第3回 軍容
弱兵の袁術軍に最強の助っ人孫堅が合流。
第3回 軍容
各部隊への伝令役を務める閻象の報告を聞いたとき、俺はさもあらんとひとり納得していた。
この閻象という男は武芸の腕こそ凡庸だったが、兵を見、将を測ることにおいてはなかなかのものをもっている。洛陽を抜けるときは足手まといになると泣く泣く残ったが、俺が南陽に落ち着いたことを知り、後から単独で合流してきた。
「いけませんな。いけません」
それがこの男の口癖だった。この日はいつも以上に強い口調で、
「これはまことにいけません」
そう唱えながら俺の幕舎に入って来た。
「今日はどうした。腹の具合でも悪いのか」
料理の味付けから雲の流れまで、ありとあらゆることに難癖をつけるのがこの男の癖なので、大抵は話の大部分を聞き流すことにしている。
「袁術様はよくも呑気に飯など食べられておられますな」
「腹が空いては戦はできぬのでな。そなた、いつもに増して興奮している様子だがどうしたのだ」
「そのことです。実は我が軍のことでございます」
真っ赤な顔をして迫ってくる。
この男のことだからいずれは懸念のひとつも云って来ようとは思っていた。特に驚くこともない。
「ほう。我が精鋭三万がどうかしたか」
「精鋭?よくもまあそのような戯言を。我が軍の有様をご覧になられたのですか」
「いや。そちらは紀霊たちに任せている。問題があればあいつらが何か言ってくるはずだ」
「いけませんな。いけません」
大仰に首を振って持論を展開し始めた。
「まずは先鋒の孫文台殿の軍ですが、あれは確かに精鋭でございますな。しかしその数は二万の中でも三千あまり」
文台は孫堅の字である。
長沙を出陣した時は確かに三千の兵だったと聞いた。
北上し、立ち塞がる城を落とし、賊を平らげていく過程で一万七千ほど兵が増えたようだ。増兵も実戦の中で鍛えあげてきたと話していたが、やはり生え抜きの正規軍の三千と比べるとかなり見劣りするらしい。
しかし軍とはそういうものだろう。二万がすべて精鋭などあり得ないのだ。核となる三千が獅子奮迅の働きをすれば、その勢いで残りの兵たちも力を発揮するものである。
「さて、問題は我が軍です。孫文台殿の軍から精鋭を除いた残り一万七千の兵と比べても遠く及びません。行進はバラバラ。陣立ても無茶苦茶。将の指示が部隊全般に届ききっていません。烏合の衆とはまさにこのことでございましょう。あれではいけません」
想定内の話だ。
我が軍はにわか兵もいいところなのだから。だいたい結成して二ヶ月あまり、孫堅の参謀を務める程普にお願いをして兵の訓練をしてきたが、それでようやく少しまともになった程度だと聞いた。
将として兵を率いる者たちも未経験者ばかり。
千という大軍を率いるコツをこちらも孫堅の将を務める祖茂にお願いして教え込んでもらっている最中だった。
祖茂の話では、この中では張勲が将としての素質を一番持っているらしい。右腕を失っているものの、指揮には大きな妨げにはなっていないようだ。
紀霊は三尖刀の使い手で、一騎打ちでは呂布にもひけをとらない武勇を持っていたが、兵を統率するのはまた別の力を要するようである。しかし紀霊の騎馬隊は一番の活躍を期待されていた。
顔面に刀傷が残る橋蕤も左目に眼帯をして兵の訓練にあたっていた。根が短気で、これまでの訓練の中で動きの鈍い兵を三人ほど打ち殺している。どの部隊よりも緊張感が漂っているが、見たところ信頼関係はまるでない。兵たちが極端に委縮していた。
雷薄は弓隊をまとめている。こちらはまずまず。
楽就は口だけが達者で、この地域で勇名を馳せているという話も眉唾くさくなっていた。兵を動かしてもどうにも鈍い。
陳紀は旗本として兵たちの中から腕の立つ者を厳選して率いている。誰も彼も素晴らしい体躯をしているが、協調性に欠ける傾向が強い。旗本をまとめる陳紀に対しても威圧的な態度をとる者が多いようだ。
半分は野党の群れのような李豊、梁剛、陳蘭、楊弘の軍は動きこそいいが、互いに反目しあっていて下手をすると同士討ちになりかねない状態だった。
数こそいるが、実際はその半数の敵であっても討ち勝つことは難しい軍容であった。
閻象が愁眉を開いて進言してくることも無理からぬ話であった。
しかし俺は軍の強さなどというものに興味は無い。
董卓を排除したら洛陽の都に戻り、上級官僚として悠々自適に暮らしていくつもりだからだ。
その点、孫堅は違う。
黄巾の乱が盛んだった頃から自軍を率いて各地を転戦し、功名をあげてきた。旗下の三千の兵は実戦に実戦を重ねてきている。
各部隊を率いる者たちの中にも別格な力をもっている将が数名いた。
四天王と呼ばれている「程普、祖茂、黄蓋、韓当」は用兵の妙を極めており、また孫堅の戦のやり方を熟知している。この者たちが連携すると兵数の数倍の力を発揮するのだと孫堅が笑いながら話をしていた。
生来の戦好き。
それが孫堅であり、長沙の軍であった。
董卓軍の洛陽を守る防衛線である「汜水関」を東郡太守の橋瑁が攻めたのが三月も下旬のことである。
もともと反董卓連合はこの橋瑁の偽造した檄文が発端となって組織された。
今でこそ盟主となってふんぞり返っている兄の本初だったが、云いだしっぺは橋瑁なのだ。
しびれを切らして動いたのだろう。自分が動かねば誰も動かないと気づいたからかもしれない。
汜水関を守っていたのは中郎将の徐栄と李蒙である。
両将は颯爽と関を出て橋瑁の軍を迎撃した。
徐栄らの騎馬隊を前に甚大な損害を出した橋瑁の軍は撤退を余儀なくされた。
徐栄はそのまま関外、三里(1500m)の位置に陣を敷いた。連合軍の本陣である陳留郡の酸棗をいつでも突ける陣構えであった。
その数三万。
董卓の軍は守勢から一転、攻勢に転じたのある。
この魯陽にも軍を向けてきた。
董卓から陳留郡の太守を拝命してきた胡軫の兵二万。先鋒は董卓軍一の武勇を誇る華雄。後詰には騎都尉となった呂布がいるということを聞いた。
戦線が東西に長い董卓軍は台所事情が厳しいと連合軍の誰もが踏んでいたが、董卓はその予想を見事に裏切ったのだ。
徐栄・胡軫の軍合わせて五万の出陣は驚愕である。
後詰の呂布も一万を率いている。こちらはおそらく、すべての方面に援軍を出せる態勢なのだろう。
宴会続きの連合軍は慌てふためいた。
董卓軍が降伏するにせよ、撤退するにせよ、自分たちの優位、勝利を疑ってはいなかったのである
酸棗の本陣は陣構えもまともには組めていなかったのだ。
この時、徐栄の騎馬隊が一気に襲いかかっていれば壊滅していたかもしれない。
その窮地を救ったのが自称、奮武将軍の曹操である。
都にいた頃から兄の腰ぎんちゃくのように傍を離れなかった男だ。歳は俺と同じだったと記憶している。
兄と同じ西園八校尉として皇帝の旗本を務めていたが、董卓の台頭により兄とともに洛陽を出奔していた。
曹操の祖父は高名な宦官であり、曹操の父はその養子であった。
幼少期は、宦官の孫ということで後ろ指を指されることが多かった。
よく兄の命令を受けて小間使いのようなことをしていたのを覚えている。
洛陽から逃げ延び、陳留に戻ると曹操は全財産を投げ打って五千の兵を組織したと聞いた。
その五千が徐栄の陣を急襲したのである。
おそらくは兄の差し金だろう。
曹操軍が徐栄と戦っている間に、酸棗の本陣はなんとか態勢を整えた。
曹操軍は壊滅に近い損害を出して撤退。
ようは時間稼ぎだったわけだ。
董卓軍出撃の真相を知ったのは随分と後のことになる。