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第23回 紀霊と橋蕤の抜け駆け

潁川では李傕軍と牛輔軍に囲まれた袁術軍。

退路も断たれて絶体絶命の状況でした。

第23回 紀霊と橋蕤の抜け駆け


 豫州よしゅう潁川えいせん


 三国志史上、名高い名臣を数々生み出してきたこの地が今、激烈な戦場と化していた。

 皇帝の座を狙う董卓とうたくの征東軍に対するは、後将軍・袁術えんじゅつ

 騎馬隊中心の董卓軍の精鋭二万は四将軍筆頭の李傕りかくが率いており、虎視眈々と袁術軍の隙を伺っていた。

 袁術軍は五万に及ぶ歩兵中心の軍編成で堅く陣を守っていたが、度重なる李傕軍の突撃と本拠地である南陽なんよう陥落の報によって多くの兵が死傷、または逃散ちょうさんしていた。


 今残る袁術軍の兵は当初の半数以下、約二万である。


 その背後には南陽を落とし意気揚々と進軍する董卓の娘婿、前将軍の牛輔ぎゅほ五万が迫りつつあった。


 袁術軍の命運はまさに風前の灯である。



文優ぶんゆうよ、李傕の奴はなぜ攻めあぐねているのだ。全軍で突っ込めば簡単に袁術の首は獲れるだろうに」

あざなでそう呼ばれて補佐役の李儒りじゅが牛輔の前に進み出た。

 李儒もまた董卓の娘婿であり、信認の厚い重臣であるが、順序としては牛輔の義弟おとうととなる。自然、牛輔は自らの寄騎のような扱いで李儒に対していた。


 李儒の内心も穏やかではない。

 董卓が皇帝の座に就いた暁には、自分がまつりごとを司る丞相の位に昇る野望をもっている。牛輔派とも真っ向から権力闘争が可能な人脈と派閥を裏で作り上げていた。


 「怪しげな動きです。何か企んでいるに違いありません」

李儒は落ち着いてそう答えた。

 「我ら五万の兵は南陽を落とすのに兵をさほども失ってはおらぬ。このまま背後から袁術を襲えばその首級は俺のものだ。李傕がもたもたしているのならば手柄は俺がもらうことにしよう」

牛輔はニタニタした表情を浮かべながら云い放った。


 董卓からは手柄は二人で分け合うよう申し付けられていたが、あくまでも総大将は牛輔である。牛輔自身、そんな指示など頭の片隅からも消え去っている。それがわかっているだけに李儒としてはこれ以上牛輔に武功をあげさせたくはない。

 南陽を落とし、敵の大将である袁術を討ったとなると牛輔の威信は天にも届くものとなるからだ。

 

「確かに敵は二万。牛将軍の武威をもってすれば殲滅は可能です。しかし、討った後が問題です」

「なに?袁術を討てば征東は成ったも同然。後は長安に凱旋するのみではないか」

「南陽を落とし補給線を断った状況でも逃げずにこの地に留まっていられるのは並大抵のことではありません。敵兵はすべて命をして戦う覚悟ができているのです。これを討つにはこちらも相応の犠牲を払う覚悟が必要となります。こちらも同数の二万の兵を失うことになるかもしれません。そうなれば袁術の首を獲っても敗北に近い損害です」

「兵など長安に戻れば幾らでも補充はきく。たかが二万の兵ではないか」

「二万で済めば、の話です。手間取って三万、四万の兵を失えば我らは軍としての形を保てなくなります」


 「敵はもういないのだ。何が問題なのだ!」


 「李傕が手柄を奪われて黙っているはずがありません」

「どういうことだ。奴が謀反を起こすというのか。それはあり得ないことだ」


 ここで李儒が目を閉じて一呼吸おいた。


 牛輔がじれったそうにそんな李儒を睨みつける。


 「袁術軍を大方討ち果たした後で李傕が乱入してきて牛将軍の首を討つ。そして手柄を独り占めする。それぐらいのことは平気でする男です」


 「ば、馬鹿な……そんなことを太師様がお許しになるはずがない」


 「真実は時に力によって捻じ曲げられます。この軍が消滅してしまった後ではいくらでも理由はつけられると考えているのかもしれません。これまでも李傕と共に敵に向かい怪死した将は数知れず……奴は己の邪魔となる者は味方であっても牙を剥く野獣です。袁術を討つ好機がありながら静観しているのは、袁術とともに我らを潰す算段に他なりません」


 「う、うむ……そ、そうか……李傕ならばありえるかもしれぬ」


 鋭い目つきで李儒が畳みかける。

「牛将軍が一万の損失まででこの戦を片づけられるのならば話は別です。しかし、そのためには牛将軍には兵の先頭に立って指揮に当たり、鼓舞する必要もでてきます」

「なるほど。文優の云う話もっともだ」


 個々の戦いであれば自負のある牛輔であったが、兵の統率には難があった。

 先日、弱兵とされていた益州えきしゅう劉焉りゅうえんの軍に後れをとったばかりである。南陽を攻めたときも、城を守る兵は千にも満たないもので、ただ単に力攻めしただけのことだ。


 死ぬ気で戦おうとする敵の堅陣を上手く叩くすべなど持ってはいない。


 李儒はそんな牛輔の弱点を突いた。


 さらにとどめを刺す。

「補給線を断った以上は降伏は時間の問題。太師様とて袁家の使い道は有意義なものと心得ていらっしゃいます。袁家をこちらに引き込めるのならば、これ以上はない功名となりましょう。そうです。お悩みならば牛将軍の巫女に占ってもらうというのはいかがでしょうか。天意を知ってからでも決断はよろしいかと思います」


 「よし。さすがは文優。早速そうしよう。」


 牛輔がお抱えの巫女を呼んだ。

 要件を聞いて巫女が占い始める。


 「どうだ。天命はなんとでた」

「今、敵陣を攻めるは大凶。将軍のお命が危ういとのしるしでございます。時をかけるが吉。必ず道が拓けます」

「う、そうか。よくわかった。下がってよい」

 

 牛輔はこうして袁術軍から二里(1㎞)離れたところで行軍を止め、陣を張った。


 無論、事前に李儒が巫女に金銭を与えて指示していたことは云うまでも無い。



 一方、補給線はおろか退路も断たれた袁術軍ではそれぞれが覚悟を決めていた。


 「橋蕤きょうずいよ、このままこうしていても兵の士気は下がる一方。俺は覚悟を決めたぞ」

袁術軍の先陣にある紀霊きれいが隣に立つ橋蕤にそう話しかけた。

 互いに洛陽にいた頃からの朋友の仲である。

 袁術の旗揚げの頃からその屋台骨を支えてきた。

 今回は共に先鋒を任され、じっと堪えて李傕の本陣を牽制していた。


 「お主の覚悟は聞かずともわかる。一隊を率いて李傕の本陣を攻めるつもりじゃろ」

隻眼せきがんの将、橋蕤が笑ってそう答えた。紀霊もまた嬉しそうに笑顔で頷いた。

「どの道勝ち目の無い戦だ。一矢も報えず滅びたのでは収まりがつかぬ。どうせ死ぬのならば李傕の首を討ってからが良い」

「なんじゃ、お主もうこの戦、諦めたのか」

「フン。南陽を出陣し、この潁川に陣を張った時点で当に諦めておる」

「ならば止めればよかっただろうに」

「止めて聞く男か。信義を守ることのみで戦にはまるで無頓着な男なのだ、公路こうろ(袁術の字)というおとこは」


 「潁川の民を救うために滅びの道を進むとは、まったく公路の考えていることはよくわからぬの」

「しかし、俺は嬉しかったぞ」

「ほう。お主もつくづく難儀な男じゃの。滅ぶことが嬉しいとは」

「そうあっても尚、弱きを助ける心意気にだ。それこそが侠の生き様。袁家の嫡流だのといってもやはり公路は侠。俺たちの仲間だ」

「案外に不器用な男だからの。だが、お主の覚悟を聞いた以上はわしも決めさせてもらうぞ」

「なに。斬り込みは俺ひとりで充分。先鋒ふたりが動いたとあっては本陣前が丸空きとなる」

「自分勝手なことをほざきやがる。わしもこの目に受けた傷の借りを返さねばならぬ。指を咥えて滅んだとあってはあの世で侠の仲間に示しがつかぬのじゃ。」


 「うむ……仕方あるまい。公路には悪いが、俺たちふたりで一足先に冥途に旅経つとするか」

冥途あっちでも先陣じゃ。遅れて来た公路の尻でも叩いてやろう」

「ハハハハハ。面白い。しかし李傕は道連れだぞ」

「わかっておる。両目が潰されても李傕の首は必ず討つ。あの日の仲間の仇討ちじゃ」

「よし。抜け駆けは、もののふの意地よ。目にものみせてやる」

 ふたりは高々と笑いあうのであった。



 さらに後方の袁術軍本陣。


 「戯志才ぎしさいよ、その傍らの少年は誰ぞ」

俺の問いに参謀の戯志才が笑って、

「私の古くからの友の子です。父は先の李傕の略奪行為に巻き込まれて死にました」

「そうか。この地の者か。名はなんと申す」


 「姓をじょ、名をしょ、字を元直げんちょくと申します。字は戯志才様につけていただきました」

土まみれのままで少年はそう答えた。


 戯志才もその頭を撫でながら

「元直が私の身の回りの世話をしてくれています。剣も使えますし、書物もよく嗜みます」

「フフフ。戯志才にこんな弟子がおったとはな。戦場の機微をよく学ぶが良い」

「はい将軍様。この度は潁川までの御出陣、ありがとうございました。周囲の太守や刺史たちが見て見ぬふりを続ける中で、駆けつけていただいたこと潁川の住民一堂に成り代わって深くお礼申し上げます」

「礼を云われるほどのこともない。この地で戦うことは前から決まっておったことじゃ」


 「え、今なんと?」


 「いや、なに、なんでもない。しかし戯志才よ、南から来る牛輔の軍がピタリと止まったが、なぜじゃ」

袁術が慌てて話題を変えた。

 徐庶は不思議そうな顔で袁術を見つめている。


 「さて、血気に逸る董卓軍が持久戦とは解せませぬが、こちらの体力が尽きるのを待つつもりなのでしょう。損害を押さえるには良い策です」

「せっかくお前が殿しんがり張勲ちょうくんの陣に築いた罠も使えぬの」

「いずれは披露することになります。しかし、そのような小細工で五万の大軍の勢いを支えきるのは不可能です。李傕と牛輔、両軍から挟撃されればひとたまりもありません」

「わかっておる」

「退路が無い以上は全滅するか降伏するかのいずれかです」

「それもわかっておる」

俺は苦々しくそう答えた。


 徐庶がそれを聞いて真っ赤になって憤る。

「降伏などありえません。やつらは潁川の多くの民を虐殺したのですよ。悪は必ず滅びます。天が将軍を見捨てるはずがありません」

「元直でしゃばるな。控えておれ。」

戯志才が手で制すが、徐庶は聞き入れない。

「将軍、最後の一兵まで戦いぬきましょう。この元直、悪逆を尽くす董卓の軍勢など幾らでも斬り捨ててみせます」

そう云って剣を抜く。


 戯志才はため息をこぼしていたが、俺はその意気込みが嬉しく、微笑んで、

「そうか、たのむぞ元直。戯志才よ、戦意の低い兵は俺のもとを去っていったが、残った兵の士気はこのように高い。やれることはまだ残っているはずだ」


 すると戯志才が遥か前方を指さして、

「そのようですね。ご覧ください」


 見ると、先陣の紀霊、橋蕤の兵が一斉に動き出していた。


 俺もその光景を見てしばらく声を失っていたが、

「紀霊が抜け駆けとは……いや、俺の命に背いたのはこれで二回目か……」


 俺はあの日を思い出していた。

 董卓によって洛陽の都を追い出され、執拗に追い回された日のことを。

 あの日、袁術は逃亡を手助けしようと駆けつけた紀霊を追い返そうとした。しかし紀霊は頑として聞き入れず、血みどろになって道を切り拓いたのだった。

 そして命からがら俺たちは南陽に辿り着いた。

 

 「今ならば退却が可能です。李傕の陣はしばらくは戦闘にかかりきりになります。殿しんがりの張勲様には八門金鎖の陣を敷くように伝えております。先に仕掛けた罠とこの陣形があれば牛輔の兵も足止めできます。この隙に汝南じょなんに逃げるのです。汝南には孫堅そんけん様の軍が駐在していると聞きました。追撃を凌ぐことができるかもしれません」

戯志才が目を見開いて進言した。


 「汝南の兵などたかが一万じゃぞ」

「騎兵の追撃は苛烈を極めます。決断するならば今しかありません。張勲様もそのおつもりです」

戯志才と張勲が最初から示し合わせていたことをここで知った。


 袁術が洛陽から逃げるときも張勲は命がけで殿を務めた。そして片腕を失ったのだ。

 今度はその命を失おうとしている。


 「八門金鎖の陣も永延に敵を足止めできるわけではありません」

「時は、張勲が命が尽きるまでか……」

俺の問いに戯志才は頷くことをしなかった。無論否定もしない。

 

 「将軍様!お逃げください。私もここで敵を防ぎます。そしていつの日か潁川の民の仇を討ってください。お願いします!」

徐庶も声を枯らしてそう叫んだ。


 俺は意を決して旗本を率いる陳紀ちんきを呼んだ。



 こうして潁川の戦局は大きく動くこととなる。



 この時の俺の決断の本当の意味など誰にもわかりはしなかった。


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