第10回 蜘蛛の巣
対峙する袁術と李傕。
その間隙を縫って、長安から南陽に牛輔の軍が近づいていた。
第10回 蜘蛛の巣
ここ豫州潁川では、袁術軍五万と李傕軍二万の対陣が続いていた。
袁術の兵は歩兵が多く、装備は厚い。
李傕の兵は音に鳴らした西涼の騎馬隊のみの編成である。
攻め寄せる気配の無かった李傕の陣でわずかな動きがあった。
先陣の兵たちが悪ふざけで、捕らえた住民を裸にし陣の先頭に立たせたのである。男女合わせて五十人ほどであった。
それが一斉に走り出した。
先陣の騎兵十騎が少ししてからその後を追い、全員の首をはねた。
酷い死骸が草地に転がった。
騎兵たちは笑いながら剣を天に翳す。
袁術軍の先陣、紀霊の兵のなかから一人の兵が進み出た。槍を手にして悠然と進んでいく。
騎兵十騎もその姿に気が付いた。彼らの表情から笑みが消える。
凶暴な雄叫びをあげて一人が馬の腹を蹴った。
槍を持った歩兵が騎馬を迎え撃つ。
すれ違った。
李傕の兵が右腕を落として馬上から地面に崩れ落ちる。
もう一騎が駆けた。
またしても右腕を落とされ、地面でのたうち回る。
残り八騎は渋々自陣に戻っていった。
槍の歩兵も袁術軍に戻る。
地鳴りのような拍手喝采が響き渡った。
紀霊の旗下で副将を務める凌操という男の活躍だった。
このような幾分かの小競り合いは続いていたが、全軍の正面からのぶつかりあいは未だに無い。
戯志才はこの時、三十歳。
潁川の出身であり、同郷の名士である荀彧や鍾繇、郭嘉などと交流を深め見識を高めていた。
官吏に就くのを潔しとせずに茫洋と日々暮らしていたが、故郷の危機に際し、立ち上がり袁術軍に組み込んでもらっていた。
軍略に精通していることもあり、袁術の傍で参謀を務めている。
「五万の兵がいながらなぜ攻めぬのだ。戯志才、お主なら殿の考えがわかるだろう。説明してくれ」
戯志才と同じく中軍にいて、兵三千を率いる陳蘭がそう尋ねて来た。
陳蘭は、袁術の南陽での旗揚げの際に周辺の賊徒や流民を集めて旗下に加わった男だ。学は無く、頼りの武もそれ程のこともない。ただ、根っから明るい男で、上司からも部下からも好かれてはいる。
「袁術軍は守りには堅いが、反面攻めるときに綻びが出来ます。そこを騎馬隊に突かれるのを嫌がっているのでしょう」
戯志才もこの男のことが嫌いではないので、なるべく丁寧に説明をした。
「敵が動くのを待つ戦法か……なるほど。さすがは軍師殿」
陳蘭はしごく満足げに頷きながらその場を離れていった。
しかし、実際のところ戯志才は今回の袁術軍の動きを理解できてはいないのだ。むしろ納得がいっていない。
李傕が攻めてこないのは攻めてこないだけの理由がある。
この後、必ず袁術軍が背後を見せるという確信があるに違いない。でなければ血気盛んな李傕の兵が動かさぬはずはない。
なぜ袁術軍が背後を見せることになるのか。
それは董卓の別動隊が南陽を攻めるからだ。
南陽を守るために袁術軍はこの地から退却を余儀なくされる。
李傕はその機会を待っている。
そのときがきたら鎖が外れた獣のように袁術軍の背後を襲い、その勢いで南陽の町を蹂躙するだろう。
袁術はそれに気づいてはいないのだろうか。
いや、君主である袁術が気づいていなくても、側近の者たちは気づいて助言しているはずだ。
にも係わらずなぜ袁術軍はこの地で無用な時を費やしているのか。
北平の公孫瓉からの援軍が豫州に向かっているという噂もある。挟撃してから南陽に戻るつもりなのか。
南陽の城には五千の兵しか残していないという。董卓が長安から数万の兵を進軍させているらしいという噂もまことしやかに広がっていた。そうなれば籠城も長くはもたない。
袁術軍の主力の位置は軍略上ではあまりに中途半端すぎる。
この機会を董卓は逃すことをしないだろう。
全力を上げて叩き潰しに来るに違いない。
戯志才はそう考えると、頭を振ってまた周辺の勢力と動きについて整理し始めた。自分の想像では及びもつかぬような戦略が存在しないのか、希望的観測を持って検討するのであった。
一方、長安から潼関を経由し、洛陽を通過せずに南下して南陽を目指す董卓軍の別動隊五万。
総大将は董卓の娘婿である前将軍の牛輔。
補佐役としてこちらも董卓の娘婿である李儒。
先陣を務めるのは袁術軍の補給線を断って活躍したこともある張繍という顔ぶれであった。
「将軍、我が軍に随身したいという者たちが御目通りを求めております」
中軍にあって馬を進める牛輔のもとにそのような伝令あった。
「またか。数は幾らだ」
李儒が問う。
「義勇兵五百。徐晃というものが率いております」
「巫女を呼べ。吉凶を占わせる」
ひと際大きな馬に跨った牛輔がそう云うと、隣にいる李儒はまたかと顔を曇らせた。
牛輔は極端に迷信好きで、何かを決める時は付き人のように従う巫女に吉凶を占わせる。占いに対する信憑性も病的で、吉と出ても凶と出ても必ずその意に従う。
先ほど義勇兵千が随身を願い出たときには、巫女の占いが凶と出たためその全員を捕縛して処刑している。
不審な点があるなしなどお構いなしだ。
大袈裟な格好をした巫女が牛輔の前に現れ、竹竿を持って占いを始めた。
ふざけたことにこの巫女の占いは凶が出ることが多い。吉は稀である。
占いが行われるたびに進軍は一時中断され、無用な血が流された。
ウンウンと唸っていた巫女が晴れ晴れとした表情で、
「この徐晃というもの、公明正大にして武勇あり。天下を治めるものにとっては宝となる貴種でございます」
と告げた。
巫女の言葉ひとつひとつに頷きながら聞き入っていた牛輔も
「それはめでたい。ぜひ我が軍に迎え入れ、天下泰平に手腕を発揮してもらおう」
と満面の笑みで答えた。
事実、徐晃はその後、数々の武功をあげ、時の皇帝から楊候を拝することとなる。ちなみに徐晃の字は公明という。
その牛輔の軍が目指す南陽では……。
「袁将軍より内密なご命令が下されました」
軍議の場に三名の重臣を集めて、閻象がそう告げた。袁術の伝令役である。
「董卓軍五万はもはや目と鼻の先。殿は籠城に間に合うのか」
重臣の中から梁剛がまず口を開いた。城代である。
「いけませんな。いけません」
閻象の日頃からの口癖だ。今日はいつもより青白い顔をしている。
「何がいけないのだ閻象殿。撤退は上手くいかぬのか」
冷静沈着で知られる韓浩が両腕を組みながらそう問うと、閻象は一度唾を飲み込んでから、
「袁将軍の御身内はもちろんのこと、軍兵の家族を南陽から落とすように。との下知です。袁将軍は南陽をお捨てになる算段でござる」
「な、なんと」
荀正が驚いて思わず声をあげた。
その後、数万に及ぶ住民たちが豫州の汝南を目指して城を落ちていった。
それに付き従う兵は四千あまり。
南陽の城に残った兵はわずか千となったのである。
広大な領土と勢力、人間を繋ぎながら、「連環の計」は実を結ぼうとしていた……。




