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第29回 曹操からの条件

第29回 曹操からの条件


 豫州よしゅう潁川えいせん


 中華の歴史の中で、星の数ほどの名臣を生んできたこの潁川に荀彧じゅんいくは育った。

 独特な風土を持った土地だった。

 誰もが崇高な理想と志を掲げ語り合い、ぶつかり合って切磋琢磨する中で互いの政治力を高め合う。まさに天下のまつりごとを担う躍動的な人間をはぐくむ場所。

 しかし、それが今や獰猛な董卓とうたく軍の侵略を受けて家屋は焼かれ、田畑は踏み荒らされ、潁川の多くの民は傷付き逃散していた。火と煙が未だに立ち上っている中に累々と遺骸が横たわっているという見るも無残な惨状である。

 潁川に生きるおとこたちは儒学を重んじ、清廉潔白を誇りとしている。権力を一手に握った董卓におもねる者などほとんど無く、むしろ命をかけて皇室再建を果たそうとする者ばかりであった。

 当然の事ながら董卓の憎しみをかった。

 名家として有名な荀家や審家などはいち早く潁川を脱出していたものの今回の騒動で殺された儒子は大勢いる。国家としては大変な損失である。


 荀彧は白馬義従はくばぎじゅうの陣形の内側にいた。

 剣を帯びておらず、鎧もまとってはいない。北方産の馬に跨り、ただ一騎、満身創痍の袁術えんじゅつ軍の旗本に合流していた。

 公孫越こうそんえつの騎馬隊一万二千騎が、その周りを一定の間隔で駆けまわっている。

 激しい訓練を受けていなければ、瞬く間に自壊してしまうという高度な陣形「車懸くるまがかりの陣」。

 敵軍の李傕りかくはこの陣を攻略しようと全軍を散開させている。

 総攻撃は時間の問題であった。

 「袁将軍。お待たせいたしました。荀彧、只今戻りました」

荀彧は馬から下り、片膝をついて袁術に拝礼した。

 主では無い。しかし目をかけてもらったという恩がある。

 袁術の兄であり冀州きしゅうの牧、袁紹えんしょうとの仲介役を依頼され、荀彧は尽力してきた。

 袁術と袁紹は家督争いの真っ只中であり、互いに周辺の諸侯を籠絡し、勢力拡大を謀っている。

 正面切っての争いは起こっていないので、和睦の使者というと語弊があるが、それに近い任務であった。

 二人の仲を修繕することは不可能と言ってもよいほどで、いかに饒舌の荀彧をしてもその実現は絶望的であった。それでも尚、袁術の使者として潁川の地を発ったのは皇室の現状を案じたからであり、遂行すれば漢の国の復興につながると信じてのことである。

 「よくぞ戻ったぞ文若ぶんじゃく(荀彧の字)。使者ご苦労であった」

土と汗と血にまみれた袁術が苦笑気味で荀彧を歓迎した。苦笑いを浮かべた理由は、その功に報いようとしても手元には褒美として与えられる物が何も無かったからである。

 荀彧の交渉が成功したかどうかは、この援軍の到着を見れば一目同然だった。

 荀彧は奇跡を起こしたに等しい。

 袁術の援軍である公孫越の白馬義従が、最北端の幽州ゆうしゅうからこの地に辿り着くためには、袁紹の領地を通過しなければならない。敵対関係にあれば袁紹がそれを認めることを絶対にしない。大軍を率いて阻止しようとするはずである。無事潁川の地に辿り着けたことは、荀彧の交渉が実を結んだ成果に他ならない。


 荀彧は袁術の顔を見つめ、曹操から突き付けられた条件について詳細に説明しながら、これまでの経緯を思い返していた。

 冀州の牧、袁紹の面会の許可は容易には下りなかった。

 十日が過ぎた頃にようやく許可を得たが、与えられた時間はわずかなものだった。

 袁紹は立派な体格と堀の深い顔を持っている男で、風貌は王者の格を有しているともっぱらの評判である。

 荀彧はその袁紹の目を見つめながら、国難に立ち向かい、国家再興のためにも袁家がひとつになるべきだと説いた。

 志を込めて熱く語った。が、袁紹は一切口を開かず聞いていただけである。

 耳にしていただけと言うべきか、反論することなど無く、頷くことも無い。

 君主たるもの重き責務を背負っている。常に寡黙であるべきだし荘厳な雰囲気を漂わすべきだろうが、荀彧には袁紹のそれが、鈍重に映って気がいた。

 袁紹はどんな言葉にも志にも表情ひとつ変えないのだ。

 空しく時だけが過ぎていく中、袁紹の心に響かせたと、いう手ごたえを荀彧は何一つ獲られなかった。

 袁紹には荀彧の思いをくみ取る受け皿が無い。

 それは国の行く末に対する志の欠如からくるものだと判断せざるを得ない。

 ただ名家に生まれ育ち、ただ広大な土地を支配し、ただ大軍を率いているだけの男だということだ。

 荀彧は戦法を変え、家臣団から崩そうと数名の幕僚と交渉してみたが、こちらも主君同様に決断が鈍く成果はさっぱりだった。

 いくら熱く語っても相手は渋い表情で熟考した挙句に結論は棚上げされる。その繰り返し。そもそも本気で相対してくれる者がいないと言ってもよい。

 家督争いの二人が手を取り合うなど、馬鹿げた提案だと荀彧も承知している。当然のように門前払いされることも多々あった。荀家の名声が無ければ誰も相手にしてくれなかったに違いない。

 諦めて豫州へ戻ろかとしたとき、地元の潁川が董卓軍に蹂躙されているという報を耳にした。同時に、近隣では南陽なんようの袁術だけが立ち上がり援軍に駆けつけたことも知った。どういうつもりで袁術が動いたのかはわからなかったが、その恩に報いるためにも荀彧としては意地でも袁紹との交渉を軌道に乗せなければならなくなった。

 ダメ元で他の家臣団とも接触した。

 その中に他の者たちとは毛色の違う男がいた。

 田豊でんほうという名で、袁紹の参謀のひとりである。

 影の濃い男で会話をしていても笑顔ひとつ見せない。一度たりとも視線を合わせることもしない。

 「袁紹殿は御輿。ここの家臣などその飾りだ。担いでいる男はこの地にはいない。御輿の進路を変えたいのならば黄河を渡り兗州えんしゅうへ向かうがよい。」

 田豊は担いでいる男の名前を出さなかったが荀彧には心当たりがあった。

 兗州の東郡とうぐん太守である曹操そうそうである。

 袁術の陣営における孫堅そんけんのように実働部隊を率いている男だ。

 荀彧は辿って来た道を戻り東郡の曹操を訪ねた。

 袁紹の陣営で最も武断派と呼ばれている男だったので、筋骨隆々のいかめしい武将を想像していたが、会ってみるとまるで印象が違う。身長はむしろ小柄で線も細い。艶やかな髪の間に輝く宝石のような瞳を大きく見開いていた。肌も白く、都でも相当な伊達男として名を馳せていたほどの美男である。武人としての雰囲気は無いに等しい。

 表情もいたって柔和で、気さくに初対面の荀彧との会話を楽しんでいる。

 歳は荀彧より上で、袁術と同じ三十五だが、好奇心旺盛なその表情は青年そのものであった。

 それがひとたび戦場に立てば変わるのだろうか。

 黄巾の乱では幾つもの激戦地で手柄をたて一躍時の人となった。

 反董卓連合では敗北したものの、先鋒として果敢に徐栄じょえいの陣を攻め、また洛陽への一番乗りを果たしている。

 将としての功績は現存する名だたる将軍たちに勝るとも劣らない。

 しかし荀彧との会話の中では血なまぐさい話は全く出てこなかった。

 荀彧としても戦にはまるで興味が無いので内心ほっとしていた。

 話題は多岐に渡り、料理や農耕の話から文化、芸能の話、美女の話で盛り上がったかと思うと宗教の話に展開した。

 政治の話や志の話を熱くしていたかと思うと、途端に最近人気の人相鑑定の話になる。

 話題の豊富さもさることながら、ひとつひとつの知識の裏付けの深さに驚いた。 古代の戦略家の兵法書に注釈をつけ加えたのだと言って紹介したかと思うと、直後に医や薬といった荀彧も知らぬ世界の話になる。席を立ち上がり見事な歌を納めた後で、場所を移して卓越した伎楽を披露した。

 知識だけの枠に収まらず、それを体現できる能力も驚くべきものであった。

 やがて袁術と袁紹の手打ちの話に至ると、わずかに思慮しただけで笑いながら二つの条件を提示してきた。

 「ひとつは本初ほんしょ(袁紹の字)に援軍を出すこと。もうひとつは豫州を俺にくれ。それでこの話はまとまる。楽な話さ」

 荀彧はそれを聞いて不服そうな表情を浮かべた。当然だ。この条件は曹操にこそ利があれど袁紹には利が無い。深慮遠謀の袁紹がこんな話を飲むとは到底考えられなかった。

 しかし曹操は俺に任せておけと云って、冀州のぎょうに出向いて行った。 それから程なくして、南皮なんぴで足止めをくっていた公孫越の軍の通行許可が下りたのである。

 曹操がどうやって袁紹を説き伏せたのかは謎だったが、荀彧はこうして任務を全うしたのである。

 曹操が近所のお使いにでも行くような軽装で冀州に出かけて行くときに残した台詞が印象的だった。

「安心しろ。俺が必ず潁川を立て直す。帝を迎えてこの国の中心にしてやろう。だから俺に手を貸せ荀彧」

不遜な言いぐさであったが、強烈に突き刺さってきた。

 潁川に帝を迎えて国を盛りたてる。思

 いもよらぬ提案。

 しかし潁川の民にとってこれ以上のほまれは無い。

 荀彧の胸が高まった。

 それは類まれな行動力を発揮した曹操への羨望と相まっていつに無い興奮を荀彧にもたらせていた。

 時の人物評論家である許劭きょしょうから「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された男、曹操。荀彧はこの時から曹操の魅力に憑りつかれたと言ってもよい。


 「生憎あいにくだが今は文若の功に報いられる物を有してはおらぬ」

俺は素直に詫びた。

 「承知しております。私の願いは以前お伝えしたはずです。帝を長安からお救いし、袁将軍に盛り立てていただくこと。褒美などいりません」

「うむ。文若との約束忘れはせぬ。その忠義さすがは荀家よ。しかし、俺の軍も董卓軍の前に風前の灯火。拠点としていた南陽も落ちた。文若の願いを聞き届けることは難しいかもしれぬ」

「袁将軍が南陽をお捨てになってまで潁川へ援軍に来られたことには大変感謝しております。ですが、ここは一端お退きなされ」

「退く?退く場所など俺には無い」

汝南じょなんを通り、揚州ようしゅうの州都、寿春じゅしゅんへ向かうのです」

「寿春・・・縁もゆかりも無い場所だ。徐州じょしゅう陶謙とうけんしきりにそう言って誘ってきたがな」

「袁将軍はここで董卓軍と対峙し、何を狙っているのです。自暴自棄な戦いだと笑う者もおりますが、私には敵主力を引きつけ時間稼ぎをしているようにしか見えません」

「ほう。文若の目にはそう映るか」

「しかしそれに連動した動きは聞きませぬ。長安を攻めた者もおりませんし、内乱が起こったという話も聞きませぬ。もし計画が頓挫とんざしているのであれば、これ以上の長居は無用と存ずる」

「頓挫・・・か・・・かもしれんな・・・。」

「袁将軍が全てを投げ打って遂行されようとした計画がどのようなものであるのか私にはわかりませんが、ここで諦め敵兵に討たれるようなことがあればそれこそ全てが終わり。寿春にて再興すればやり直しもききましょう。私もおのが志を諦めるつもりは毛頭ありません。再度出直し、あらゆる手を尽くして成し遂げる所存でございます」

「我が目標は、最高の官位まで昇りつめこの国の政を仕切ることじゃ。そのための袁家家督争い。そのための董卓との戦い」

「で、あれば決して諦めてはいけません。袁紹殿は袁将軍亡きあと董卓と単独で戦うことを恐れております。今回公孫瓉の援軍通過の許可を出したことでも明白です。董卓とて冀州の動きを警戒して揚州までは兵を入れられません。両者に割って入る隙は充分ございます」

「しかし、それでは董卓は討てぬ。この機会をおいて他に無いのじゃ」

「やはり董卓を討つ計画でございましたか。それで南陽を捨てられ自ら囮となったのですね。勝つためとはいえ危険な賭けでございますな」

「勝つためか・・・そうじゃな。勝つために俺は賭けたのじゃ、あいつに・・・。見事に賭けには負けたがな」

「あいつ・・・。その仇を討つためにもここはお退きください。公孫越殿の陣は敵を討つ破るための陣形ではありません。ここから脱出するためのもの。早くせねば陳留ちんりゅう方面に進撃していた郭汜かくしの軍が合流してしまいます。そうなれば持ち堪えるのは不可能」

「文若はどうする。お前も寿春に来るのか。それとも荀家は冀州に移り住んだというから本初のもとへ行くのか」

「いえ。私はどちらにも参りません。この地に帝を迎える準備を致します」

「ここに帝を迎えると?随分と突拍子も無い話をするの。そもそもどうやって董卓に捕らわれている献帝けんていを救うのじゃ」

「それは袁将軍にお任せいたします。私はその後の手配をするのです」

 そう云って荀彧が笑った。つられて袁術も笑う。

 「俺を踏み台にする気か。いいだろう。互いに思いを遂げるためこの地を去ろう。」

「はい。袁将軍、お達者で」

「最後にひとついいか文若。本初はなぜ公孫瓉こうそんさんの軍の通過を許した。俺が董卓への防波堤となるからだけではあるまい。あいつは見返り無しには動かぬ男。本初は曹操に相応の条件を突き付けてきたはずじゃ。お前にはそれが何か予想がついているはずだろう」

「・・・いえ。わかりませぬ。申し訳ありません」

 そう答えた荀彧の片目は閉じていた。


 汝南に配置された孫策そんさくの兵も巻き込む前代未聞の退却戦が始まろうとしていた。


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