第9回 ふたりの「呂」
孫策、周瑜。断金の交わりを結んだ二人の活躍が始まります。
第9回 ふたりの「呂」
淮水を船で渡り、荊州北部の新野を通過すると目的地の豫州汝南に着く。
州都の沛はさらに東方にあり、そこには袁紹の派閥に属する周昕が州刺史として君臨している。
「公謹よ、このまま一気に汝南に蔓延る賊どもを一掃するぞ」
そう字で呼ばれて周瑜は孫策の方を見た。
共にこの時が十六歳。
昨年に初陣を済ませたとはいえ、一軍を率いるにはまだまだ早すぎる年齢であったが、類まれな武人の才と将としての資質は万民が認めるものであった。
「大将にお聞きしたいことがある」
「大将などと……公謹、お前とは兄弟の間柄だ。今まで通り伯符(孫策の字)で構わぬ」
「それでは将としての示しがつくまい。馴合いでは組織は強くはならないぞ」
「相変わらず堅いな公謹。ならば大将としての命令だ。お前だけはどんな時でも俺を伯符と呼べ。いいな」
「相変わらず滅茶苦茶な男だな、伯符よ」
二人は馬を並べて笑いあった。
「聞きたい事とはなんだ」
「この先の汝南は袁家の所縁の地。おそらく万を超える賊徒が待ち構えているはずだ」
「なぜそう思う」
「賊徒の背後で糸を引いているのが董卓だからだ。汝南を滅ぼせば袁術や袁紹の力を削ぐことができる。今はまず汝南を迂回し、州都にいる周昕を攻めておいたほうが得策なのでは」
その周昕の背後には袁紹がいる。
そして東郡の太守である曹操がいるはずだった。
賊徒と戦い、弱体化してしまってからでは叩くのが難しい相手である。
「周昕など取るに足らぬ相手だぞ公謹。豫州に蔓延る賊徒を退治したものが刺史として認められるのだ。汝南の乱を鎮める。これで全て解決する」
孫策は空を見上げて笑った。
孫家には策が無い。
常に敵に対し真っ向からぶつかり合う。頭領が陣の先頭に立ち、兵を引っ張る。
圧倒的な武をもって孫家は大きく成長を遂げてきた。
孫策はその象徴かもしれない。
周瑜は最近そう思うことが多い。
孫策の武人としての腕前は周瑜はおろか、軍内の名だたる部将も歯が立たないほどで、まさに孫家最強を誇っている。
父親の孫堅ですら頭には赤い頭巾を被り戦闘に出るのに、孫策は鎧も薄いものしか着けず、頭は長髪を後ろで結っただけで無防備であった。危険を承知の軽装のお陰なのか、その動きは尋常ではないほど速い。
余程自信があるのか、身ひとつで躊躇無く死地に突っ込む度胸も有していた。
「あくまでも一万の兵だぞ伯符」
周瑜はそう念押しをした。
汝南の深部には袁術の旗下である五千の兵が埋伏されているという。当然ながら戦力としては貴重なものだが、相手は袁術である。どれだけの戦力になるのかは未知数だった。それを期待すぎて作戦を練ると後で痛い目を見るのはこっちである。
だから孫策は孫堅から預けられた一万の兵で戦い抜く覚悟が必要になるのだ。
「一万で充分だ」
孫策がそう答えてまた笑った。
四方八方に放っていた斥候から伝令が届いた。
目前の山間に賊徒一万が陣を張っているのだ。
向こうもこちらの接近に気が付いているはずだ。
「よし、緒戦だ、圧勝して士気を上げる」
孫策はそう叫んで、槍持ちから得意の六十四斤(約四十kg)の戟を受け取り、高々と掲げた。
旗下の兵たちも血気盛んな若者が多く、煽られて誰もが雄叫びをあげている。
「伯符。山間だぞ。伏兵を置くには最も適した場所だ。無暗に突撃を仕掛けるには危険過ぎる」
周瑜がそう云って思いとどまらせようとしたが、孫策はそんな言葉にまったく耳を貸さず、馬に鞭を入れた。
補佐として孫策に付けられている程普も疾風のようにその後に続く。
孫堅軍には馬は少ない。
一万の孫策の兵の中にも騎馬隊は無い。
各部隊の隊長が馬に乗っているぐらいであった。
そこを孫策が名馬「飛燕」に跨り駆けるのだから、完全に一騎駆けの状態となる。
こうなると、大将を見殺しにはできないために全部隊が全力で駆けることになる。陣形も何もあったものではない。遮二無二前に進むのだ。
「伯符、危険だ。後続を待て」
周瑜も馬を駆って負けじと孫策を追う。
目前の陣が見えた。
食事を作っているのか、煙が何本か上がっている。
「程普殿、左の山頂に人影があります」
周瑜が隣を駆ける程普にそう伝えた。程普も気づいていた様子で頷いた。後続は遥か後ろだ。
敵陣が迫る。
敵は、まだ遠いと聞かされていたからなのか油断して布陣が済んでいない。元来が賊徒の群れなのだから集団の戦闘の訓練すらまともには受けていないのだ。
鐘が鳴った。
敵陣からか、それとも後方の味方からなのか……。
孫策が唸りをあげて前列に突っ込む。
四、五人が馬の蹄にかけられて転がった。孫策は恐ろしい速度で戟を振り下ろし、その度に四、五人の首が飛ぶ。
孫策に群がろうとした敵兵の一団に、程普と周瑜が襲いかかった。
敵前衛は完全に崩れ、戦意を失っている。
そもそも賊徒は忠誠心というものを持っておらず、敵が強いと見るやすぐに逃散する。
(これは囮だ……しかし……)
周瑜にははっきりとわかっていた。
弱兵と争っている間に山頂の伏兵で襲わせる策なのだ。
しかし、突撃してきたのは孫策、程普、周瑜の三人だけ、伏兵は襲撃のきっかけをつかめず戸惑っているのだろう。
(打開するには最善の策だったかもしれない。それを頭で考えず、本能だけで行動に移せるとは……やはり伯符は孫堅様の御子息だ)
周瑜はそう感心しながら槍を振るった。
「我こそは江東の虎、孫堅の嫡子、孫策!腕に覚えがある者は名乗りをあげよ!」
大音声で孫策が叫ぶと、逃げ回っていた賊徒の中から手柄欲しさに向かってくる者も現れた。しかし、一合も刃を合わせることなく孫策の戟で首を刎ねられる。
後方からは雄叫びをあげながら死にもの狂いで駆けてくる味方一万の兵がいる。
地響きと咆哮。
賊徒の群れは完全に崩壊し、味方を踏みしだいて逃げ出し始めた。
すると、満を持して山頂より馬群が一列となって下りてきた。
孫策が睥睨してそちらに注目し、程普と周瑜は孫策を守るべくその前に立った。
先頭の馬に乗った男は首を掲げて向かってきた。
そしてその首を孫策の方へと投げて寄こした。
「これは山頂の将の首や。わしは、いや、私は孫策様に帰心したくその将の首を討って下りてきたんや。これほどの人数を相手にしながら天晴な一騎駆け!この呂蒙感服しました!」
要は仲間を裏切っての投降である。随分と小柄な男だった。
「名は?」
孫策が転がった首に一瞥もせず、そう問うと、男は馬から飛び下りて膝を折り、
「姓は呂、名は蒙と申します。字はありません」
兜を脱いだその顔はまだ少年の面立ちである。十三、四というところか。猿のようなひょうきんさがある。
「随身を許す」
「ありがとうございます」
こうして呂蒙以下千の騎馬隊が味方となった。
「伯符、こんな戦いを続けていたら命が幾つあっても足りないぞ」
揚々と馬を進める孫策に周瑜が危惧を漏らした。
孫家の戦い方は承知している。それでも孫策のそれは常軌を逸していた。
「公謹はいつも命、命と云うが、百年も経てば今生きている者で死なずに生活している者などいまい。いずれは皆死ぬのだ。命を惜しんで大事は務まらぬ」
「それはそうだが、生き急ぐ必要はあるまい。長江以南に国を作るのは一朝一夕では不可能だ」
周瑜がそう云うと孫策は笑って、
「それは親父様の夢の話だ。俺の夢では無い」
「なんだと」
「俺は天下が欲しい。この武を持って全ての国の兵を統べる」
「天下……」
周瑜はその言葉に驚いて絶句した。
孫策が始皇帝にあこがれを抱いていることは知っていた。覇王と呼ばれた項羽に対しても同じ気持ちを持っているようだった。
漢の皇室の権威が薄らぎ、そういった野望をもった豪族が現れてくるだろう懸念もしていたが、よもや孫策が……。
「どうだ公謹、俺と天下を目指さないか」
やや時を要してから周瑜が口を開いた。
「天下など誰が獲っても同じことの繰り返し。孫堅様の志の偉大さは、地方分権にあって、中央同様に地方も栄えるというところにある。仮に伯符が天下を治めても廃れる地方が別に出来るだけの話だ。私には天下の野望に興味は無い」
「そうか。同じ話は二度とすまい」
やや顔を曇らせながら孫策は馬を先に進めた。
この志の違いがやがて孫家に暗い影を落とすことになる。
「若様。豫州刺史の別駕(補佐官)の呂範殿が御目通りを願っております」
程普が連れてきたのは孫堅の補佐を務める予定だった呂範という男であった。
刺史は中央から派遣されてくるのに対し、補佐役の別駕はその地の役人から選ばれるのが常である。
「呂範にございます。お見知りおきを」
孫策の前に現れたのはバサバサの髪をそのままに、いかにもひ弱そうな男であった。歳は二十五、六といったところだろうか。別駕を務めるには随分と若い。
「俺は豫州刺史である孫堅の名代、孫策だ。まずは刺史の名の下で太守たちに命を下す。各地に伝えよ」
「かしこまりました。必ずや刺史様に従うよう説き伏せて参ります」
「さっきの猿のような小僧といい、この小賢しい役人といい、今日は呂という男と巡り合う日のようだ。呂範よ、お前の字は何と申す」
「はい。子衝と云います」
「よし、さっきの子猿を連れてこい」
呂蒙は喜んで現れた。
「たしか字は無いと申したな」
「はい。生来、父はおらず、家は貧しく、字をつけてくれる男が周りにおりませんでした」
「賊徒につけてもらえただろうに。なぜそうしなかった」
「家で待つ母が悲しむからです」
「賊徒に身を落としていれば同じ事だろうに」
「お恥ずかしい話でございます」
「よかろう。呂範の字が子衝だから、同じ呂同士、字は子明とするがよい」
「ありがとうございます。この御恩は生涯忘れません」
汝南出身のこの二名の尽力により、孫策は豫州平定にぐっと近づくことになる。




