第7回 野獣、李傕
豫州潁川に襲い掛かる李傕。董卓との和睦を蹴ってまで、袁術は潁川に兵を進める。その魂胆は一体?
第7回 野獣、李傕
車騎将軍の朱儁が洛陽の地で董卓打倒の狼煙を上げた。
兵一万はすべて官軍であり、董卓の下で働くことを潔しとしない名家の子息たちである。
朱儁といえば黄巾の乱の平定に尽力した名将で、孫堅や劉備などといった英傑たちを部下に従えていたこともあるほどだ。
宮廷では同じく車騎将軍の位にあった皇甫嵩と共に軍を統率し、信望を得ていた。
朱儁は現在の後漢皇帝である献帝の信任が厚く、その朱儁が反乱を起こしたことで、董卓と献帝の確執は決定的なものになった。
朱儁は洛陽の地で募兵をかけて長安へ攻めのぼる魂胆だったのであろうが、思ったように兵が集まらず、逆に長安からの征東軍に攻め込まれた。
中郎将の呂布を先鋒に立て、衛将軍である李傕郭汜張済など董卓配下のそうそうたる顔ぶれを揃えて八万の兵で洛陽に進軍した。
洛陽は元来防衛に適した地ではなかったし、昨年董卓配下によって焼失したばかりだったので籠城する城も砦も無い。
多数の敵に怯えて官軍は戦わずに敗走した。
呂布は残党を殲滅させる名目で洛陽に残り、残った将軍たちは洛陽を素通りし、汜水関を越えて東へ進んでいった。
「四将軍」と呼ばれる李傕、郭汜、張済、樊調は董卓軍生え抜きの精鋭を率いる柱石だが、その中でも李傕と郭汜は残虐さにおいて広く知られている。
戦となればそこが敵領であれ自領であれ狼藉を尽くす。敵兵を皆殺しにすることは当然のこと、一般の農民や女子どもまでも平気で手にかける。
その李傕と郭汜が揃って現れたのである。
汜水関より東の国々は震撼した。
四将軍の中で唯一、樊調だけは西の備えということで長安に残っていた。
張済を後詰として李傕、郭汜は舌なめずりをしながら荊州の最北部にある南陽を目指す。
南陽は後将軍である袁術の本拠地だ。
董卓としては代々三公(司徒・司空・太尉)を輩出する名門袁家の筆頭である袁術との講和を模索していたはずだった。
袁術は名門だけが持つ人脈だけでなく、孫堅らの精鋭を従え董卓に匹敵する武力も有していた。
董卓としては、味方の陣営に引き込みたかったのである。
ただ、今後末永く同盟を結んでいるつもりなど董卓には無い。
目論見としては袁紹と袁術を戦わせ傷付いたところを襲うという戦略であった。
そのために豫州刺史という餌をぶらさげた。
「二虎競食の計」
軍師である李儒の立てた策略であったが、こちらは代理戦争で終わる可能性が高くなってきていた。
孫堅が荊州の劉表を単独で攻めたことを知り、状況が変わった。
今なら袁術を叩ける。
袁術さえ潰せば、残る袁紹など屠るのは容易いと董卓は考えていた。
奇しくも西涼の雄、韓遂や益州の牧である劉焉との和睦が成った直後のことだった。
まさに好機到来というわけだ。
李傕ら八万がそのまま南陽に殺到していれば、あるいは袁術の首を獲れていたかもしれない。
しかし、そう易々とはいかない問題が董卓の陣営にはあった。
それが李傕と郭汜である。
この二人の傍若無人さは、頭領たる董卓ですら手に余るものであった。
ようは命令違反を犯すのである。
その大部分が指示されていない領土もついでに攻め込むというものだった。
そして鬼畜のような略奪を繰り返す。
李傕と郭汜の癖、ともいうべきものであろうか。
それには彼らの兵の統率のあり方が密接に係わっている。
彼らは自らの兵に決して退くことを許さなかった。
退却する者は斬り捨てた。
この異常な程の督戦ぶりが李傕、郭汜の兵の士気を限界まで高めていた。現に彼らの苛烈極まる突撃は未だ誰にも遮られてはいない。
一騎打ちの強さでは今は亡き華雄が最強を誇っていたが、兵を率いさせれば李傕、郭汜のほうが一枚も二枚も上手なのである。
そして彼らは略奪行為を兵に自由に許した。だからこそ兵たちは命がけで戦えた。
そういう点において二人は、飴と鞭を上手く使い分けている。
今回もそれに当てはまった。
防衛の厚い南陽に攻め込む前に、景気づけとして他国に侵入したのだ。
李傕が豫州の潁川、郭汜が兗州の陳留へと兵を分けた。同じ場所だと兵たちが争って略奪行為を働くので衝突が予想されたからである。
張済だけがその中間地点に兵を配置し、長安からの兵站の確保を行っていた。
和睦を進めている袁術にとっては、南陽に攻め込まれることが無い限り董卓軍と争うことは無い。
そのことも李傕を増長させた原因である。
だが袁術には袁術の都合があった。
いや、それが真の狙いだったのかもしれない。
袁紹との仲を取り持ってくれるようお願いし、冀州へ送り込んだ荀彧らの家族が潁川には住んでいる。
袁術は、さすがに見て見ぬふりはできない。
袁術にとって董卓との和睦よりも袁家のまとまりの方が大切であり、不安の種であった。袁家がひとつにまとまりさえすれば、血筋の低い董卓など恐れるに足らない相手だ。
そう周囲に喧伝した。
「潁川救出と袁家をひとつにまとめる」という名目のもとに袁術は早速、自ら出陣する決断を下し、紀霊、張勲ら兵五万を潁川に向けて進めた。
陳留の太守は反董卓連合の実質的な指導者だった張邈で、朋友の契りを交わしている東郡太守の曹操がいち早く援軍を出していた。
潁川と同じ豫州にある汝南では袁紹側から州刺史の印綬を受けた周昕と袁術側から受けた孫堅の代理戦争が勃発しようとしていたし、董卓の扇動された賊徒の群れが豫州の各地で暴れている。
洛陽に次いで豫州の地が火に包まれ、血の海に染まるような予感が誰にもあった。
荀家は荀彧の弟、荀諶が一族を引き連れ即座に河北へ向かった。その点において袁術軍無しでも荀彧の一族は難を逃れている。
同様にその近くに住んでいた郭図や郭嘉、辛評、辛毗などの名士がこぞって潁川を離れることとなる。
李傕の兵たちの狼藉はまさに空腹の狼の如きで、家々は焼かれ、女たちは凌辱された後で斬り殺され、子どもたちは生きたまま焼かれた。
潁川の郡兵はことごとく殺されたか逃げ出したかのいずれかで、李傕は遮る者無く、好き勝手暴れ放題であった。
袁術の兵が近づいてきたことを知ると、さすがに兵を整え、陣を敷いて迎え撃つ構えをした。
李傕の兵は二万、迫る袁術軍五万に比べると半数にも満たなかったがまったく慌てるそぶりも見せない。
袁術があっさりと董卓との和睦を蹴って、潁川に援軍を出してきたことにやや疑問を感じたものの、切り替えは早かった。
袁術の本陣が弱兵である。という噂が李傕に余裕を与えていたのかもしれない。
この時の袁術の布陣は以下の通りである。
大将(中軍) 袁術一万
副将(殿) 張勲九千
先鋒 紀霊、橋蕤それぞれ八千
中軍 雷薄、陳蘭、楊弘それぞれ三千
遊軍 楽就、李豊それぞれ三千
南陽郡やその周辺の豪族、部曲を寄せ集めた兵力である。
調練は未だ隊尾までは行き届いてはいない。
対するは董卓軍の最強軍団。
袁術の潁川を救う戦いが幕を開けた。
李傕、郭汜らも董卓軍の主力を張っていたということは、やはり強かったのでは・・・と思います。その残虐さも董卓の上をいっていたのでは・・・




