第3回 荀彧との問答
第3回 荀彧との問答
豫州刺史となった孫堅が荊州刺史である劉表の居城に向け南方から進軍している頃、当の豫州の地ではさらなる問題が浮上していた。
孫堅とは別に、朝廷より豫州刺史の印綬を受けた者が兵を入れたのである。
周昕という揚州、丹陽郡の太守を務めていた男で、朝廷との仲介役は冀州牧である袁紹であった。
帝は同時にふたりの者を豫州刺史に任命したことになる。
荊州北部の南陽にある袁術の陣営の動揺は激しかった。
袁紹が袁術の勢力拡大を妨害してきていることが明白になったからである。
豫州には袁家発祥の地である汝南があり、本家こそ洛陽に移り住みそのほとんどが董卓の手によって虐殺されていたが、分家はいまだ健在であった。
豫州を制することは袁家の基盤と人脈を制することになる。
袁術はこの一帯に精通している男を密かに南陽へと呼んでいた。
豫州において袁家に次いで名声の高い荀家の麒麟児、荀彧である。
斉の襄王に仕えた儒学者、荀子の子孫にあたり、多くの清流派の官僚を輩出している家柄だが、荀彧自身は現在、董卓の横暴により無官の徒である。
「お久しぶりでございます袁将軍。ご活躍は潁川にまで届いております」
歳は三十になろうとしているのに表情は溌剌としており、未だに青年の生気を発している。
「文若(荀彧の字)よ、お主に折り入って聞きたいことがある」
「袁将軍のご要望とあらばいかようにも」
そう答えて片膝をついた。
かつて袁術が南陽の太守に掛け合い取り立てた恩を荀彧は忘れてはいなかった。
「豫州の刺史として周昕という男が来たと聞いた。何者じゃ」
「丹陽の太守だった男です」
「なぜこの時期に豫州刺史に?」
荀彧は片目を閉じ、片目を開いてこちらを見た。
昔からの癖である。
話の背景に複雑な要素が絡んでいるときは必ずこういった仕草をするのだ。
「豫州は現在、数万の賊徒の侵入を受けています。たんなる山賊の部類から黄巾の残党、土地を捨てた流民まで多種多様ですが、それらがなぜかひとつにかたまり狼藉を尽くしています。しかし、肝心の刺史である孫堅は劉表に戦を仕掛けている状態。これでは豫州の地が荒れるばかりと袁紹様が配慮されたと聞き及んでいます。」
「表向きの話はな。で、本初(袁紹の字)と周昕の関係は?」
「曹操をご存じでしょうか」
「曹操?兄の腰ぎんちゃくだった男だな。小癪にも洛陽へ一番乗りをしよったが。それがどうした」
「今では東郡の太守でございます。黒山賊を打ち破ったばかり。精鋭揃いとの噂ですが、その兵の多くは当時丹陽の太守であった周昕が提供したものです。山越の異民族を含めた一万の兵を差し出したとか」
「その見返りというわけか……本初、曹操、周昕と繋がっているのは間違いないな」
「おそらくは劉表までかと」
そう云って荀彧は両目を閉じた。
「話は変わるが、お主の一族の荀攸は未だ長安で囚われたままと聞いたが」
荀彧は両目を開き、
「董卓の悪逆非道の振る舞いに対抗するのは儒士の本懐。仮に膝を屈しても志は常に董卓の遥か頭上にございます。獄死は荀家の恥ではありません。公達(荀攸の字)も本望でしょう」
荀家は典型的な儒教官僚であり、仁と義、忠と孝の志を持ち、皇室の発展にその身を捧げる尊い一族であった。その中でもこの荀彧と囚われている荀攸は際立っている。
「董卓は豫州を餌に二虎を争わせ、傷付いたところを倒す企み」
「二虎……俺と本初のことか。」
「袁将軍と袁紹様のどちらにも正式な豫州刺史の印綬を届けさせていることでしょう。話し合いで解決するような問題ではなくなってきております。」
「董卓と手を切れといいたいのか文若。兄弟仲良く手を取り董卓に立ち向かえと?」
「弱輩ながらこの荀彧、帝を補佐し、正道の政を行おうとする方のためであれば粉骨砕身働く所存でございます。袁将軍には献帝をお迎えするお気持ちがおありか」
荀攸の身を解放する代わりに潁川の荀家の力を借りようという目論見は放棄せざるを得なかった。そのような小細工では荀彧は動かない。
董卓に真っ向から挑み、帝を解放する志を持たぬ限り俺に仕えることはないだろう。
「豫州を攻めるは下策にございます」
「袁家が分れて戦うことは無い。俺が正式に家督を継げば袁家はまとまり、必ず元の漢皇室を取り戻すことができよう」
「豫州は放棄すると?」
「孫堅がそれをすまい。豫州に蔓延る賊徒を退治し、平穏を取り戻すであろう」
「劉表を攻めながら豫州に兵を割くのですか。袁将軍も援軍を?」
「いや、表立っての援軍は出さぬ。洛陽にいた頃に対立していた侠の一団がおってな。その首領が劉勲というのだが、近ごろ俺の旗下に入れてほしいとねだってきている。ならず者を率いて五千で汝南に留まっている。働きによっては取り立ててもよい」
「北平の公孫瓉の兵も近づいてきていると聞きます」
「ほお。どこで聞いた」
「避けるべき戦にございます」
両者が口を閉ざしてじっと見つめ合った。
「文若よ、兄のもとへ行ってはくれぬか。お主の言葉には熱がある。俺と兄の凍てついた関係も溶かすことができるやもしれぬ。たのむ。豫州から手を引くよう説得してくれ」
荀彧は黙って袁術を見つめる。
「承知致しました。袁将軍には献帝をお迎えする準備を進めていただければと思います」
「ああ。そうしよう」
「青州に黄巾の残党の本陣がございます。その数百万。それが飢えたイナゴのように北の渤海、西の兗州に迫っております」
「百万の賊徒……まことか」
「冀州の牧、袁紹様はきっと公孫瓉と曹操を使ってこれを食い止めようとするでしょう。曹操から援軍の申し入れがあった場合はいかがいたしますか?」
「……援軍を向かわせよう。それで良いであろう?」
「ええ。承知致しました」
そう答えた荀彧の片目は閉じたままであった。
豫州の覇権を巡った争いは袁術のこれからの運命を大きく変えることとなる




