第35回 陳紀の槍と雷薄の弓
第35回 陳紀の槍と雷薄の弓
どこからか梟の声が聞こえてくる。
耳を澄ませば十色の虫の音が騒がしい。
満月に照らされた山は寝静まる気配さえない。
「殿、この方角で間違いないのでしょうか。」
すぐ前を進んでいる旗本筆頭の陳紀が辺りに気を使いながら小声でそう話しかけてきた。
山に入り、もう十二日が過ぎている。
夜に行軍し、朝日が昇れば隠れて眠る。
李傕軍の追手には未だ出会ってはいないが、落ち武者狩りを企んでいる野盗や地元の農民たちからは何度か襲撃を受けた。その度に兵の数は減り、すでに百を割っている。
日が沈んで目を覚ますと三十の兵が姿を消していたという日もあった。
逃散を目論む兵たちに寝首をかかれずに済んでいるのは、この陳紀の警護があればこそだ。おそらく俺の半分の睡眠時間もとってはいない。
「子橪(陳紀の字)よ空を見よ。何が見える。」
「はい。星が見えます。」
「七日前よりも見える星の数が少ないであろう。」
「確かに。」
「ほれ、月が強い輝きを放っているからよ。」
「なるほど。あの月の光のせいで他の星は輝きを失っているのですか。」
「そうじゃ。望の月が夜の空に輝くのは真南と相場が決まっておる。あそこを目指して進めば汝南には着くだろう。」
「殿は星見もされるのですか。」
「宮廷仕えの時に少しかじった程度のことよ。陳宮という変わり者を覚えているか。そいつが俺にいらぬ知識ばかりを教えにくるのさ。」
陳紀は洛陽の侠仲間のひとりで、俺が都を出奔する際に付き従ってくれた三十人のなかの数少ない生き残りである。他に董卓の追手から逃げ延びたのは紀霊、張勲、橋蕤の三人だけだ。
「私が殿の旗下に加えていただいたのは紀霊殿などより随分と後でしたから、陳宮様のことはよく存じてはおりませぬ。」
虫の音と同じくらいの音量で陳紀は話を続けた。その左腕は二か所深い刀傷を受けていた。どちらも俺の寝首を狙う味方の襲撃によってだった。
「そうか。あいつは侠の仲間との交流を極端に避けていたからな。骨の髄まで役人堅気という男よ。」
「しかし呂布様とは親交が厚かったと聞きました。」
「呂布か・・・そうだな。人見知り同士気が合ったのかもしれん。呂布とまともに話ができたのは俺と陳宮、そして司徒の王允ぐらいなものだったしな。陳宮の会話に付き合っていたのは俺と呂布ぐらいなものか。」
「洛陽の北に巣食う屈強な侠人二千を陳宮様の策と呂布様の武勇で撃退したとか。」
「ははは、そんなこともあったな。懐かしい話だ。もう随分と昔のことだぞ。」
「殿、お声が大きすぎます。」
「おお、すまぬ。しかし、その時の相手が、これから向かう汝南で我らを待ち受けている劉勲とは・・・まったく人の運命とはわからぬものよ。」
「殿、劉勲を信用してはなりませぬ。あの男に忠義などあろうはずがございません。時がくれば必ず裏切ります。くれぐれも油断なされるな。」
「そうか・・・わかった。心得ておく。」
周囲に放っている斥候の半数以上が戻ってこない。
野盗の群れに見つかり殺されたか、それとも見切りをつけて逃げ出したか。
どちらにしても周辺の情勢はまったくわからない。
脚の速い男を選別しいち早く汝南へと向かわせているが、そちらの音信も不通だった。
頭の上で風を切る音が幾つかした。
と、目前でバタンという人の倒れる音。
振り返ると背後を歩く雷薄が弓を構えていた。その矢はすでに放たれている。
先の暗闇で何かが動いた。ひとつやふたつではない。
「殿、囲まれております。」
陳紀が寄り添うように俺の近くに立った。
雷薄がまた矢を放つ。
短い悲鳴とともにガサッという茂みを掻き分ける音がした。
雷薄に従う弓箭隊が六人いて、それぞれが標的に向かって射た。
誰ひとり的を外さず、敵影は地に倒れた。
「百はいますな・・・殿、剣を抜いてください。」
陳紀が俺に戦いに加わるよう促した。
俺は、中常侍を含む宦官たちを根絶やしにしようと洛陽の宮殿に乗り込んだ時のことを思いだしていた。
三人斬った。
初めて人を斬った。あの感触と生臭い血の匂いは今も消えずに俺の魂に沁みついている。
人を斬ることも、剣を振ることも、やはり俺は好きにはなれなかった。
慣れれば別なのだろうが、こんなことに慣れるなど御免こうむる。
「殿、ここまでついてきた兵のうち二十人が敵に寝返ったようです。どうやら初めから埋伏されていた敵の間者だったようです。」
斥候の報告を聞いた陳紀が俺にそう伝えてきた。
その間者が満を持して正体を明かしたとなると、どうやらここが正念場のようだ。待ち伏せしているのは敵の主力なのだろう。正体を明かした間者たちも含めて総攻撃を仕掛けてくるに違いない。
敵も矢を放ってきた。
意外に弓勢が弱かった。
それだけでも精鋭の敵ではないことがわかった。
木の陰に避難していた雷薄が応戦する。
東で喚声が聞こえた。
西からも喚声や剣と剣がぶつかり合う金属音。
東の敵兵は真っ直ぐにこちらに突撃を仕掛けてきた。
陳紀が槍を構える。満月に照らし出された敵兵の姿がはっきりと見えた。
雷薄の矢が先頭を進む敵の胸板に突き刺さる。
陳紀の槍が唸りをあげて数名の敵をなぎ倒した。
その間隙を縫って三人の敵兵が俺の目前まで現れた。さすがに敵も今の俺の姿を見て敵方の総大将とは判別できない。
敵が握っている武器の刃が月光に煌めく。
それでも俺は佩いている剣を抜かなかった。
いや、抜けなかった。
敵影のひとつは背後から陳紀の槍に貫かれて倒れたが、残りのふたつがこちらに迫る。
月明かりに照らされたその表情はまるで血に飢えた獣だった。
身には甲冑ひとつまとってはいない。
泥と糞尿にまみれた姿。
目だけが強く光っている。
流民か・・・。
絶対絶命の危機だというのになぜか俺の頭の中だけは冷静な風が吹いていた。
敵兵の動きに合理性が無い。
戦いの経験が少ない証だった。
俺は敵の振るった刃をかわした。がむしゃらで乱暴に振っている分だけ速度は遅い。無駄に力が入っているからなのだろう。だからかわせた。
もうひとりが喚き散らしながら突進してきた。槍の穂先が俺の衣服を切り裂く。
寸前で俺は身を翻してかわしていた。
俺の身を守るため駆けつけようとする陳紀の前に新手の敵兵が姿を現す。陳紀の雄叫びが明らかに焦燥の感が強かった。
俺はひとりだった。
敵の振るった刃が俺の頬をかすめた。痛みより先に血が目に入ってきた。
相手は力いっぱい剣を振った勢いで転倒した。
目前に敵の首。
月の光で青白く見えた。
斬る。
そう思って柄に手をかけるのだが、なぜか剣が抜けない。
何かが俺の身体を支配している。精神の中で、鎖のようなものが俺の動きを束縛していた。
風を切る音。雷薄の矢を受けて倒れたのは、俺を背後から襲おうとした味方の兵だった。
西の歓声が止んだ。
その方向から現れたのは血まみれの男ひとりだ。その姿に見覚えがあった。確か、紀霊の部隊の男だ。そう、名前は凌操。恐ろしく槍を使い、紀霊に抜擢されて先陣の副将を務めていたはずだ。
「目には目を。歯には歯を。間者には間者を。」
凌操がこちらを見てそう叫んで笑った。白い歯が闇に浮かび上がる。
凌操は敵に寝返った二十人の中に入り込んでいたのだろう。そしてそれをひとりで撃破したようだった。裏切り者全員に死の鉄槌を下した。
気が付けば敵の生き残りは逃げ去っていた。
虫の音は消え、傷を負った兵たちの死にきれないうめき声だけが山に響く。
俺はひとり、剣を抜かずに済んだことに感謝していた。
夜が明けようとしていた。
そして汝南の地に到着した。




