第2回 魯陽への着陣
第2回 魯陽への着陣
董卓は人臣の最高位ともいえる「相国」となった。
漢の全てを掌握することになったのである。
そこに至る道筋として董卓はまず少帝を廃し、異腹の弟を新皇帝に立てた。
董卓による完全な傀儡政権の誕生である。
また、党錮事件によって長く迫害されていた清流派の子孫を登用し、政に係わる役人たちを一新した。
宮廷は董卓に恩を感じる者たちで溢れた。そして董卓の意見は尊重され政は独占されることとなる。
おおよそ兄の本初が描いていた筋書き同様の運びとなった。
董卓の台頭により失脚した本初にとっては絵にかいた餅で終わったが、董卓は断固とした姿勢でそれを実行し実現させたのである。
俺は見事な戦略と実行力に感心したと同時に、董卓の背後に蠢く影の正体も見えた。
おそらくは司徒である王允の差し金に違いない。
彼は、宦官や外戚、軍部による政治の腐敗に激しく抵抗していた。
王允はその巧みな話術を用いて、宦官の筆頭である十常侍を唆し当時の大将軍であった何進を暗殺させ、また兄の本初に吹き込んで今度は宦官を一掃した。
本初はその後で都を牛耳る腹積もりであった。
王允ともその約束を取り付けていたに違いない。
袁家は四世三公を輩出した名門であり、宦官を粛清した功績があれば当然そうなる。
しかしそうは問屋が卸さない。王允にはさらなる奥の手があり、それが外部の将軍を都に引き入れて操縦する策だった。
董卓はわずか三千の兵しか率いていなかったが、宮廷を脱出して行方がわからなくなっていた小帝を保護し、堂々と都に入った。
誰も異論を挟めぬ状況を作り、亡き大将軍何進配下の兵を吸収したのである。
初めは董卓の天運の強さを妬んだものだが、今考えれば運では無いことがはっきりとわかる。
少帝を匿っていたのは王允だったに違いない。
そして事前に呼び寄せていた董卓に手渡した。
おおよそ推測はつく。董卓に渡すまで少帝を警護していたのは呂布だろう。あいつは主君である并州刺史の丁原よりも王允に懐いていた。
父とも慕っていた。
それは俺も同じことだったが……。
見事に王允の描いた図面通りに事が運んだわけである。
現在、政治の中心にいるのが司徒王允だと聞いた。相国の地位に就いた後も董卓は王允にだけは頭が上がらないという。
俺も本初もまんまとしてやられたわけだ。
この国に強い柱ができれば、未だに各地で燻り続けている黄巾の乱も鎮まっていくに違いない。
亡びの道を進んでいると目されていた漢帝国もこれでずいぶんと寿命が延びたはずである。
すべては王允の活躍だ。
救国の英雄。
しかし、この後味の悪さはなんであろうか。
踏み台にされただけではなく、肉親を殺された。
強く結びついてきた友を殺された。
国とは、政とは、そんな憎しみと犠牲の上に成り立つものなのだろうか。
騙されたと気づいたときの本初の怒りもまた計り知れない。
怒りと恨みの感情をなんとか取り繕いながら、以前より息のかかっていた東方の国々に次々と伝令を出し、本初は「反董卓連合」を組織した。
名目などなんでもよかったのだろうが、臣下の分際で帝を廃した点を強く抗議し、董卓に洛陽の都から退去するよう連盟で勧告したそうだ。
当然の事ながら交渉は決裂し、武力による全面戦争となった。
今年、初平元年(西暦190年)1月に連合軍は組織され、打倒董卓の包囲網が誕生した。
洛陽の北方、河北からは冀州牧の韓馥。
東方の河内からは渤海太守である兄の本初。
河内太守の王匡。
陳留郡の酸棗からは兗州刺史の劉岱。
陳留太守の張邈。
その弟である広陵太守の張超。
東郡太守の橋瑁。
山陽太守の俺の従兄である袁遺。
そして南方の魯陽からは俺と長沙太守の孫堅。
この全員が一斉に洛陽を攻める手筈になっていた。
十五万の兵を抱える董卓としても長安より西、涼州に乱の兆しがあったし、益州には皇族の流れを受ける劉蔫が不気味な沈黙を保っているのでそちらへの守りも必要だった。ようするに董卓の支配地は東西に大きく伸びており、非常に守りにくい状態である。
連合軍の主力部隊が配置されている東の陳留方面に割ける兵力は三万ほどだろう。対して連合軍は合計して二十万近くになる。
圧倒的な兵力差だった。
盟主に仰がれていた本初にとって、後はいかに兵を損耗しないで勝利するかしか頭になかっただろう。
囲んでおけば董卓は嫌でも撤退するしかないのだから。
布陣されてからも長期間、敵軍との衝突もなくいたずらに時を費やすに至ったのも無理からぬ話だった。
一万の兵を南陽に残し、俺と孫堅の軍三万が魯陽に着陣したのが連合軍の中では一番遅く三月のことだ。
その間の二ヶ月余り、戦端が開かれる兆しはなく、各陣営はすでに勝利を掴んだかのように日々宴会に明け暮れていた。
だが、董卓の兵は騎馬を巧みに操り、精強果敢な武人揃い。
そう易々と董卓が降参するとは思えなかった。
何より董卓の陣にはあいつがいる。
若き日より友として交わってきた、あの戦の申し子、呂布奉先が……。