第2章 そして寿春へ 第1回 王耀と阿斗と貂蝉(初平二年・191年)
長安の陰に芽生える革命の華
第2章 そして寿春へ
第1回 王耀と阿斗と貂蝉(初平二年・191年)
「おい耀、私と貂蝉のどちらを取るのだ。早く決めろ!」
娘は胸を張って少年に詰め寄る。
娘は虎のようにキリリとした目つきだが、頬は紅くまだあどけなさが残っていた。肩まで伸びた髪は二つに分け、それぞれを結んでいる。額が初夏の太陽に照らされ、眩しく輝いていた。
この娘、長安の都ではその名を聞けば泣く子も黙ると噂される中郎将、呂布の子女である。
歳は十二。父より弓や槍の手ほどきを直接受けていて、近所の悪童たちはこの娘ひとりに大方ねじ伏せられていた。たまにその少年たちを引き連れて狩に出たりする。
名は斗。父である呂布や祖父と慕う司徒の王允からは阿斗と呼ばれていた。
阿斗に迫られているのは、王允の家に住む少年で、名を耀という。王允の孫で王耀と呼ばれていた。歳は阿斗よりもふたつほど上で、この初平二年(191年)の夏に十四となっていた。
まだまだ身体つきは細く、声も虫が鳴くように小さいが、容姿は端麗で気品が漂っている。
阿斗の話に出た「貂蝉」というのも王允の孫で歳は十一。伎楽の才に恵まれており、曲を奏でることも曲に合わせて舞うことに関しても都で随一と評判であった。
「またその話かよ。俺はまだ十四で嫁を取る予定は無い。何度も云っているだろう」
王耀が困惑した表情でそう答えると、阿斗はしばらくその顔をじっと見つめていた。やがてプイとそっぽを向き、ずかずかと王允の屋敷に入っていった。
ため息交じりで王耀がその後を追う。
「貂蝉。貂蝉はどこだ!」
阿斗が館内全体に響き渡るような大音量で貂蝉の名を呼んだ。
召使いはおろか館の管理責任者たちも怯えて何も云えない。
阿斗の父である呂布は天下無双の武勇を誇るだけでなく、敵にも味方にも容赦の無い男で知られている。王允の館の者でも数人がその刃にかかって命を落としていた。
「あら、お姉さま。いらっしゃっていたのですか?」
部屋から飛び出してきたのは春の花のように華麗な貂蝉であった。満面の笑顔で阿斗を迎える。
ふたりは生まれた時から共に育ち、姉妹同様の間柄であった。
「ほら、土産だ。貂蝉の欲しがっていた遥か西方から伝わった笛だよ」
そう云って阿斗が貂蝉に小さな包みを手渡した。すぐに包みを開ける。
「素敵な笛……ありがとうお姉さま」
「父上と西涼を旅してきた。貂蝉は知っているか?あそこには砂しかない世界が広がっているのだ。砂漠と呼んでいた」
「砂漠……」
「ああ、見渡す限りすべてが砂だ。生きている者も動物も植物も無い。すべてが砂の世界」
「不思議な世界……見てみたいわ」
「いつか連れて行ってやる。それより早速、吹いてみてくれないか。貂蝉の音を楽しみにして急いで帰ってきたのだ」
そう云って阿斗は銀で装飾された椅子に深々腰を掛けた。
貂蝉が横笛に手をかける。窓から吹いてくる風が貂蝉の腰まである髪を揺らす。瞳を閉じて笛を口に当てた。長い睫毛、細く長い指、桜の花のような唇。
やがて珠玉の音色が室内に流れた。
阿斗もまた静かに目を閉じて至福のひと時を楽しんだ。
王耀は少し離れた廊下から微笑ましくその様子を窺っていた。
彼にとっても二人は妹同然である。都が東の洛陽にあった頃からずっと一緒に育ってきたのだ。
細い影が王耀の後ろに立った。
「田豊か。どうした宮廷で何か変わったことがあったのか」
王耀は振り返らずにそう話しかけた。視線はずっと室内の阿斗と貂蝉に向けられている。
「お別れを告げに参りました。私はこれから冀州へ赴きます」
「冀州?なぜだ」
「袁紹様が韓馥から冀州の牧を譲り受けました」
「伯父上が州牧に」
「袁紹様は本格的に北平の公孫瓉と雌雄を決するお心の様子でございます。助力するよう命を受けました」
「父からか……」
「はい。今後、耀様の警護・相談役にはこの者が」
するりともうひとつの影が田豊の横に立った。幾分小さい。
「名は?」
初めて王耀が振り向いた。
若い青年が真っ直ぐな瞳でこちらを見返してきた。ふっくらとした肉付きの男で笑顔に好感が持てる。
「今後、直答を許す。名は?」
再び問われて男はようやく重い口を開いた。低音の落ち着きのある声で、
「魯粛と申します。今後、御傍に仕えさせていただきます。宜しくお願いしたします」
慇懃に頭を下げた。
「都のこと、これからのこと、すべてこの魯粛に伝えてあります」
田豊がそう云うと、魯粛が力強く頷く。
「驚いたな、父が伯父上の手助けをするとは……。公孫瓉はそれほどに手強いのか」
早速王耀は魯粛にそう問う。
魯粛は即答せずに少し考えてから、
「当初、袁紹様は大司馬である劉虞様を新皇帝に据えようとされましたが、正統な皇帝である証である玉璽が無いことを理由に固辞されました。一方で公孫瓉は劉備という青年を新皇帝に祭り上げたのです。なぜか公孫瓉は玉璽を有しておりました」
「父が裏で手を回して伯父上のところに行くべきだった玉璽を公孫瓉に横流ししたという噂もあるが」
「さてさて、噂は噂に過ぎません」
「田豊は助力と言ったが、密偵の間違いでは?」
「王耀様、言葉にして良いものと悪いものがあります」
「魯粛と云ったな。お前はなぜここに来た」
「耀様にお仕えするためでございます」
「どうせ父から別命も受けていよう。何をしに来た」
「他にはなにも。ご子息の身を案じられてのことでございます」
「フン。それが言葉にして良いものか。とんだ狸だな」
「そうそう……お父上様は耀様と呂布様のご息女との御婚姻についても気を配っておいででした。斗様がお生まれになったときに許嫁の契りをお交わしになったと聞いております」
「なるほど。せかしに来たか。まあいい。何かあったら呼ぶ。それまではしゃしゃり出てくるな。田豊、これまで世話になった。達者でな」
「ありがとうございます。若様の御健在をお祈り致しております」
ふたつの影がすっと消えた。
王耀は貂蝉の音色に耳を傾ける。
この幸せなひと時が長くは続かないことを王耀は予感していた。
魯粛は何かを仕掛けに来たに違いない。
この長安を騒がす種を植えに来たのだ。
そして気が付けばそれが董卓の政権を覆す大樹に育っているはずだ。
否が応でも自分や阿斗、貂蝉もそれに巻き込まれていくのだろう。




