人以外に呂布に付き従う者は三百名を超えた。軍勢が正門から入城すると
「悪逆董卓を討てとの勅が下った。逆らう者は逆賊と見なす。逆賊は親類縁者皆殺しにあうぞ。帝の勅令じゃ。董卓を討つ。」
そう叫んで各方面に散っていった。
呂布は腹心他数十名を連れて地下牢への階段を下っていく。
王允が捕らえられている階は地下七階。立ち塞がる衛兵を斬り捨てながら暗闇の中を猛進していくのであった。
やがて目的の階に到着すると呂布の歩みが止まった。
腹心の郝萌や成廉が返り血で真っ赤に染まり息を乱しているのに対し、先頭を進む呂布はその斬撃の鋭さと威力から一点の血のりも浴びていなかった。それを見て若輩の候成が感嘆する。呂布の圧倒的な魅力はこの暴とも呼ぶべき武であった。それが特に若者たちの心を酔わせる。
その呂布がここに至って虎の様な唸りをあげた。
目前には天井から吊るされた裸体の子どもの姿があった。辛うじて女であることが判別できるほど酷い惨状である。手足の腱は切り刻まれ、爪は両手両足共にすべて剥がされている。両目はえぐられ、鼻は切り捨てられ、舌は抜かれていた。小さな乳房には数十本の釘が打ち付けられていた。常軌を逸する拷問の末にこの娘は息を引き取ったのに違いない。候成は息を飲んでその遺体を見つめた。
「貂蝉・・・」
呂布が僅かに口を開いてそう漏らした。遺体は都一の美女とも呼ばれた王允の孫娘、貂蝉のものだったのだ。
貂蝉は幼子の頃から事あるごとに呂布にじゃれてきた。羅刹とも夜叉とも呼ばれて恐れられた呂布にそのような真似ができるのはこの世に貂蝉だけだった。王允の孫ということもあり呂布も自らの娘のように接してきたのだ。愛しい存在であった。貂蝉の将来の夢が呂布の妻になることだと人伝に聞いてからはその想いが一層募った。
そんな愛らしい貂蝉が烏たちについばまれた死骸のような躯を晒している。
次第に呂布の唸り声は大きく、強くなっていった。
「奉先(呂布の字)か。」
聞き慣れた愛おしい声。父とも慕う男の声が闇の中から聞こえてきた。今にも絶えそうな細々とした声だった。
「奉先だな。」
返答がないことに焦れてまた呂布を呼んだ。呂布は瞬きひとつせずに声のする方を凝視している。
「なぜ答えぬ奉先。こうして両目をえぐられようともお前の足音は確かに聞き分けられるのじゃ。奉先よ、我が息子よ、答えてくれ。」
呂布の口から洩れるのは獣の唸り声だけであった。
「貂蝉を見たのか。褒めてやってくれ。国のため、帝のために貂蝉は見事に死んだのだ。誇りを胸に死んでいったのだ。」
聞かずとも呂布にはわかっていた。
玉璽の在処を聞き出すため、獄卒たちは王允を拷問にかけるだけでなく孫娘の貂蝉まで拷問にかけた。貂蝉がどんなに悲鳴を発しようとも王允は一言も口を開かなかったであろう。それほどの信念を王允は有していた。泣き叫ぶ孫娘の姿を毎日のように見せられ、開かされても王允は決して吐かなかったに違いない。やがて貂蝉は疲れ果てて死んでいったのだ。この暗く湿った地獄のような地下で激しい苦痛とともに寂しく死んでいった。
呂布の唸りが咆哮に変わった。
長剣が凄まじい風圧とともに闇を斬った。
青銅の格子が音をたてて床に転がる。
血走った目で呂布はその先に踏み込んだ。
「奉先よ、我が息子よ、よくぞ来た。貂蝉の死を無駄にするわけにはいかぬ。再度打倒董卓の兵を募り、政の舵手を奪い返すのじゃ。わしを連れて郿城を脱出せよ。偽りの玉璽を掲げた者たちを率いて長安を攻める。フフフ、真の玉璽を奉先が持っていることなど奴らが知りようはずがない。帝の後継を夢見る馬鹿どもを扇動して董卓を転覆せよ。」
漆黒の闇に王允の狂気の叫びがこだました。
「今こそ漢帝国を復興し、儒を柱にした清流の政を実現させるときじゃ。それこそが我が志。それこそが貂蝉の夢。それこそが奉先の・・・」
呂布の長剣が唸りをあげた。
闇を斬った。
王允の断末魔が僅かにした。
静寂の闇が訪れた。
呂布がまた闇を斬った。
己の心を斬り捨てた。
最愛のひとを失い、呂布はどこへ向かうのか・・・
次回乞うご期待




