第15回 背水の陣
連環の計。そのための犠牲と時間は。
第15回 背水の陣
豫州潁川、董卓軍の主力である李傕率いる二万の騎兵と、荊州南陽を拠点とする後将軍、袁術五万が対峙してすでに二十日の時が流れている。
未だに小さな小競り合いぐらいしか衝突が起こっていない。
大将である袁術は中軍の幕舎にあって日々、戦況を静観していた。
「殿、ついに南陽が落ちましたぞ……」
最後尾の殿として九千を率いる張勲がさすがに絶望的な表情を浮かべて幕舎に入ってきた。
舎内には旗本を率いる陳紀がただ一人、槍を右手に石像のように直立不動の構えだ。
戦が始まらない限り俺の警護のため決してここから離れようとはしない。
「李傕は動いた。」
俺の問いに張勲はゆっくりと首を横に振った。
「しかし、時間の問題ですな」
そう答えて目を閉じた。
張勲はどんな苦境に立たされようとも弱音を吐いたことが無い。
それは俺がまだ若く、遊侠の徒であった時代からこれまでもずっとだ。
少数の仲間と洛陽を出奔し、董卓の手の者たちに執拗に追われた時も最後まで希望を持って俺を助けてくれた。その代償として右手を失うことになろうとも決してあきらめず仲間を励ましていた。
その張勲が初めて匙を投げる素振をしたのだ。
無理も無い。
拠点となる南陽の宛城を董卓の娘婿たちに落とされたのだ。
報告では宛城に残った兵はひとり残らず戦死。
町は焼かれ、住民たちは無差別に殺されたという。
数千人が生き埋めにさられたらしい。焼き殺されたものは数知れない。
幸いにも兵の家族は事前に城を脱出していて無事ではあったが、被害は尋常ではない。
しかも南陽を落とした牛輔、李儒ら五万の兵がここに迫るのに三日とかかからないだろう。
目前に李傕二万、背後に牛輔五万。
挟撃されれば数刻ともたずに全滅の憂き目にあうは必至であった。
逃げ込む城ももう無い。
後詰の兵もいない。
兵糧の補給さえできないのだ。
「前線にある紀霊と橋蕤の陣はどうだ」
俺はなるべく平素を装いそう尋ねた。
「両名とも耐えております。僅かでも動揺を見せればたちまち李傕に襲われますからな」
「そうか、耐えているか」
「宛城落城の知らせは全軍に広がっております。兵の士気は著しく低下しており、逃亡を企む兵が後を絶ちません。それを橋蕤が見つけ次第斬り殺しているそうですが、すでにその数が百を超えております」
「橋蕤に伝えよ。逃げる者を殺してはならぬ」
「督戦をせねば陣は崩壊しますぞ」
「いや。俺の見たところ半数は残る」
「半数……根拠は?」
「敵前逃亡した半数は俺の名声を頼って集まった風に靡く草のような者たちだが、残り半数は董卓に肉親を殺され復讐に燃える者たち。その根は深い。数は減っても士気は上がろう」
「何を呑気な。いいか公路、半数が去れば俺たちの軍は二万五千。敵の三割の兵で何ができよう。勝ち目は無い」
「ほお、お前が俺の事を字で呼ぶのを久しぶりに聞いたな」
「……申し訳ありませぬ。分をわきまえず……」
「構わん。死ねば主君家臣の区別も無くなるだろう」
「殿!」
「勘違いするな。俺は諦めたと云った覚えはない」
「策があるのですか。孫堅殿も襄陽の劉表を倒せていない今、援軍の期待もできませんぞ」
「南からは無理でも北からという手がある」
「北?公孫瓉殿の事か。それは無理というもの。我らと北平との間には袁紹様の領地があります」
「だから?」
「我らの援軍とわかっていて通す道理がありません。それでなくとも渤海を目指す黄巾の残党が数十万いるとか。袁紹様は必ずや公孫瓉の兵を使いこれを撃退しようとするはずです」
「なるほど。確かに一理あるな」
「一理どころかそれが真実です。袁紹様は殿が董卓に討たれ、邪魔者がいなくなった後で名跡を継ぐことを画策されております」
「本初(袁紹の字)に直接聞いたのか?」
「周知の事実。聞くまでも無い。だいたい公路が洛陽にいたころからあの男に一体何度煮え湯を飲まされてきたか、忘れたわけではあるまいな」
「煮え湯、か……」
「宦官を根絶やしにした後、董卓の追手を振り切るために、公路の所在を密告し、追手の目のつきやすいようにして、己は遠く渤海まで逃げた男だぞ。あのような卑怯者が画策する卑劣な策謀など手に取るようにわか。」
「仮にも俺の兄貴に随分な云い様だな」
ここで張勲がふっーとひとつ大きな息をついた。
隠し事をしない漢だった。それができない性分なのだろう。
信用できる数少ない仲間。
それでも今回の策は打ち明けられない。
董卓側に漏れればすべてが水の泡だ。
この策を完遂するためにたくさんの血が流れた。
多くの刻を費やしてきたのだ。
「公路、なぜ潁川まで出陣した」
もはや張勲は昔に戻って俺を字で呼ぶことに抵抗を感じていないようだった。
「荀彧には借りが出来た。潁川を見捨てることは、袁家がひとつになることを見限ることになる」
本初との仲を取り持ってもらうよう荀彧には依頼していた。
成果があったかはわからない。
それでも荀彧が住む潁川の住民が蹂躙されるのを指をくわえて見ているわけにはいかなかった。
表向きはそれでいい。
「義か……儒学嫌いなお前らしくもない」
「荀彧は立派な儒士さ。荀家自体がそういった集まりだ」
「それで南陽の民が董卓に虐殺されるのでは本末転倒ではないか」
確かにそうだ。
潁川の救出は名目に過ぎない。
和睦、停戦の交渉を進めていた董卓が手の平を返したように攻め寄せてくることを知ったとき、俺は決断した。
いや、和睦を進めながらも董卓を滅ぼす策を進めていたと云っても過言ではないか。
司徒である王允や義弟である楊彪らが抑えの効かなくなり暴走する董卓に、何らかの手を打つことは予想できた。
また、それを煽るような密使をこちらからも送った。
帝さえこちら側に取り戻すことができれば全ては丸く収まる。
最初はそのための密使だった。
それがいつの間にか陰謀の渦中に身をゆだねている自分がいる。
そして自分の息子がその中心にいた。
何度となく脳裏をよぎる少年の姿。
遠目から二度ほどしか目にしたことはない。
話したことも抱きしめたことも無い。
耀という名は俺がつけた。
父である袁逢や叔父の袁隗が死に、袁家の名跡が宙ぶらりんになるなか、なぜか嫡流に受け継がれる「北斗七星の剣」がこの耀に渡っていた。
おそらく袁隗が董卓に殺されたとき、どさくさに紛れて誰かが持ち去ったに違いない。
伯父は反董卓連合の一件が片付いた後、その剣を俺か本初に渡すつもりだったのだろう。そして本初が袁家の家督を継ぐ。
何者かが俺の名をかたり耀に初陣の祝いと渡したらしい。
事実はさておき、本初がこれを知ったら何を云い出すだろうか。
戸籍上では耀は王允の孫である。袁家を名乗ってはいない。
耀が俺の息子だと知っている者は少ない。
呂布は事情を知って耀にいろいろと気を使っていた。
武芸を教えたのも呂布だった。
筋がいいと褒めていたことを思いだす。
自分の娘と娶せたいとも云っていた。俺には断る権利も承諾できる立場も無い。
俺は父親らしいことは何一つしてきていないのだから……。
そして、きっとこれからも。
俺は触れてはいけないものに触れたのだ。会うことは許されない。
それにしても、王允は俺を巻き込むために耀を使っている節があった。
何が何でも董卓を葬る必要があるのだろう。今まで感じたことの無い焦りが今回の無謀ともいえる作戦からは伝わってくる。
思惑はさて置き、俺は連中の筋書き通りに南陽を出撃した。
己を囮とし、董卓軍の主力十三万をここ潁川に釘付けにするために……。
たかが十四歳の少年に何ができるというのか。
それでも俺にもし父親らしいことがひとつだけでもできるのであれば、こんな援護しかない。
一厘でもいい。
息子の成功の可能性を少しでも上げてやりたかった。
「陳紀よ、戯志才を呼べ」
俺は参謀として中軍に配している潁川の男を呼んだ。
戯志才は地元の地理にも精通しており、今回の陣立てもこの男の指示通りに行った。騎馬隊が一斉に攻撃できない地形をよく選んでいて、それが李傕を牽制しているひとつの原因ともなっていた。
「袁将軍、及びでしょうか」
まだ三十歳と若いがどこか影のある表情をしている。隠棲を好むが、才は荀彧に匹敵するという巷の噂である。
「南陽から五万の兵が押し寄せてくる。何か手はあるか」
正確な数字を伝えた。今更隠し事をしても始まらない。
戯志才はしばらくじっとこちらを見つめていたが、
「降る。より他に生き残る道はないかと思います」
「そうか。わかった。さがってよい」
その指示に抗う様子も無く男は幕舎を去ろうとした。
俺はその後ろ姿を見つめながらどうしても問いたくなった。
「董卓を殺せる者はいったい誰だと思う」
男は振り返り、にっこりと笑って答えた。
「天に選ばれた者でしょう」
「それは鋭き武を持つ者か、それとも蜘蛛の巣の如き知を張り巡らせる者か」
「殺すとなるとどちらも難しいでしょう」
「武将でも、文官でもないと?」
「ええ。最強を討ち破れるのはもしかすると最弱かもしれません」
「最弱……」
「女や子ども、でしょうか。」
俺はハッとしてこの男を凝視した。男ははみかみながら笑みをまだ浮かべていた。
「袁将軍、李傕が動きました」
慌ただしい注進が幕舎に響く。
しばらくは無言で座っていた張勲が立ち上がった。
陳紀も緊張を隠せない。
「大丈夫です。李傕はすぐには本格的に攻めてきません。こちらの手の内を探っているだけです。おそらくこちらの方陣の東と西に騎馬隊をぶつけてきますが、慌てず守りに徹すれば退くはずです」
戯志才がそう云い放った。
俺の考えも同じだった。南陽からの兵がここに到着するにはまだしばらく刻がかかる。ここまで待った李傕がその前に仕掛けてくるのは合点がいかない。
左右を攻めてみて崩れそうならば中央に残りの戦力をぶつけてくるつもりだろう。
いくら紀霊と橋蕤が引き締めても南陽陥落の報は兵たちに強烈な動揺を与えていた。敵側からもこちらが浮足立ってきていることは見て取れるのだろう。
「よし、揺さぶりに耐えるよう全軍に伝えよ。遊軍の楽就と李豊はそれぞれ三千で方陣の東と西を援護せよ。耐えよ!陣は崩してはならぬ」
その指示を全部隊に伝えようと伝令役の母衣衆が馬を飛ばした。
「公路よ、いや殿。私は殿として己の職務を全うする」
「ああ、頼むぞ。残り一兵となるまでここで戦わねばならぬ」
幕舎を出る張勲はわずかに頷いた。
そして去り際に、
「時間は私が稼ぐ。何をもって勝利となるのか、後できっちり説明してもらうぞ」
こうして、背水の陣の戦いが幕を開いた。




