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第20回 牙旗吹折

孫堅、武功だけで成り上がってきたおとこの最期です。

第20回 牙旗吹折


 荊州けいしゅう麦城ばくじょうより南、江陵こうりょう


 孫堅そんけんの本拠地である長沙ちょうさを攻めるべく中入りを敢行した劉表りゅうひょうの後詰三万は、ここ江陵近くを進行中であった。

 対して、この三万に奇襲を目論む孫堅軍一万は前方のみ斥候を配して、凄まじい速度で劉表軍に迫っていた。 


 「斥候からの報告ですと、敵軍は二里(1㎞)先を行軍している模様。そろそろ射程圏内ですぞ、殿との

四天王の筆頭、黄蓋こうがいが孫堅の横に馬を付け、そう進言した。

 心なしか黄蓋の表情もいつもより紅潮しているようだ。さもありなん。劉表の本陣を叩く好機が向こうから訪れたのである。


 攻城戦は時間を要する。兵の数も必要である。野戦では尋常でない威力を発揮する孫堅軍であるが、城攻めとなると話が違う。


 できるのならば野戦で劉表軍を叩きたい。


 しかし、敵が当然それを避けようと手を打ってくるのは明白だった。

 劉表が孫堅に対抗するためには、籠城、調略、そして他国に援軍を求めるより他にない。

 真っ向から孫堅軍に対することなど天地がひっくり返ってもありえない話だった。


 しかし、劉表は野戦に討って出た。

 江夏こうか太守の黄祖こうその軍の後詰という動きでもなくなっている。

 誰が指揮を執っているのかわからないが、突出して荊州の原野を彷徨っているのだ。  


 得物を仕留める絶好の好機。


 仮に劉表の本拠地である襄陽じょうようにこの倍の兵が残っていたとしても、ここで三万を倒せば劉表軍の戦意は失墜し、籠城の兵も降伏か逃亡しか道がなくなるだろう。


 そう。この時すでに孫堅は勝利を確信していた。


 そして自動的に荊州は孫堅の手中に入ることになる。


 南陽なんようにいる後将軍の袁術えんじゅつとは、そのような約定になっていた。


 荊州が手に入るのであれば、豫州よしゅうは手放してもよいと孫堅は考えていた。今は刺史代行として息子の孫策そんさくに蔓延る賊徒の掃討と統治を任せていたが、そんな土地には興味も未練もない。


 欲しいのは長江という交通の便を効果的に活用できる荊州一帯なのだ。


 ここに国を創る。


 それが孫堅の長年の夢であった。


 完全な独立にはまだ時間はかかるだろう。

 まずは荊州の牧となることだ。軍事権を持つ州の統率者である。

 王と呼んでも差支えがない権力を有する。

 とりあえず中央からの命令などはある程度だけ受け入れておく。そしてこの僻地に住む民のための国を創り上げる。


 自分で耕した穀物を自分たちで食することができる国だ。


 自分たちの暮らしを豊かにするために働くことのできる国。


 今までは収穫の大半を中央に巻き上げられてきた。中央から派遣されてくる官人は苛酷なまでに税を取りたて、賄賂を要求してくる。長江以南の民はいくら働けど蓄えなどまるでできなく、その日を生き延びるのがやっとの思いで働いていた。

 そしてわずかな飢饉で致命的な打撃を受けて大勢の住民が餓死していく。


 孫堅もそんな理不尽な環境の中で育った。


 なぜ中央の人間が幸せな生活を送るために、自分たちがこうも虐げられなければならないのか。


 疑問、憤慨、絶望の中で生き抜いてきたのだ。


 孫堅と同じような思いで反乱を起こした者も大勢いたが、すべて中央から派遣されてくる軍に討ち果たされた。

 その先兵はいつも地元の住民だった。

 血を流すのはどちらにしてもこの地の人間なのだ。


 乱では民を救うことはできない。


 孫堅は生きていくなかで、それを学んできた。


 中央から認められる国を建設すること。


 それが最も現実的な解決策であった。


 それは夢というより志というものだった。


 そのために戦場を駆け巡って来た。


 たくさんの敵を討ち、同じ志を持つ味方が大勢死んでいった。


 それでも立ち止まらずに戦い、戦う度に武功をたて、名を上げた。


 泥をすすり、地べたを這いずりまわってようやくここまで来たのである。


 あと一歩だった。


 漢帝国が乱れ、中央に権威も権力も無くなった今の時代だからこそ、名もなき孫家の自分がここまで出世できたのだ。そして、あともう一歩の武功で荊州の支配権を手に入れられる。



 「殿、妙です。敵もこちらの存在に気づいているはず。にも係わらず慌てる様子がありませぬ」

そう云いながら四天王の一角、韓当かんとうが孫堅に馬を寄せて来た。直情径行の男が多い孫堅軍の中で最も慎重に物事を考えられる能力を持っている。


 「敵軍が休息のため停止したとの報告が入りました」

黄蓋の言葉に孫堅も韓当もハッとして顔を見合わせた。

「どこじゃ。どこで止まった」


 「鳳凰山……とのことです」


 「よし。全軍をもって山頂へ突撃をかける。反対側は断崖絶壁。一網打尽にするには好都合だ」

先ほどから武者震いが止まらない孫堅は、その碧眼を包む分厚い瞼すら痙攣し続けていた。


 「我が軍の動きを見ての停止。明らかにおかしいですぞ。罠かもしれませぬ。山頂から攻め下ろされれば圧倒的にこちらが不利です」

義公ぎこう(韓当の字)よ。城に籠る三万の敵兵とたかが小高い丘の上に陣を張る敵三万、どちらが討ち取りやすいと思う」

「それは、確かに……しかし我らをこの地におびき出す策であれば危険でございます」


 「死地におとしいれて然る後に生く。危険を恐れて戦で勝つことなどできぬ」


 孫子の兵法の一説であった。

 名門の出ではない孫堅は孫子の子孫と自称していて、時折その兵法に照らしあわせて指揮を執った。


 「では、この義公を先鋒にお出しくださいませ。殿自らが先陣に立つことはお控え下され」

 韓当も退かない。

 こうなると孫堅としても了承しないわけにはいかなかった。

 「わかった。先鋒は義公に任せる。徹底的に掻きまわし、敵を谷底へ落とすのだ」

「かしこまりました」

韓当は大薙刀を構えて力強く答えた。


 やがて鳳凰山の麓に達した。

 頭上には、山の木々の中に緑の旗印が幾つも靡いている。


 「あの旗印、蔡家のものです」

黄蓋はこの山に到着する前から確信していた。この短期間にこれほどの兵を集めることのできる豪族は少ない。進軍の速度から鍛えられている兵であることは明白であった。そう推察すると自ずと答えが浮かび上がってくる。


 「蔡家……蔡諷さいふうか……」

韓当がそう呻いた。黄蓋が首を横に振った。

「いや。蔡諷は隠居の身。頭首は息子の蔡瑁さいぼうだな」

「蔡瑁だと……であれば戦慣れなどしていまい。殿、私が蔡瑁の首を討ってご覧にいれまする」

孫堅の甥の徐琨じょこんがはりきって槍を掲げた。


 その時、一陣の突風が吹き、孫堅らの目前にあった牙旗がきを真っ二つに折った。兵や将校らが愕然としてその光景を見つめ、誰もが声を失った。


 この一件で孫堅軍の戦意が著しく低下した。


 得に先陣にあった韓当は、

「これは不吉の前触れ。ここは一端陣を立て直し、然る後に攻めるがよいと存ずる」

と孫堅を諌めた。


 孫堅は先鋒を買って出た者が臆病風に吹かれたことに対し、烈火の如く怒った。


 そして取り決めてあった攻め上がる陣決めを無視し、旗本を連れ、怒号と共に駆けあがっていったのである。


 先鋒役の韓当は無論のこと、黄蓋や徐琨などの将たちも慌てふためいてこぞって後に続く。

 

 事態は、総大将である孫堅の一騎駆けの状態になったのである。


 それはいつもの孫堅軍の戦いぶりといってもよいのだが、今回は様々な焦燥感が混在していた。

 

 あともう一歩で夢を掴める孫堅の焦り。


 先鋒を任されたにも係わらず二番手で山を駆け上がる韓当の焦り。


 牙旗が折れたことで暗雲立ち籠る兵たちの迷い。


 それらが孫堅軍の動きを鈍らせていた。


 「殿、お待ちください。先陣は我らが……」

馬を乗り捨て、韓当が荒々しい息を弾ませながらそう叫んだ。傾斜が案外とキツイ。


 孫堅の姿はかなり向こうで、声は届いていないようだ。

 部下たちにも甲冑を脱がせて駆けさせた。


 やがて、視界が開けた。


 そこには木々や草花の姿は無く。無機質な岩肌を辺り一面に晒していた。


 孫堅の背中が目前に見えた。


 いつの間にか孫堅も甲冑を脱ぎ捨てたようだ。周囲の旗本たちも同様だった。


 その遥か先で何かが動いた。


 一斉に山頂付近が動き出す。


 岩と岩がぶつかり合う音が響く。足元が揺れた。


 周到に用意されていただろう球状の大きな岩の塊が物凄い速度で転がり落ちてくる。人の手では到底受け止められないような大きさだった。


 「殿!!」

韓当が叫ぶ。


 若い部下が数名孫堅に追いついていた。そこに数個の岩の塊が襲い掛かる。


 「韓当様、危のうございます。巻き込まれます。御下がりください」

部下の声など韓当の耳には届いてはいない。しかし何名もの兵が必死に韓当の身体にしがみつき自由を奪っていた。


 韓当は目だけで孫堅を追う。


 けたたましい音と粉塵を巻き上げて落ちてくる岩に飲み込まれていく姿を韓当はただ見つめていた。


 頭の片隅で、すべてが終わったことを告げていた。 


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