第15回 李儒の策略
今回は陽城を包囲する董卓軍のお話です。
第15回 李儒の策略
孫堅が立て籠もる陽城を囲んだ董卓軍の大将である陳留太守、胡軫の決断は早かった。
と、いうよりも当初から描かれていた筋書きのひとつを指でなぞっただけのことである。
胡軫、涼州の生まれで、字は文才。
西方の辺境の地で羌族と戦うこと数十回。騎馬隊の指揮に優れ、寡兵であっても果敢に敵に突撃を繰り返し、これを破り武名をあげた。
陳留太守の役は張邈が名士を厚遇した董卓によって任じられていたが、張邈は袁紹と結託し、反董卓連合に名を連ねたため代わって胡軫が太守を拝命したのである。
無論肩書きだけでは任地を支配できない時代である。張邈を討たない限り胡軫は董卓の一部将に過ぎなかった。
胡軫が陽城を囲んだ時には、すでに董卓は洛陽から長安への遷都を実行に移していた。董卓によって担ぎ上げられた新帝の身柄も同様である。
西は涼州から中央の洛陽まで董卓軍の支配区域は東西に長く伸びすぎ、防衛線の維持が困難だったからである。
特に涼州の地は異民族である羌族の侵入の脅威に晒されていたし、その力を背景に反乱をたびたび繰り返し割拠する韓遂らの一大勢力もあった。
長安の南の漢中には、益州に覇をとどろかす劉焉が数万の軍勢を揃えつつあった。
当面は董卓軍の主力である四将、李傕、郭汜、樊調、張済をもって西の鎮護にあたっている。
つまり関東に力を注いでいる余裕がないのが今の董卓軍の現状であった。
しかし、洛陽を放棄するにしてもそこを関東の反乱軍の拠点にされては長安の防衛に支障をきたす。洛陽の民と洛陽の富を根こそぎ長安に移す必要があった。
言うは易し、行うは難し。
百万の民、膨大な財の移動と輸送は容易くはない。数ヶ月の時間を要する難題であった。
関東の反董卓連合に向けられた胡軫や徐栄の軍の最大の使命はこの前代未聞の作戦が無事に完遂されるまでの言わば「時間稼ぎ」である。それまではなんとしても汜水関までで敵を食い止める必要があったのだ。
兵の数で劣る董卓軍であったが、関東軍は戦意が鈍く、諸侯の思惑が複雑に絡みついて足を引っ張りあっているため、打つ手はいくらでもあった。
そしてこれまで打ってきた手はことごとく成功してきたのである。
ここまでの筋書きを描いたのは、董卓の娘婿である李儒という男だった。
長安への遷都も画策したのは李儒であった。
李儒は地方に千を超える密偵を放っており、諸侯の事情に精通していた。
董卓軍にあって唯一の軍師と呼べる存在である。
南から北進し汜水関を目指す袁術に対し、胡軫を向かわせるだけではなく、西から張繍の騎兵五千を密かに出撃させ、荊州刺史である劉表と結託してその補給線を断った。
袁術の軍は弱兵であり、先陣の孫堅さえ日干しにすれば南は抑えられると見ていた。
胡軫の軍はその後、迂回して陳留の酸棗に居座る反董卓連合の本拠地を攻める手筈になっていた。
ここまでいけば時間稼ぎどころではなく、集まった反乱軍をほぼ壊滅まで追い込んだことになる。
李儒の目論見以上の成果であった。
一方で袁術軍の補給線を断つことに失敗した場合は即座に汜水関に退き、徐栄の軍と合わさり、全軍をもって寄せ手に対することになっていた。
汜水関への攻め口は狭く、反乱軍は数を恃んで攻めることができなくなる。
数年は耐え忍ぶことができる計算だった。
この場合、洛陽からの遷都が完全に終了した暁には、残る一切を焼き払い、反乱軍の拠点として活用できなくするという役目も負っている。
要するに胡軫はこの地で勝つか負けるかといった一か八かの戦いなどする必要がなかったのである。
陳留太守の任を放棄せざるを得なくなるが、これも李儒が手を打っていて、代わりの役職を用意してくれている。
対連合軍の司令長官である李儒は部下たちに迷いなく決断できるよう配慮も怠っていなかった。
陽城を囲んだとき、胡軫は李儒に云い含められている配陣をした。
孫堅が死力を尽くして攻勢に転じた時、破れるか破れないかの瀬戸際の厚みで北門を固めたのである。
そしてその囲みを孫堅軍が突破したとき、北東にある丘から精鋭である華雄の騎兵が一気に突撃を仕掛ける。
囲みはそのまま鶴翼に開き、敵軍を飲み込む。
孫堅の首を獲る必勝の一手である。
孫堅は勝つことに執拗にこだわる男だった。
そして戦に勝つことで名声を高めてきた。
兵糧が尽きても南に逃げ去るようなことはない。
必ず起死回生の突撃を仕掛けてくるはずだと李儒は読んでいた。
胡軫もそうだと思った。
しかし孫堅はここまで耐えてきた。
突撃すれば北門の囲みは破れる。そのままの勢いをもってすれば胡軫の首も獲れるかもしれない。汚名を雪ぐことができるのだ。
なぜか、その誘惑を孫堅は必死で我慢している。
ここまで孫堅が動かないのは意外であった。
孫堅の気勢を制する部下がいるのかもしれない。
南から袁術軍の援軍が到着したという報告が入った。
補給線を断つという作戦は断念せざるを得ない。
援軍は騎兵四千だけだという。弱兵だそうだ。
しかし油断はできない。おそらくは包囲を継続させるための策略だろう。
騎兵の到着以前に千の歩兵の姿を見たという報告も入っている。
魯陽からは密かに三千の歩兵が出陣したようだ。
さらに南の本拠地である南陽からも援軍が送られているかもしれない。
荊州刺史の劉表も表立って反董卓連合に戦はできない立場にある。
袁術は全軍をこの陽城に集結させてくるだろう。
時をかけると後退に手間取る恐れがあった。
輜重隊が到着した以上、孫堅も兵を休ませてからの戦いを選ぶであろう。
数日は孫堅と云えども動きがとれない。袁術の全軍が到着するのはさらに時がかかる。
その間に本陣から順次、汜水関に退く。
本命とも云える時間稼ぎは充分にできた。
もしかするともう汜水関を守り抜かなくてもいいかもしれない。
だとすると、袁術や孫堅が汜水関に到着した頃には洛陽は火の海に包まれているはずだ。
董卓軍の大勝で幕を閉じるのである。
胡軫らは悠々と長安の都に凱旋することができる。
胡軫が撤退を決め、本陣から先に包囲網から離れたとき、陽城の北が騒がしくなった。
南から囲みを破って城内へ進むと思われた援軍の騎兵四千が北門を攻め、城内からは孫堅軍が北門を開いて突撃してきたのである。
撤退の命を受けてはいるものの、華雄の騎兵は未だ、未練たらしく丘の頂上で突撃の機会を窺っていた。
包囲している兵たちにも順次撤退の指示が届いている。こちらは大きく戦意が落ちていた。
李儒の策に撤退を決めた後で即座に追撃をされる場合は想定されてはいなかったのである。
ここに至って初めて胡軫は想定外の出来事に困惑することになる。
そして、孫堅の首を垂涎の的としていた華雄が動きつつあった。




