第8回 魯粛と曹操
四方を敵に回した曹操だが、袁術・劉備と和睦し、皇帝奪還を計画する。
曹操軍においてあらゆる方面の主役は曹操自身であった。
第8回 魯粛と曹操
<地図>
河北(冀州)
_____黄河________________
長安 洛陽 陳留(兗州) 東郡(兗州)
南陽(荊州) 潁川(豫州) 下邳(徐州)
襄陽(荊州) 汝南(豫州) 寿春(揚州)
_____長江 ____________
曲阿(揚州)
暴虐の限りを尽くした董卓がかつて遷都を強行し、洛陽より富と財のすべてを運び込んだという新都・長安。
今、この長安は二大勢力がしのぎを削っていた。
大司馬である李傕と後将軍の郭汜の二人のことである。
共に幼き頃より董卓に将来を見込まれ重用され、董卓の後継者として争った競争相手ではあるが、もともとは苦楽を共にした幼馴染だ。
董卓亡き後の天下のかじ取りをするには自分独りでは確かに不安である。
辺境の地で生まれ育った二人には都の風習や礼儀作法もわからない。かつ宮中の儀式などまったくの無知。
そんな不安も手伝って、当初二人は息を合わせて宮中を支配してきたのである。
反抗的な官徒は、どんな名士であってもことごとく処刑し、宮中はおろか長安の都で逆らうものはいなくなった。
「これはこれは奥方様、このような場所までお見送りいただき、ありがとうございます」
人の好さそうな笑顔を浮かべて何度も頭を下げている商人がいる。その正面には豪華な服装をした中年の女性と召使いが数名。何を隠そう、この中心に立って商人に頭を何度も下げられている女性こそ後将軍・郭汜の正妻であった。
この正妻、郭氏は生来嫉妬深く、特に夫の女性関係には病的なほどうるさい。
郭汜ほどの権力者ならば少なくとも十名ほどの妾がいてもおかしくないのだが、この郭氏がそれを許さないのである。
郭氏の実家は董卓の血筋に連なるので郭汜も頭が上がらない。妻のお陰でここまで出世てきた経緯があるので、邪険には扱えないのである。
「しかし奥方様、大司馬様は本当に恐ろしい方です。己が頂点に立つためには手段を選びません」
商人は誰かに聞かれでもしたら拷問・磔にされるような文句を平然と口にした。
郭氏以外は顔を青くして下を向いている。
「確かに李傕様は傍若無人な御方。しかし、我が夫とは旧知の仲です。夫と手を取り合っている間は滅多なことは起きませんよ」
郭氏は笑いながらそう答えた。
「それが問題なのです……いえ、私のような者がさしでがましい……これにて失礼致します」
商人はそそくさと逃げ帰るようにその場を後にしようとしたが、郭氏が呼び止めて、
「子敬(魯粛の字)殿、何を云うのです。ここまで郭家のために尽くしてくれたそなたの言葉、私はいかような内容でも受け止める覚悟です」
「しかし、こればかりは……」
子敬と呼ばれた商人は額にかく汗をしきりに拭きながら、おどおどしている。郭氏はそれを見かねて、
「しかとおっしゃりなさい。もしこの話が他に漏れたのならば、ここにいる使用人どもは全員首を刎ねましょう」
その言葉を聞いて召使いたちは余計に青ざめた。
「後将軍様の武力が長安一なのは誰もが知っている自明の理。それゆえ大司馬様も御味方につけようと必死なのです」
「夫の武勇が李傕様よりも上なのは太師様(董卓)も御認めになっていたこと。それ故、李傕様も好き勝手できない状態なのです」
「しかし、そこを己が天下にしたいのが大司馬様ですぞ」
ここで子敬は声をひそめた。奥方は余計に気になり耳をすます。
「李傕様が勝手に政を治めるというのならば夫にも考えがあります。そうたやすくは李傕様の天下は訪れまい」
「そこで大司馬様は奥の手を使ったのです」
「奥の手……なんぞそれは」
子敬はここで一端、郭氏から目をそらして空を眺めた。青空に鷹が一羽飛んでいた。
郭氏はさらに焦らされて、
「なんぞそれは。私には聞かせにくい事柄なのか」
「いえいえ、ご厚意にさせていただいています奥方様に隠し事など、この子敬にできようはずもございません」
「では、云いなさい」
「実は女のことです」
「女……」
その単語を聞いて、郭氏はすでに顔から火が出るように怒り始めていた。
子敬は下を向いてほくそ笑んでから、
「後将軍様が奥方を愛し、妾を取らないことを大司馬様はご存知です。いくら女を与えようとしても後将軍様はお断りになっておりました」
「う、うむ。そうであろう。そうであろう。して?」
「郿城を後将軍様に譲ると言い出したのです」
「な、なんと郿城を、我が夫にか……それは……何とも」
郿城は今は亡き董卓が贅に限りを尽くして建立した酒池肉林の城。城内には全国からかき集めた美女が千名は住んでいる。
董卓が亡くなり、革命が起こったときにはこの郿城は守られており、李傕らが長安を落とした後も手付かずな状況が続いていた。
郿城が暴君董卓の象徴であったからである。
無論、李傕は喉から手が出るほど郿城をわが物にしたいが、それ以上にこだわっているのは天下であった。郭汜の武勇は今や長安一。郭汜を押さえておけば李傕に逆らう者はいなくなる。そのために李傕は郿城を利用しようとしていた。
「もちろん郿城に住む美女千名も一緒です」
「な、なんと……」
そこからはさすがの郭氏も絶句してしまった。正妻だけの生活から、一瞬で妾千名を抱える大所帯になってしまうのだ。
「しかしながら奥方様、このような噂も聞きました」
「な、なんじゃ……」
郭氏の心はここに非ずといったところであったが、ここで話が終わったのではわざわざこの会話を危険を犯してまでした意味がなくなる。子敬は唾を飲み込みながら、
「千人の美女の中には大司馬様の手の内の者も混じっているというのです」
「李傕の女がか……」
郭氏もいつの間にやら李傕を呼び捨てにしている。もともとは李傕よりも董卓の血族である郭氏の方が格上だったのだ。
「太師様もその手の者に暗殺されたという噂もあります」
「なんだと!そのような戯言……」
「わかりません。わかりませんが、大司馬様の野心は天へ昇る龍よりも高くあります。私は奥方様が心配なのです。もし後将軍様の身に何かあったらと思うと……それ故、命をかけて申し上げました」
子敬はそう言って涙を落とした。郭氏もわが身を思う子敬の心に打たれて涙を流す。
「わかった。ここは私が夫に忠告しよう。何、李傕如き、我が夫の手にかかれば首を抜きさることも容易いことよ」
「それは心強いお言葉。この子敬に何かお手伝いできることがあればいつでもおっしゃってください。手兵を率いて郿城に侵入いたします」
「そうか。私の方こそ心強い味方を得た。頼むぞ子敬。また会おう」
そう言って互いに今後の約束を交わしてその場を離れた。
「うむ。うまくいった。これで李傕と郭汜の離間は成るはず」
道すがら薄ら笑いを浮かべながら子敬は先のことを想像していた。
「おい、商人。お前の売っているものはなんだ?」
子敬に急に声を掛けてきたものがいた。背は低いが威圧感がある。見覚えがあった。しかしその男がここにいるはずもない。
「どうした幽霊でも見たような顔つきだな。子敬よ、お前の売っているものを残さず俺が買おう。いくらでも銭は払うぞ」
「もしや、曹操様か?」
「おう。さすがは子敬。顔を見てすべて納得がいったか?」
「今は売っているものはありませんぞ。この魯粛、今は商人ではござらん」
魯粛は先ほど以上の汗をかいて必死に答えた。
曹操はもと宮廷で西園八校尉として袁紹らとともに皇帝警護として活躍した人物である。やがて董卓に逆らい、洛陽を飛び出し、今では兗州の牧。東の群雄割拠の中心人物であった。
無論、李傕とも正面から戦いを繰り広げている。
その曹操自身がこの敵地の中心にいるというのだ。
さすがの魯粛も信じられない。
「子敬よ、貴様の握っている天下を俺に売れ。俺がその天下を見事まとめてみせよう。今よりもはるかに自由で活気に満ちた世界を俺が創ってくれる」
曹操はそう云って微笑んだ。
久しぶりの更新になりました。
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