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第26話 牛輔に対する張勲の八門金鎖の陣

目前に李傕軍、背後に牛輔軍。

絶体絶命の袁術軍。

第26回 牛輔に対する張勲の八門金鎖の陣


 前将軍として五万の兵を率いる牛輔ぎゅうほ、字は仲宣ちゅうせんには野心がある。

 義父ちちであり、太師として政治の全権を握る董卓とうたくの地位を受け継ぐこと。董卓軍三十万の頂点に君臨することであった。


 董卓は男子に恵まれなかった。現在生存する子はすべて女である。


 牛輔はそんななかで、董卓の正妻の娘と夫婦めおとになった。


 董卓は州牧まで務めた人物だ。


 通常であれば相応の格式のある家柄の男子と娶せるのだが、彼は血統や家格にこだわらなかった。

 董卓がこだわったのは個人の能力であり、もっと云えば執着心の強弱をみた。

 野望を有して向上心溢れる日々を送っているのかどうかということだ。現状の風習や通念をぶち壊しても己の欲望を果たそうとする「思い」や「行動」を指す。


 董卓の線引きはこの一点だけであった。


 牛輔も義弟おとうと李儒りじゅも、金や名誉を持ちえない貧乏な家の生まれである。従える兵も無く、頼る人脈も無い。


 それでも董卓の娘を嫁に貰い、牛輔ぎゅうほは前将軍の官位まで登りつめることができた。


 出世のためならば何でもしてきた。

 友を裏切ることもしたし、無実の人を幾らでも殺めてきた。

 一心に董卓の期待に応えてきたといってもいい。


 今では万を率いる将軍なのだ。

 五万の兵を率いるのは爽快だった。

 どんな命令でも軍令であれば彼らは従う。

 五万の兵の運命をすべて握っているのだと感じると、たまらなく心地よくなる。


 南陽なんようまでの行軍のなかで、感じの悪い兵卒や将校十人を処刑した。 

 誰も文句は云わない。

 南陽から潁川えいせんまでの行軍では、さらに倍以上の二十四人を処刑した。

 理由など幾らでもつけられた。


 五万の兵を従わすには巨大な力が必要なのだ。

 牛輔は、恐怖で兵を縛る選択をした。

 その恩恵もあって、何の気兼ねも無く自由に指揮が執れる。

 将校のなかでも牛輔に異を唱える者はいなくなり、まさに五万の兵は手足の如く動くようになった。 


 それでも牛輔は油断をせず、潁川に着陣をするなり五人の将校の首をはねた。

 兵の機動の遅延、隊列の混然さ、士気の鈍さ……それらはすべてこじつけに過ぎない。要は人身御供が必要なのだ。見せしめとなる生贄。それで五万の兵の統率は楽になり、思い通りになる。


 五万の人間の頂点に立つことがこうも快感ならば、三十万だとどうなるのだろうか。牛輔は想像するだけで口から涎がこぼれ、股間が熱くなった。


 これまで口うるさく命令をしてきた董旻とうびんや、獣のような目で威嚇してきた李傕りかくなどは、長安ちょうあんの都で公開処刑にしてやろうと決めている。目をくり抜き、指を一本ずつ切断していく。舌を斬り取り豚の餌にしてもいい。そして汚物にまみれた状態で死ぬまで放置しておく。


 董旻や李傕だけではない。血筋だけで成功を手にしてきた連中も同じ目にあわせていく。司徒や司空、太尉などの輩はどんな命乞いをするのだろうか。


 董卓に楯突く後将軍の袁術の拠点を落とした。


 目前には袁術の本陣がある。


 その首を討てば天下の形勢は決まるだろう。


 そしてその功を持ち帰れば、董卓の跡継ぎは牛輔に決まる。


 董卓は献帝けんていから譲位を受けて皇帝となり、牛輔は皇太子となるだろう。

 娘のはくの婿となる男は、いずれ牛輔から皇位を受け継ぐことになる。


 壮大な夢の実現が可能な状況にあった。手を伸ばせば掴むことができる。そして何千万という人間の命をこの手に握ることができるのだ。


 「袁術の本陣が動きました。先鋒同様、李傕将軍の陣に突撃を仕掛けています」

注進のその声で牛輔は我に返った。


 背後をがら空きにして、袁術は目先の李傕を攻めたというのだ。

 勝ち目など万が一にも無い。戦略も戦術も無い。ただ闇雲に攻めただけだ。


 牛輔の巫女の占いでは「攻めるは凶」とでていたが、この期に及んで手をこまねいている必要はなかった。


 「敵陣の殿しんがり張勲ちょうくん九千」

立て続けに伝令が届いた。目視できる位置に張勲の陣はある。動く気配は無く、じっと牛輔の陣を牽制していた。


 「張繍ちょうしゅうに攻めさせますか」

傍らの李儒がそう尋ねた。


 張繍は牛輔の先陣である。四将軍の一角、張済ちょうさいの甥でもある。

 騎馬隊の統率は董卓軍の中でも五指に入るだろう。

 おそらく九千の殿しんがりなど物ともしない。張勲の陣を突破した勢いで袁術の首も討つことになるのではないだろうか。


 「本陣を動かし敵陣を攻める。張繍は後詰として残せ」


 牛輔は自らの手で袁術の首をあげたかった。

 夢の実現はそれで一層現実味を増す。


 「文優ぶんゆうよ(李儒の字)。お前も張繍と共にここに残り後背を警戒せよ」


 牛輔の指示を聞いて、李儒は青い顔をして伏せた。


 李儒の企みなど牛輔はとっくに気づいている。

 影でこそこそ動き回り派閥を作っていた。

 誰が李儒に協力しようとしているのかも牛輔は掴んでいる。とるに足らない相手ばかりを相手にしているようで、旗上げしたところで簡単に潰せるような陣営だった。

 表面上は義兄あにに服従している素振で、裏ではその転覆に全力を注いでいるというわけだ。

 そういった図太さを買われたからこそ董卓の娘を手に入れることができたのだろう。


 野心とは諸刃の剣なのだと牛輔は思った。


 「かしこまりました」


 そう答えて李儒は下がった。その表情には明らかに牛輔に対する憎しみが浮かびがっていた。

 「文優頼むぞ。敵は袁術だけではないからな」

そう云って牛輔はほくそ笑んだ。そして内心では、いつか李儒も公開処刑にしてやろうと舌なめずりするのであった。


 李傕の陣は混戦としていた。弱兵と侮っていた袁術の兵卒が命を惜しまず戦っていたからである。


 先陣は紀霊きれい橋蕤きょうずい

 その後に袁術本陣が続いていた。 


 兵糧も不足し、退路も失っているなかでここまで強靭な力を発揮できたのは、残った兵のほとんどが董卓軍への復讐に燃えていたからである。血族や家族を董卓軍に殺され、命に代えても一矢報いたいという強い信念を持った兵が袁術軍には集まっていた。


 金目当てに募兵された性根の定まらぬ兵がさっさと逃げてしまった分、残った兵はひとつに固まり眼前の戦いに集中できたというわけである。


 退くことも無く、傷を負うことも厭わない。


 李傕の兵も精強ではあったが、侮っていた分だけ不覚をとってかなり押されていた。


 牛輔の騎馬隊が一気に後詰の張勲の陣に攻め寄せる。


 牛輔は一万の兵を残し、四万の兵を率いて袁術の本陣を急襲しようとしていた。 

 対する張勲の陣は九千の歩兵。


 「張勲とは陣形の組み方も知らぬのか。構うな、このまま袁術の首を狙い進むぞ」

 牛輔はそう叫びながら騎馬隊の先頭を駆けた。

 手には巨大な戦斧を持ち、西方の足腰の強い大きな馬に跨っている。


 牛輔が失笑したのも無理はない。

 張勲の陣は穴だらけで、戦わずとも突破できる隙が幾らでもあったからだ。その間を駆ければ張勲の背後に回ることもできるし、袁術本陣の背中を襲うこともできる。

 殿しんがりの役をまったく果たすことのできない陣形であった。


 「なんともろい敵だ。西涼せいりょう羌族きょうぞくとて、もう少しまともな戦い方ができるものを」


 無人の荒野を駆けるが如く牛輔は馬を進める。

 標的は袁術なのだから、張勲の兵など後詰の李儒や張繍に任せておけばよかった。このまま損害無しで袁術に追いつけることが最良なのだ。そうすれば確実に袁術の首は手に入る。


 駆けに駆けた。張勲の陣の隙間を縫って牛輔の騎馬隊はどんどん進んでいく。


 しかし一向に張勲の陣を抜けられない。


 地面を見ると馬蹄で荒れている。一度通った場所であった。


 空を見上げた。

 いつの間にか日差しが真正面にきている。北を攻めるつもりが南に向かっていたのだ。騎馬隊を率いて方角を誤ったことなど牛輔は無かった。


 ここにきて、この陣が単なる隙だらけの陣では無いことに気が付いた。

 牛輔の騎馬隊に合わせて点々と固まっている張勲の兵たちが計画的に動いている。


 「まやかしの陣か……やはり張繍に攻めさせるべきであったか」

牛輔はそう後悔したが、張勲の陣の核を潰せば陣は崩壊すると開き直り、副将の羌族の長である胡赤児こせきじに命じて攻めさせた。

 そして自分は三万の兵を率いて馬蹄で乱れていない路を選んで進んでいった。


 一方、張勲の陣には発案者の戯志才ぎしさいの姿があった。

 すぐ後方にはまだ少年の徐庶じょしょが従っている。


 「お師匠様。牛輔の兵が迷い込んでおります。まるで迷路です」

徐庶が歓喜してそう叫んだ。戯志才は至って冷静で、


 「この陣形は八門金鎖の陣といって、八つの入口を持っており、そのうち六つは侵入者を滅ぼすことができる。今、牛輔が侵入したのが杜門。ここから入ればどこに抜けても壊滅は可能です。しかし絶対の陣形などこの世にはありえません。よく聞きなさい元直げんちょく(徐庶の字)、残り二つの入口から侵入されればこの陣は瞬く間に崩壊します。敵が兵法に通じ、この陣を学んでいればまるで効果の無い陣となってしまうのです。今回は無学な牛輔相手で助かりましたが、いつもこうとは限りません。つまりいくさは兵法や軍略だけで決まるわけではないのです」


 「それでは兵の数ですか」


 「当たらずとも遠からずです。戦うのが人ならば、めいを下すのも人。人を無視して兵法を頼っても戦の勝利はありえません。いいですか元直、人を重んじる人物に仕えるのです。人と人との繋がりを大切にできる人物こそが戦を支配し、最後に勝つ者です。それは兵の数とも異なるものです。お前の知恵とこの八門金鎖の陣はそのような君主のために使うのですよ」


 「肝に銘じますお師匠様」


 「ほら見なさい。敵も気づいて兵を分けました。一万ほどが陣の核となるここを攻めています。しかし通過しようとしている牛輔の先陣がまもなく落とし穴に嵌りますよ」


 北の方角から地響きがし、土煙が空高く舞い上がった。以前から仕掛けている落とし穴の罠が上手く作動したのである。



 突然視界が揺らいだと思ったら、牛輔は深く掘られた穴に落ちていた。


 広大な面積に仕掛けられた落とし穴であった。


 三万の兵のうち先陣を駆ける五千ほどが罠にかかった。


 見渡してみるとそこらじゅうで馬のいななく声とともに兵が倒れていた。牛輔の自慢の馬も脚を折って倒れている。


 「小賢しい策を。穴から這い出れば代わりの馬など幾らでもいる。兵とて死んだ者などおるまい。こんな策は単なる足止め。大勢に変化は無い」

口に入った土を吐き出しながら牛輔はそう呟いた。


 五千ほどが乗れば落ちる仕掛けになっていたのだろう。牛輔が振り向くと罠にかからなかった味方の軍勢はずいぶんと後ろであった。表情どころか輪郭さえも見て取れないほど遠い。


 ここを頭上から矢でも射かけられたらかなりの損害になっていたであろうが、その余裕は袁術軍には無かったようである。寄せ手の姿も声も聞こえてはこない。


 「まずはわしが外に出る。お前たちは這いつくばって踏み台となれ」


 牛輔が辺りの兵を集めてそう命じた。中には手足の骨を折った者もいたようであったが、牛輔は気兼ねなどしない。


 「おのれ張勲。ここを出たら容赦はせぬぞ。袁術の首を獲るまえにお前の首をいただく」

 

 そう叫ぶと戦斧を振って近くに立っていた兵の頭を一撃のもとに叩き割った。


「早くしろ。時は金なりだ。お前たちの命以上に今は時間が大切なのだ」


 牛輔が兵の身体を踏みしめながら落とし穴から這い出た。


 「牛輔よ。待っていたぞ」


 眼前に騎馬隊が並んでいる。

 別動隊の胡赤児の兵だった。


 牛輔は真っ赤になって憤慨し、

「胡赤児よ、お前には張勲の陣を攻めるよう命じていたはずだ。なぜこんなところに迂回している」


 「何を偉そうに。お前が俺たち羌族にした仕打ちを忘れたわけではあるまいな。俺の母親は殺され、俺の妹は犯された。俺はお前に復讐できる機会を待っていたのだ」


 「裏切り者がどのような目にあうのか知らぬのか胡赤児」


 「いや。裏切り者はお前だ牛輔」

「なに?お前の言葉など誰が信じるものか」

「俺の言葉ではない。李儒様の言葉だ」

「李儒だと……おのれ、李儒の差し金か。日陰でコソコソと蛆虫め」


 「ええい、やかましい。お前こそが卑しい虫けらだ。その首、晒し物にしてくれる」


 胡赤児の薙刀が一閃、牛輔の首を刎ねた。


 首を失った牛輔の醜い身体は無言で落とし穴に消えていった。


 「よし。油を撒いて火を放て。生き証人は皆殺しにせよ」


 胡赤児が冷酷にそう命じると、一万の兵は途端に動き始めるのであった。

 


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